シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

リコリス・ピザ

押しの強い半デブと同じこと2回言う女がロスの街を駆けまわる。~70's西海岸ノスタルジーたっぷりめ~


2021年。ポール・トーマス・アンダーソン監督。アラナ・ハイム、クーパー・ホフマン。

押しの強い半デブと同じこと2回言う女が巡り合い、すれ違い、巡り合う!


映画評の話にも繋がるんだけど、昔っからそうで、物事を単純化して考えるのが苦手だ。
極端な話「1+1=2」というのが未だにわからん。“理解”はできるが“納得”がいかんのだ。
そも「1とは何なのか?」という疑問から始まって、「なぜ足す必要があるのか?」とか「足さずとも括って数えればいいじゃない」とか、「1+1と2って本当にイコールなの? まあ結果としてはイコールなんだろうけど、1+1は1+1じゃない?」とか…、とにかく色んな難癖をつけながら「1+1=2」であることに疑問を感じる。というより、疑問を感じていたい性分で、だから自分の感じてる疑問がタダの屁理屈であることも重々承知の助。
とどのつまりは簡単に理解したくない。
より正確を期すならば、物事を簡単に理解した気になるような単純な人間で在りたくないという願望が、自ずから我が身を屁理屈禅問答へといざなうのであろうなぁ~~~~~~~~。
この文章にしてもそう。「よく考えたら1+1=2ってふしぎだよね~」とポップに言えば済む話を、無駄にこまっしゃくれて、まだるっこしくて、読むのが面倒臭いようなガチャガチャガチャガチャした文章でわざとお送りしてええええええ!!!

8ヶ月前に、ある知人からなんてことのない質問をされた。
「ふかづめさん、好きな動物なんですか」
おれは答えた。
「犬と象」
知人は言った。
「犬、かわいいですよね!」
横にいた知人Bがウフフと笑った。
「象もかわいいですよねえ」
おれは返事した。
「まあ、そうね」
そこで話は終わった。
は?
普段、人がする、なんてことのない世間話なのだろうが、もうなんか…話の内容があまりに単純すぎて逆に理解できなかった。
え。今のなに。この雑談の意図がわからない。わからなさすぎて、怖くなって「おれ、いま、ルート分岐しくじったんかな」と思って、反省さえした。
何ひとつとして疑問を持つ余地がなさすぎる雑談に対して逆に疑問を持ったというか。
でも世間の人民って、大体こんな話をしてるんだろ? 今みたいな話をして楽しんでいるのか世間の奴らはあッ!
そう考えると、自分がひどく情けなくなる。アホみたいにシンプルな「1+1=2」に対して「なぜ足す必要がある!」とか「本当にイコールなん?」とか、いちいち噛みついて。この世の理とケンカして。

