シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

レニー・ブルース

米コメディ界のひとりウーマンラッシュアワーことレニー・ブルースのドロドロの生き様に軽く感銘を受けたよ~。

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1974年。ボブ・フォッシー監督。ダスティン・ホフマン、ヴァレリー・ペリン。

 

実在した毒舌コメディアンの栄光と転落の人生をコッテリと描いたさくひん。

 

ウィッス、チッス、おっはよー、としか言いようのない太陽が今日も今日とて昇っているよねええええええええええ。
腹たつなぁ。
毎朝毎朝、当たり前みたいな顔して昇りやがって、太陽め。
言うとくど。それ…当たり前と思うなよ?

私が思うに、おそらく太陽には「オレが人民どもを照らしてやってる」という驕りがあるんだよ。「朝という概念はオレありき」って。絶対思ってるよな、あいつ。
まあ、間違っちゃないんだけどさ。太陽が昇ってこその朝だと思うし、太陽が昇らなければ「おはよー」も言えない我々だし、世界は闇に包まれるんだし…。
でも、だからといってテングになるのは違うわな?
「オレが人民どもを照らしてやってる」みたいな上から目線の驕りって、有名人にとっては命取りだと思うよ。もう、そういうのが通用する時代じゃないし。だから多分、そろそろSNSでも叩かれるようになるんじゃないかな、太陽も。
「みんなが眠い目こすって出勤・登校してるのに、燦々としすぎ。オラオラ系の上司すぎ。パワハラ」とか、「夏場の日照時間ながすぎ。月を虐げすぎ。性差別」とか。
あと、そうね。「アツすぎ。松岡修造」とか。絶対言われると思うで。

そりゃあ、太陽をテングにさせたのは我々人間ですよ。太陽信仰とかやって。
太陽を勘違いさせるような我々人間の思わせぶりな行動はいっぱいあります。太陽の塔は作るわ、「イケナイ太陽」はオリコン3位に輝くわ、杉浦太陽は辻ちゃん射止めるわ。
地上の人間がこんなことしてるんだから、太陽がチョケるのも無理からぬこと。

でもね太陽? 聞いて太陽?
毎朝毎朝、当たり前みたいな顔して昇ってはダメです。このご時世「昇らせて頂く」くらいの謙虚な心持ちが大事なんです。今はラジオでの不用意な発言ひとつで、しつこくバッシングされるような時代なんです。全員ヒステリーで、ピリピリしてるんです。
だから、自身の発言には何でもかんでも「~頂く」を付けて、炎上しないように立ち回らないといけないのです。あ、でも太陽は元から炎上してるか。まあ炎上商法も芸能界を生き抜くための一つの手段だけどね。
うん。気持ちはわかるよ。まったく、バカみたいな時代になったわな。でも業界を干されたくなかったら、慎ましく人民を照らすこと。カンカン照りはやめること。8月のキミに期待しています。
燦々テレビジョン社長・ふかづめより

はーい。そんなわけで本日は『レニー・ブルース』です。
社会風刺で一世風靡したコメディアンの自伝映画なので、それに倣ってさっきは「夏+風刺」というコンセプトの前書きにしてみました。くだらね。でもまぁ「杉浦太陽」を出せただけでも良しとせねばね。本日はカチカチにまじめ寄りの批評なので、そういう時ほど前書きでフザケとかんと。くだらね。バランス考えながらブログ書いてるオレ。くだらね。

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◆言論型戦闘民族レニー・ブルース◆

 歯に衣着せぬ攻撃的なトークで人気のあったスタンダップ・コメディアン、レニー・ブルースの伝記映画を観た。なぜかって? 退屈な夜を潰すためさ。

レニーは差別発言や性的隠語を用いてアメリカのタブーを斬り続け、いきすぎた毒舌ゆえに公然猥褻罪で逮捕されたコメディアンである。
レニーの風刺芸は大いにウケたが、当然ながらネタの俎上に載せられた体制側の人間はそれを快く思わず、ナイトクラブでは毎晩のように警察隊がレニーのショーを監視していた。「一言でも禁止用語を言ったら逮捕してやるぞ」と目を光らせながら。
1964年に再び逮捕されたときは、アーサー・ミラー、ノーマン・メイラー、ゴア・ヴィダル、ウディ・アレン、ボブ・ディランら各界の著名人が請願運動を起こすほどレニーの社会的影響力は大きかったが、それゆえに生活は困窮を極めた。度重なる裁判の費用や、ノリで結婚したストリッパーの妻ハニー・ハーロウ(演:ヴァレリー・ペリン)との泥沼離婚調停…。

