シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

銀座化粧

目まぐるしくおこなわれる主室と広縁のコートチェンジ ~和室に翻弄された男女はとうとう天体観測をする~

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1951年。成瀬巳喜男監督。田中絹代、堀雄二、香川京子。

昔の愛人・藤村との息子を抱え、銀座で女給をして生活する雪子。今でも藤村が小使銭を無心にやってくる有りさま。ある日、昔の仲間・静江から上京する資産家の息子・京助の案内を頼まれる。観測所に勤める京助の星の話などを語る朴訥な様子に、雪子は忘れていた少女時代を思い出してロマンチックな気持ちになり、京助と結婚して田舎へ住むことを想像するのだった。そんな中、息子・春雄の行方がわからなくなってしまい、京助の案内を妹分の京子に頼んで自宅へ急ぐのだった。程無く春雄は無事に見つかるのだが…。(Amazonより)


おっす、おっす。皆おはよう。おっす。
スパゲティーブランドで有名な「マ・マー」ってあるけど、あれ発音上はどうなるわけ?
「マ・マー」を口で発音した場合、なんとなく「マ…マー」「マッマー」になると思うんだけど、みんな普通に「ママー」って言ってるよね。
じゃあ「・」の立場は?
マとマの間に「・」があるじゃないですか。あれをどう処理するかという深刻な問題が僕たちの前に横たわっていると思うのね? それなのに、みんな「ママー」って発音して「・」をネグレクトしてる。あたかも最初からそんな子はいなかったように「・」を無視してるよね。村ぐるみで。
たしかに「ママー」と発音したくなる気持ちも分かるけど、マとマの間に「・」がある以上はネグレクトしてはいけないですよ。いっぺん「・」の立場になってみ。うわぁ、俺だけ抜かされてるやん…って寂しいきもちが、きっとするぞ。
ちなみに私は「マ…マー」も「マッマー」も言いづらいので「マミー」と呼んでます。
俺は俺で「マー」をネグレクトしてる。
あんな子は最初からいなかった。

そんなわけで本日は『銀座化粧』です。

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◆絹代、堀チャンスをモノとせんとするの巻◆

 溝口や小津に“映画”を観た者にとって成瀬巳喜男の小器用さはどことなく紙芝居じみており、そつなくページをめくりながら流麗な語り口で物語を紡ぐさまは、なるほど達意の名人芸として“それすら出来ない作家たち”を考慮しながらの拍手でも贈るのが筋だが、サァその瑞々しい画面の連鎖がいつまで続くのかと思えば、『浮雲』(55年) にしても『娘・妻・母』(60年) にしても120分を超える大作映画はほぼ例外なく進みゆく時間の中に希釈されダブついてしまうばかりか、ちょうど真隣で別の紙芝居をやっている黒澤のダイナミズムまでも却って際立たせる形となる。
両者の紙芝居合戦は女性映画の名手(成瀬)男性的な黒澤映画という対照構図で喧伝され、両者の意図せぬところで大衆映画の矮小な枠にはめ込まれてしまったがゆえに、溝口・小津・成瀬・黒澤を称した「日本映画四天王」なる語は広く浮世に浸透することなく、溝口・小津をもっぱらの別格として、その下位に(木下も含め)名を連ねることになったんでござんす。

 私の批評スタイルにおいて成瀬巳喜男は評価しづらい作家の一人だ。黒澤ほど分かりやすくガサツであれば、その出来次第で「いい意味でガサツ」と褒めることもできるし「単にガサツ」と貶すこともできるが、成瀬作品はきわめて性質が掴みづらい。褒めようと思えばいくらでも褒められるが、貶そうと思えばトコトン貶せてしまうような気がしてしまうので、結局のところ印象論に靡きがちなのだ。 
現に、同時代の作家群の研究が充実する中、成瀬巳喜男に深く切り込んだ批評は少ない(切り込んだ、と思い込んでる書籍なら沢山あるが)。
かくいう私も『めし』(51年) 『流れる』(56年) に思うところはあれど、長年「成瀬巳喜男を誤断しかねない」という恐れから口を閉ざしてきた恥多き映画好きの端くれなのだけど…もういいじゃんって。
成瀬、楽しく語っちゃえばいいじゃんって。
攻めなきゃじゃんって!!
そんなわけで、比較的語りやすい『銀座化粧』を観たよ~。これなら楽に語れそう。
攻めると宣言した端からガードを固めるおとこ。

 ネオン街から少しく離れた銀座の裏町。バーの女給・田中絹代は女手ひとつで幼い息子を育てながら夜の仕事に汗していた。
他方、戦後事業に失敗した三島雅夫は絹代を捨てたくせに金を無心する太々しき男。それでも旧恩の情から、ついつい絹代は三島に用立てしてしまう。
絹代の心の支えは、妹のように可愛がっている後輩の女給・香川京子と、戦中の疎開から東京に戻ってきたマブダチの花井蘭子
ある日、蘭子が疎開先で出会った資産家の次男坊・堀雄二が上京するというので、蘭子は堀の東京案内を絹代に任せた。男に不自由しない蘭子は、大親友の絹代に堀チャンスを与えようというのだ。
星座の好きな堀。ぐりぐりメガネの堀。ロマンチッカーとしての堀!
そんな堀と、東京案内という名のデェトを重ねた絹代は、かわいげを装って「あの星座はナンですか」などと訊く。本当は知ってるくせして。
そんな折、バカ息子の失踪を知って周章狼狽の絹代は、東京案内の続きを京子に頼む。するとどうだろう。一夜にして結ばれた京子と堀!