でも、だからこそ、私は映画批評なんかやってます。
たとえば、そうね、光属性最強のモンスター「単純化の神、ソレダケノ・コトヤン」なんてヤツがいるとして、残念だったよね、映画批評はオレの性分にうってつけだった。
『批評』とは、人々がせっかく単純化した物事をわざわざいちいち複雑化して、もっぺん人々を困らせる作業である。
わかるか?
想像してみろよ。まず「作品」があるよな。天才が作った意匠満点の作品。映画でも文学でも音楽でもいい。これはひどく複雑だ。なんせ天才が作ったもの。よくわかんねえ。
よくわかんねえから、人は単純化する。基本的に大衆というのはバカで騙されやすいから、えらい奴らが売上、受賞歴、キャッチコピーなんかで「こんなにスゴいんですよ!」と誇示する。誇示された瞬間、作品は“商品”と化す。バカな大衆は「そんなにもスゴいのか!」とか「どんなにもだ!?」と喰いつく。これが単純化。意匠もヘチマもない。キュウリもゴーヤもない。ただの商品だ。
そのツラの皮を『批評』で引っ剥がす。
いちど単純化されたモノを本来のややこしさに還元し、ややこしいモノをややこしいモノとして言語化する、ただただややこしいだけの言論活動である。
うってつけだよ。
オレは頭が悪いから、難解なモノを理解する能力はまるっきりないが、単純に見えるモノをどこまでも難解化するヘリクツの武器庫だけは充実してる。レトリックだ。その煙玉だけは、ようさん持ってる。
あ、オレのターンけ?
ドロー!
闇属性最強のモンスター「難解化の神、コンナニモ・ヤヤコシイヤン」を召喚するッ!
攻…しゅ…
守備表示!!!
まあ、何が言いたいかっつーと、1+1が2であることをスッと受け入れて、すんなり理解して、スッキリ消化できてしまえるようなヤツは本来的に映画など観る必要がないっていうか、映画なんて面倒臭いもん観なくても十分幸せに生きていけるから映画だ文学だ音楽だなんだってそんな修羅場はオレたちに任せてHOME MADE 家族の「サンキュー!!」でもコンポで流してハンバーグ食っとけ、って話なんだよね。
どういうこと?
知らねえよ。
自分でも自分の言いたいことがまったく分からないし、そもそも論旨なんて始めからなかったのかもしれないんだよ?
オレは帰納法とか演繹法で物事を結論づけることが苦手なのかもしれねー。酒飲みながら文章書いてるのは言い訳にはならねー。いつも、やなぎやさんとか、DrOkinaくんとか、ああいう奴らから頂いてるコメントを読むたびに「短い文章の中で理路整然と!」と感心するのだが、正味、ああいうタイプの頭のよさには一寸あこがれるよね。10言いたいことを1にして伝える論理力っちゅーの? 思考パワーっちゅーの?
ほんま、かなんわ。オレは10言いたいことを100にして、そっから50引いて、そのあと2で掛けて「結局100やないか」ゆうてオチつけて、しょうもない文章ダラダラダラダラぁあああああああ!!!
困ったらすぐ絶叫して。
すぐスーパー行って、なんか見て…。
そんなこんなで、長文という名の煙玉で「あれ? 長々と付き合うて読んだけど、なんやこの結論。本来のコイツの趣旨、なんやったかいな? まあええか。ふかづめの文章て、いつもこんなんやしな。もうええわ」ゆうて思わして。
いっつもそうや。
なんの意味もない単純な話を、わざとややこしくして。読みにくくして。オレはいつだってそうや。だから、ありがとうな。
ありがとう。

次回! 「単純化の神、ソレダケノ・コトヤン」に勝機を見出した遊戯の希望を打ち砕くように、闇のデュエリスト・ふかづめは自らのライフポイントを削る代償に「難解化の神、コンナニモ・ヤヤコシイヤン」を墓地から召喚した。ヤヤコシイヤンのぶきみな守備表示を警戒する遊戯…。それと呼応するように、コトヤンの陰に隠れるクリボーの不安げな顔つき! 睨み合う両者のあいだに突如現れた仲裁の神とは!?
『遊戯王 デュエルフカヅメーズ』、第979話「現るる審判、ドッチモ・ドッチヤン」。 
来週もデュエルしようぜ!
そんなわけで本日は『リコリス・ピザ』です。



◆70's西海岸ノスタルジーたっぷり青春譚◆

 ポール・トーマス・アンダーソン―映画マニアの間では「PTA」という略称が通じるか否かで同族かどうかを確認しあう…という合言葉みたいな男の最新作『リコリス・ピザ』を観た。
観たんだが、てっきりキャメロン・クロウの童貞映画かと思ったわ。『初体験 リッジモンド・ハイ』(82年) 『恋しくて』(87年) 『セイ・エニシング』(89年) …。この辺の80's青春映画を彷彿させる内容だったからだ。
PTAの恋愛映画といえば、一部に熱狂的なファンを持つ『パンチドランク・ラブ』(02年) が思い出されるが、今作はどちらかといえば70~80年代のロサンゼルスを舞台にポルノ業界の光と影をルポした『ブギーナイツ』(97年) に近い。なぜなら本作もまた80年代のハリウッドを舞台に、まるでクリスマスケーキのうえの砂糖菓子人形のように実在する業界人をアクセントがわりに登場させまくる“映画業界の内幕劇”だからである。