 やがて酒と麻薬に溺れるようになったレニーは狂気の世界にはまり込む。本人訴訟ができるほど法律の勉強に入れ込んだことで芸風は一層の社会性を帯び、ステージ上では新聞や判例集を朗読して「この国に言論の自由はない!」と半狂乱で訴える。
政府やメディアを猛攻撃するというウーマンラッシュアワーみたいな方向にいったのだ。
もはや漫談ではなく演説とさえ言えた。言えすぎた。
そしてハリウッド・ヒルズの自宅を差し押さえられた1966年8月3日、モルヒネの過剰摂取で死亡していたところを発見される。
没後、レニーは「言論の自由の象徴」とされ、2003年にはロビン・ウィリアムズやマーガレット・チョーらコメディ俳優たちの請願により、生前の有罪判決に対して恩赦が与えられたという。

f:id:hukadume7272:20210512005422j:plain言葉で社会を撃ったレニー・ブルース。

 レニー・ブルースを演じたのはダスティン・ホフマン。ニューシネマの残り香ただよう本作にはお誂え向きのキャスティングだ。私は実際のレニーを知らんが、おそらく話し方や一挙手一投足に至るまで徹底的に似せたであろうメソッド・アプローチは感じられる。ホフマンしてるなぁ、って。
 ちなみに本作は全編モノクロです。メソッド俳優による全編モノクロの伝記映画…という共通点から連想するのはマーティン・スコセッシ×ロバート・デ・ニーロの『レイジング・ブル』(80年) 。しかもスコセッシの次作は『キング・オブ・コメディ』(82年) と、さらに本作へと接近する。
マーロン・ブランド以降のアクターズ・スタジオ勢がアメリカ映画を牽引していた時期特有の熱波がじりじりとフィルムを焦がし尽くす、ポスト・ニューシネマな111分『レニー・ブルース』

 監督は、映画にもなったブロードウェイ・ミュージカル『シカゴ』の脚本を手掛けた振付師のボブ・フォッシー。振付師なので、基本は踊ってるヤツ。
その後『キャバレー』(72年) 『オール・ザット・ジャズ』(79年) といったミュージカル映画を手掛けたのち1987年に死んだ。

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ニューシネマ俳優の筆頭、ダスティン・ホフマン。

◆嫌悪のピンボール◆

 映画はセミ・ドキュメンタリー調で進行する。
元妻、母親、劇場マネジャーら関係者が生前のレニーとの交流をインタビュアーに語るという具合で、その隙間を縫うようにダスティン・ホフマン演じるレニーの私生活やパフォーマンスが過去回想の体を取りながらシャッフル気味に織り込まれていくわけ。

スクリーンの皮相には、燦々たるスポットライトの光芒が祝福というよりは試練に近い厳しさでホフマンを照射し、真っ黒な客の塊に向かって口八丁手八丁でジョークを飛ばしまくる姿を虚しく浮かび上がらせる。人を笑わせるために必死になる姿とは成程なかなかに滑稽で、そこにはどこか人間としての尊厳を切り売りしながら喝采を浴びているような、ある種の痛々しさがあった。その表象は、スポットライトが残酷にも捉えた汗と唾である。
喋れば喋るほどに、流れ、伝い、飛び散る体液。
汗のために前髪はクッタリと額に張りつき、シャツの襟に至っては泥の中で朽ちゆく兵士のように汚れている。あまつさえ、薄暗いホールにおいては客の顔もロクに見えず、まるで闇に向かって言葉を発し続けているような虚しさが漂う、哄笑も拍手もまばらな笑劇空間。
その空間に耐えながらポスト・ニューシネマの熱学に忠実たらんとしたダスティン・ホフマンのタフな存在感だけが我々にとっての唯一の救いである。本質的には一人芝居の人なんだろうな。ダスティン・ホフマンって。