京子「知ってましたか、姐さん。堀さんってすごくロマンチッカーなんですよ。ぐりぐりメガネでもあるし。私すっかり気に入っちゃったナ」
絹代「ちょままま。私がキープしてた堀をなんで盗るの。どうして堀チャンスをモノにしちゃうの」
京子「エッ。まさか姐さんも、堀さんのこと…」
絹代「あじゃぱー」
京子「あじゃぱー」

とんだあじゃぱー沙汰である。
しょうがないので二人を祝福した絹代。息子も無事に見つかったことだし、今日も今日とてバーに繰り出します…。
f:id:hukadume7272:20210817061913j:plain田中絹代(右)と香川京子(左)。

 そんな感じの『銀座化粧』
デビュー間もない香川京子や堀雄二のフレッシュさも大変よいが、何といっても田中絹代であります。
戦前/戦後にかけて日本映画黄金期を築いた伝説的女優であり、日本初の全編トーキー映画『マダムと女房』(31年) で地位を固めると、溝口の『夜の女たち』(48年) 『西鶴一代女』(52年) 『雨月物語』(53年) 、小津の『風の中の牝雞』(48年) 『宗方姉妹』(50年) 『彼岸花』(58年) 、成瀬『おかあさん』(52年) 『流れる』(56年) 、木下『陸軍』(44年) 『楢山節考』(58年) のほか、市川崑の『おとうと』(60年) や黒澤の『赤ひげ』(65年) と、戦後日本映画にとって無くてはならないそんざいに。当くそブログでは過去に『彼岸花』『お遊さま』(51年) を語ってもいる。
 天女のような聖性を纏いながらも、その眼差しや独特の声による庶民感が奇妙なバランスの上に調和しており、ごくあっさりとした素朴な顔立ちは如何なる画面にもピタッと嵌る、まさに日本人俳優のお手本みたいな好人物といえるよねぇ。
そんな田中絹代が13歳年下の堀雄二を相手に再婚逆転劇を懸ける星座ロォマンス。北斗七星が不敵に光ってるゥ。

f:id:hukadume7272:20211009004533j:plain若き日の田中絹代。

◆ロマンスの星座ピカリの巻◆

 本作が他の成瀬作品よりも一頭地を抜いているのは、物語の主舞台として環境化された2つの場。
狭い路地裏に木造家屋が立ち並ぶ絹代の家と、彼女が勤める銀座裏町。基本的にはこの2つの場面転換だけで話は進んでゆく。キーワードは、どちらも裏の世界ということ。
銀座裏町には、大道芸人、流しの歌うたい、花売りキッズ、うなだれリーマン、さみだれ娼婦、くちぶえ乞食、さまよえる老婆、さまよえる犬…といった放埓人民が跋扈している。
一方、路地裏にある絹代の家では、来客だけでなく絹代自身でさえ勝手口や裏口から出入りしており、誰一人として正面玄関を使わない。
本作が“裏の世界に生きる女の物語”であることを成瀬は「環境化」する。
裏町、路地裏、裏の顔…。光はどこにも射しません。

 さて。初日の東京観光を終えた堀は、せっかく案内してくれた絹代には申し訳ないと断りながらも「どうも僕は苦手ですよ、東京ってとこ。刺激が強すぎるというのか、皆、いたずらにケバケバしく装って、化け物みたいな気がしますよ」と正直に感想した。
「僕なんかが銀座で暮らしたら、たちまち神経衰弱になってしまいます。貴女なんか、平気ですか」と訊かれた絹代は、思わず「はあ。わたくしなぞもダメですわ」と苦笑を浮かべた。堀に幻滅されることを恐れた絹代は、自分が銀座のバーで女給をしていることを隠していたのだ。
ここでの会話劇によって、“裏の世界”に生きる絹代に対して、堀が“表の世界”の住人であるという事実――ひいては決して結ばれない二人であることが示唆される。それは、かつて自身のバーで無銭飲食を働いたペテン男と東京案内の最中に銀座裏でばったり出くわした絹代が、自分の職業を堀に知られまいとするあまり執拗に謝罪してくるペテンを知らんぷりし続ける…といったコミカルな一幕にも顕れている。
 こうした家と職場の環境的対比は、説話装置としての機能/表象だけでなく、戦後間もない東京の風俗備忘録としての性格をも豊かに湛えていて、成瀬が40年代のスランプを断ちきり、本作以降『めし』『稲妻』(52年) 『浮雲』『流れる』といった秀作/傑作群を撮りえたブレークスルーたる“豪快な投げ技”として評価せねばなりません。作家論としての成瀬の美点は他にあれど、最もきれいにイッポンを決めたのは『東京銀座』。黒澤にとっての『羅生門』(50年) のように・ネ。