物語は単純。ワンセンテンスで説明しよか。
1970年代のロサンゼルスを舞台に、高校生の男と10歳年上の女が互いに気のある素振りを見せながらも告白する勇気を持てぬままビジネスパートナーとなり事業を展開するうちに様々な映画人と交流を持ち、ときに仲違いしたりショウビズの生贄に捧げられそうになりながらも最終的には真実の愛に気づいてチューするまでの物語…である。
主演はアラナ・ハイムクーパー・ホフマン
アラナ・ハイムは三姉妹ポップ・ロックバンド「HAIM」の末っ子。そしてクーパー・ホフマンは2014年に46歳の若さで急死したPTAの常連俳優フィリップ・シーモア・ホフマンのせがれだ。
二人とも映画初出演。お世辞にも美男美女とはいえない二人が、すれ違い、衝突し、フェイントを掛けあう恋のすったもんだを、70's西海岸ノスタルジーたっぷりの映像と、ドアーズ、デヴィッド・ボウイ、ポール・マッカートニー&ウィングスといった郷愁をくすぐる音楽にのせて鮮やかに描きあげた。

アラナ・ハイムと・クーパーホフマン。

 1973年のロス、サンフェルナンド・バレー。
学業と並行して俳優業もこなすホフマンは、ある日、卒業写真のカメラマンアシスタントをしていた年上女性のアラナ・ハイムに一目惚れし、運命がどーのこーのとくだらない言葉を並べた。ホフマンは頬の赤い半デブであったし童貞でもあったが、幼少期から現在までコンスタントに俳優業を続けてきた経歴の持ち主ゆえか、やけに自信と根性があり、女の子にも臆せず話しかけられる“押しの強い半デブ”だった。だから運命がどーのこーの言って年上女性をナンパすることなど、夕闇の路上でつばさを怪我したカラスを捕まえるよりも簡単な事柄だったのである。

一方のアラナは、自己実現を求めて片っ端から扉を開けていた。今はたまたま「カメラマンアシスタント」の扉を開けたはいいが、どうやら探し物はなかったようで、そんな折にホフマンから話しかけられたものだから、彼女にとってはこれも“扉”。いかがわしい扉でも開ければどこかに通じるかもしれないが、開けなければどこにも辿り着かない。
だから彼女はホフマンという扉を開けた。がちゃり。ホフマンは思いのほか愉快なやつで、しかも時たまこちらをドキドキさせてくる。嬉しい不意打ちよ。けれども私は10歳も年上。こんなへちゃむくれの小僧に惚れたとあっては女が廃る。こういうときってイイ女を演じた方がいいのかしら? オーライ、やってみましょう。夕闇の路上でつばさを怪我したカラスを捕まえるよりも簡単な事柄。オーライ、やってみましょう。
二人で話すうち、ホフマンはふとあることに気づく。アラナは同じ言葉を繰り返す女だった。
「私が同じ言葉を繰り返す? そんなわけないわ。同じ言葉を繰り返す?」

ある日、ニューヨークでテレビ収録する仕事がホフマンのもとに舞い込んできた。普段はホフマンの母・マママンが保護者として同伴してくれていたが、今回ばかりは急な仕事が入ってこれないという。そんなわけでアラナに保護者役を頼んでの事実上のニューヨークデートを実現したホフマン。
ここから物語はスルスルと進んでいくが、これ以上紹介しても何の意味もないし、オレとおまえの大事な時間が夕闇の路上に吸い込まれていくだけなので、もうよそう。


距離を縮めるアラナとホフマン(見つめ合うと素直にお喋りできない。津波のような侘しさにアイノウ怯えてるふー)。

◆映画人むちゃむちゃ出てきよる◆

 面倒臭い話は先にしておくか。
本作には実在の映画人をモデルにしたキャラクターが多数登場する。
まずホフマン演じる主人公はゲイリー・ゴーツマンがモデル。こいつは子役を経て、ウォーターベッドやピンボールの販売などさまざまな事業を手がけたあとにハリウッドのプロデューサーになった男だ。そこでプロデュースしたのがPTAが私淑しているジョナサン・デミの代表作群。すなわち『羊たちの沈黙』(90年) 『フィラデルフィア』(93年) だ。 
PTAはデミ作品に影響を受けている。だから本作ではデミの右腕として多くのデミ作品に関わったゲイリー・ゴーツマンをモデルにしたというわけだ。

一方、アラナにはモデルがいない。強いていえば当時ロスに多かったであろう“将来を模索して手広く活動してる遮二無二ヤング”を十把一絡げに象徴化した存在だろう。
そんなアラナがウォーターベッド事業の手伝いに嫌気がさして女優を目指し始めたのは蓋し自然の道理といえる。なんたってここはロス。映画の都ハリウッドなんだものね。その地で彼女はさまざまな業界人と出会います。
つまるところ、アラナは“ヒロイン”であると同時に“さまざまのキャラクターを登場させるための呼び水”なのである。