f:id:hukadume7272:20210512005935j:plainダスティン・ホフマンの独壇場。

 ところが、持ち前のジョークに社会風刺を取り入れたあたりから、やおらこの男に追い風が吹き始める。
イタ公、ユダ公、ニガーとあらん限りの蔑称を連呼して洒落のめす毒舌漫談は、しかしレニー自身がユダヤ系アメリカ人の出自であることから自虐ネタの一種として戦略的に露悪され、また大衆の自覚なき差別意識を喚起/挑発するものであり、たとえばモラリストの客が示した嫌悪感やブーイングはさながらピンボールのように自身に跳ね返ってくるというギミックの上にシステム化されている。
あー、例えばそうだな。某コメディ映画に「この俳優は身体障害者を模しているように見える。差別だ!」と批判したヤツがいたけれど、もしその俳優が模してなかったら? お前さんのその印象論、「身体障害者を模している」という決めつけこそ差別ではないの? という。

畢竟、差別ネタというのは“人を差別するネタ”ではなく“差別についてのネタ”という意味で、それに対して無前提的に顔をしかめるような客は人種偏見というもの自体に対して偏見があるってことだ。
で、そういう奴らの欺瞞を暴くことこそが差別ネタの真骨頂。客を挑発し、批判的なリアクションを煽ることによって墓穴を掘らせるというシニカルな構造。ある種の人たちを故意に怒らせることで、世間一般の人たちに“怒ってる人たち”を晒して、それ自体を笑いにしてるのよね。
だから俺たちも、誰かの言動に目くじらを立てる前にいちど立ち止まってみたいよね。ひょっとすると「そう言わせるための罠」に誘い込まれてるかもしれんからな。

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◆暴力的俯瞰 ~レニーは逃げて~◆

 ロックな映画は好きだ。
『レニー・ブルース』は洒落っ気がなく、誰にも媚びていない。当時の空気感を再現するような意匠はどこにもなく、終始インダストリアルなトーンで統一されたショット群は無骨でありながらもどこか神経症的で、同じく神経症的なダスティン・ホフマンとよくマッチしている。

とかく言葉に従属した作品は画が止まりがちだが、その点ブルース・サーティースの撮影は見事と言わざるをえない。後期ドン・シーゲルと初期クリント・イーストウッドを手掛けたカメラマン…と補足するだけで十分だろうが、もう少し語っておくとサーティースはアップとロングだけで映画が撮れてしまうカメラマンである。
特にクレーンやヘリコプターを使った俯瞰撮影の触覚性は、主人公が立っている地上をあたかも井戸の底のように錯覚せしめ、どれだけレニーが裁判による心労や経済的困窮から這い上がろうがクレーンショット一発で再び井戸の底に叩き落としてしまうのだから無情だよな(誰もが記憶に残しているであろう『ダーティハリー』の競技場シーンもそうだった)。
この暴力的なまでのクレーンショットと対になるのは、かかる非情な撮影者の思惑とは無縁のところで生きている劇中人物の幸福なアップショットだが、こちらとしては次にいつクレーンショットが来るかと気が気じゃないので、景気よくジョークを飛ばしながらアップショットにおさまる主人公に、観る者は思わずこう叫ばずにはいられないのです。

「レニー! クレーンから逃げて!」

とはいえハリー・キャラハンが宿敵スコルピオを見下ろすアオリで決着をつけた『ダーティハリー』の方が遥かにクールなのだけど。あれはシビれる構図だったもんなー。


 それにしても、レニーが逮捕されるきっかけとなった“コックサッカー”発言も今となっては一般的に使われている隠語だし、実に皮肉なもんだわ。「言葉」を趣味に持つ私にとっては実に見応えある作品でした。
ちなみに昨今、SNSとかで流行りの「誰も傷つけない○○」みたいなコモンセンスに関しては「糞でも喰ってろ」とだけ申し上げておきます。

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