そして登場するのがショーン・ペン。ここ10年は有象無象の映画に2~3分顔出しするだけで有難がられる“人生あがり状態”の名優ね。
そんなショーン・ペン扮するジャック・ホールデンという名の映画スターはウィリアム・ホールデンがモデル。私が選ぶ『映画男優十選』において4位を射止めた実績をもつ。彼が「トコリ! トコリ!」と叫んだり、女優業に興味を示したアラナに「君はグレースだ」と褒め殺すくだりは『トコリの橋』(54年) が小ネタになっているのだろう(ウィリアム・ホールデン主演作。ヒロイン役はグレース・ケリー)。
そんなショーン・ペンと大酒を喰らい、真夜中のバイクチェイスで大喜びしていたトム・ウェイツ演じるイカれた映画監督の正体はサム・ペキンパーと思われる。時代背景を鑑みるに『ゲッタウェイ』(72年)『ガルシアの首』(74年) の前後、かつウィリアム・ホールデンを『ワイルドバンチ』(69年) の主演に使った男だからな(答え合わせしてみたが多分あってると思います。よかった。沽券に関わった~)。


ウィリアム・ホールデン役のショーン・ペン。

そうそう。ホフマンとアラナにウォーターベッドの組み立て設置サービスを依頼した映画プロデューサーをブラッドリー・クーパーが演じていたよ。こいつはバーブラ・ストライサンドと交際しており、「彼女とはヤリ飽きた」と言い切るほどの女好き。
「誰だろう?」と思っていたが、のちに合点、ジョン・ピーターズがモデルらしい。あーはいはい。なるなるなるほど。バーブラといえば1人目の夫エリオット・グールドの印象が強かったのですっかり抜けてたわ。『スター誕生』(76年) でゴールデングローブ賞を取る前からスターだったバーブラ・ストライサンドと交際していたことでお馴染みのジョン・ピーターズね。なるなるなるなる。こいつの映画に青春を彩られたコンマさん世代の映画ファンも多いのではなかろうか。『スター誕生』をはじめ、『フラッシュダンス』(83年)『レインマン』(88年) 『バットマン』(89年) …。80年代にバカほど売れたプロデューサーだな。
だったら面白いぜ。
ジョン・ピーターズは『スター誕生』を世に送った。そんなジョンを演じたブラッドリー・クーパーは同作のリメイク『アリー/スター誕生』(18年) で監督/主演を務めている。だからB・クーパーがジョン役なのか、と腑に落ちるカラクリなのだな。

ほかにもさまざまな人物が、さまざまな関係性、さまざまな文脈を背景に登場するし、さまざまな音楽が鳴ったり、さまざまな映画への目配せがチラチラと行われるけれども、誰も興味ないだろうしオレも面倒臭いから間をとって割愛とする。

破天荒なP、ジョン・ピーターズをノリノリで演じたブラッドリー・クーパー。

◆PTAは撮っちゃう。そして意味はないけど駆けちゃう2人の結末って!?◆

 やっと映画の話ができる。概要紹介と小ネタ余聞だけで3000字近くも使っちまったじゃねーか。
これだから“映画好きに好かれる映画”は始末に負えないよな。オレは映画の話がしたいだけなのに、その本題に入るための事前情報・前提知識・補足説明を先に書かなきゃいけないって映画。間テクスト性ってやつ? 作品単体では自律しておらず、引用・パロディ・記憶の反芻…、いずれにせよ他作品との並行的関連性を横断してこそ輪郭を露わにするハイコンテクストな映画よ。

…と、さっそく話が脇道に逸れたように、本作もまた寄り道の多い脱線青春譚である。
PTAの映画って大体そうよね。本筋から大きく逸れちゃいないが、どこかフォーカスが合わないまま「そこ?」ってとこを執拗に描きこむ。ユダヤ人のアラナが安息日に彼氏候補のスカイラー・ギソンドを晩餐に招く場面や、殺人犯と間違われて誤認逮捕されたホフマンが警察署のベンチでただただ待たされる場面。あるいは映画女優を志したアラナがエージェントの面接を「Yes」だけで乗りきる場面など、観る者がおもわず「枝葉末節~」と発するほど枝葉末節と戯れている。
だからこの映画、134分です。
しかも体感時間は150分です(オレの体感ね)。
長ぇのよ。体感も実際も。

実はPTAってエピソード音痴でさ。

ジャームッシュやタランティーノなんかはエピソードの見せ方がうまいけど、PTAの場合はヘタの横好き。ヘタなのにやろうとする。台本自体はおもしろいんだけどね。役者の使い方もうまいし。
ではなぜヘタなのかといえば、答えは簡単。“撮っちゃうから”なんだよね。

PTAは撮っちゃう。

わかりやすく説明するな。撮らなくていいショットを撮ることで、いわば「ただのエピソードトーク」が絵になっちゃうわけ。サマになっちゃうわけ。サマにしなくていいのに。
たとえばホフマンがウォーターベッド事業に活路を見出す契機となったティーンエイジ・フェア(10代をターゲットにしたバザーみたいな催し物)の場面。ここでは、現場入りしたホフマンがさまざまなブースや人混みを掻き分けるようにして俗物で犇めくディスコと化した会場を突き進み、自身が展開するウォーターベッド販売のブースに辿り着くまでの様子がステディカムによる流麗な長回しで撮られているのだが…
いらねえよ。
サマになってもうとる。
なにサマにしてんだよ。ここではエピソードを「語るべき」であって、ショットを「撮るべき」ではないのよ。しかも綺麗~な長回しで。「わあ、計算された想定線と人物配置~」やあらへん。
要らんねん、ここは。
あまつさえ、ブースに展示されたウォーターベッドにはスケベな女が寝転び、煽情的な眼差しで通行人に商品をアピールしている。つまりホフマンが持つ潜在的な商才と、やがてアラナ以外の女に心移りするかもしれないという潜在的な浮気性が露出する…というのがこのエピソードの“オチ”なのだけど、それをステディカムによる流麗な長回しなんかで撮っちゃったら、単に「撮影技法がすごい!」って、そっちに目が散ってしまうでしょう? なんにせよ、エピソードが弱くなるの。
“技術は見せるもの”と信じ込みすぎね。
見せないのもまた技術。いかな素晴らしいショットといえど、めったやたらに撮っていいというものでもない。これが映画。むずかしいな。

たぷんたぷんするウォーターベッドの上で安らぎに浸るアラナとホフマン(巡り逢えたときから魔法がとけない。鏡のようなユンメの中で思い出はいつの日もあめー)。

事程左様に“外したショット”はいくつか散見され、その都度「うわぁ、今日も今日とてPTA~」と、相も変わらず巧いけど音痴っぷりにPTAのPT(パターン)に「A(あ)~」と感嘆する133分を私は過ごしてんで?
でも意外だったのは、ちゃんとアラナとホフマンを走らせてたこと。
序盤で1回、中盤で1回…と、“意味もなく一緒に走るショット”が挟まれていた。笑いながら二人でブゥワァ~駆けて。青春じゃん。ただ一緒にいれるだけで嬉しいんだろうな。恋ってそういうもんだろ? そういうもんだよ。その嬉しさがピークに達して、意味ねえけど思わず駆けちゃう。

「意味はないけども駆けちゃう~」ゆうて。
「私も駆けちゃう~」ゆうてな。

ありがとうな。

この、いまや形骸化しすぎて骨すら残らん小っ恥ずかしい映画記号ゆえにアニメのオープニング映像ですら見なくなった“無意味駆け”。これを今やるか。でも時代設定が70年代だから…むべなるかな。
そしてラストシーン。すれ違いの果てに真実の愛に気づいたアラナとホフマンは、互いを求めて夜のロスを駆けまわる。そして奇跡的な邂逅の果てに超ダッシュして抱擁するのだ。
図にするとこんな感じ。

「!」ホフマン→    ←アラナ「!」

   →       ←
   →→     ←←
   →→→   ←←←
   →→→→ ←←←←
   !!! パーン !!!

これをやれる勇気。
これが見れる僥倖。
この2つをクラウドに乗せて、きみとシェアできたらなあ!!!!
(疲れたので批評放棄)


ジャッカルのようにすばしこく駆けるアラナとホフマン(人は涙見せずに大人になれない。ガラスのような恋だとはアイノウ気付いてるっふー)。

(C)2021 Metro-Goldwyn-Mayer Pictures Inc. All Rights Reserved.