f:id:hukadume7272:20211008233936j:plain闇に生きる絹代、光の堀。

 東京観光シーケンスでは、ロケシーン以上に旅館で一息つく場面にこそ成瀬の腕がピカリ、光る。
成瀬の十八番、“視線=動態化”を使ったロマンス描写である。
ま、簡単に言うと恋のドキドキが動態だけで描かれてんの。
観光初日を終え、堀が宿泊する旅館に帰ってきた2人。風呂からあがった堀は、部屋に入るや否や広縁に腰掛け、主室の絹代と談笑する。風呂あがりの堀がわざわざ広縁まで行ったのは夜風で涼をとるためであろう。
しばらくして堀が主室の座卓に移ると、こんだ絹代が立ちあがり、広縁にもたれながら談笑を続ける。これは堀と至近距離で目を合わせることの照れから生じたアクションである。
すると堀がタバコを取り出したので、思わず絹代は火を点けてやるべく主室に移動してマッチを擦ったが、それが終わると再び窓辺の方に歩いていって星空を眺めた。これもまた至近距離で目を合わせることの照れから生じたアクションである。

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目まぐるしくおこなわれる主室と広縁のコートチェンジ。なかなか2人が1つのコートに入らない。ほっほーん。おもろいやないか。
一室の中に複数のエリアが分かれている和室文化ならではの日本建築ロォマンス!
おもろいっ。

したところ、タバコを吸い吸い、堀が絹代の横にピッタシくっついて2人で天体観測をするんである!

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見えないモノを見ようとして
望遠鏡を覗き込んだー
静寂を! 切り裂いて!
いくつも声が生まれたどっ

堀 「北斗七星がよく見えますよ」
絹代「あら。どこですの?」
堀 「ほら、あすこっ」
絹代「へえ!」

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明日が僕らを呼んだって
返事もろくにしなかったぁ
イマという! 箒星!
きみと二人追いかけたど!
オーイェーイェーッ
アハーン

バンプ・オブ・チキン・オア・ビーフの「星座観測」を聞いてもらいました。ありがと。
いいなあ~。
ロマンスの星座が、ぴかり光ってるなァ。

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 並の映画作家であれば、こういったシーンは「視線劇」といって男女の蜜月を言外の目配せによるカットバックで表現しがちだが、さすがは女性映画の名手。成瀬の場合は視線を合わせずに済むための動態によって女の心情を描きだす。
つまり絹代にしてみれば、自分は子持ちで、結婚にしくじった過去もあり、尚且つ相手は13歳も年下のロマンチッカー。惚れたが悪いかとはいかず、どうしても気後れしてしまうのが女心の自然。ちゅこって、わざと視線をそらすために堀から離れてみるのだが、そのつど堀は近寄ってくる。サァ追い詰められたは星空が見おろす広縁。

これぞ映画のロゥマンス!

わかるか。ラブソングみたいな甘い言葉でもなければ、ドラマや小説のような胸焦がす展開でもなく、もっぱら“視線=動態化”だけで淡き恋心を描破したナルセイズム。照れた女は、好いた男と視線を合わせないためにこそ動き回るのだ。
まるで将棋を見てるような錯覚に陥るよな。
風呂からあがって部屋に入ってきた堀と主室で迎える絹代を、どうにかして2人仲よく広縁で星空を眺めさせるまでの詰将棋だよ。
 畢竟、成瀬巳喜男を観るうえで重要なのは何気ない会話シーンだ。
何気ない会話の中で、多くのキャラクターが突然立ち上がったり、急に背を向けて窓辺に向かったりする。かと思えば不意に戻ってきて、またぞろ座したり、今度は相手が立ち上がったり。
この“動態”が言葉以上に饒舌なのだ。
そして相手の動態を追う“視線”。

わかるけ。視線と動態。この関係値の中でこそ成瀬作品の機微は醸成さるるのである。

◆書くことねえからギャグ添削の巻◆

 裏の世界に生きる女の映画とはいっても、溝口の『祇園の姉妹』(36年) やルネ・クレマンの『居酒屋』(56年) のような暗澹たる内容ではなく、大筋とは裏腹にずいぶんと愛想のいい作品だから読者諸君におかれてはひとまず安心してよい。
冒頭と結末で繰り返される“時計を見る”という通行人の所作が円環構造を使った気の利いたギャグになっているのがおもしろいし、とうとう堀と結ばれなかった結末にしても“失恋”というより“子育てを選んだ”という感覚をうまく残しているので後味がいい。
また、自称ギャグ研究家としては、絹代のバカ息子が「ぼく、科学者になりたいんだ。ノーベル賞とるんだ」といった言葉に対して、それを聞いた近所のおっさんが「おっさんなんか、ノーメル賞も貰えなかったよ」と返したギャグも楽しい。

「ノーメル賞ってなあに?」

「お酒ならいくらでも飲ーめる賞さ」

「なーんだ(笑)」

「はっはっは」

うるせえよ。

f:id:hukadume7272:20211009003630j:plain絹代の息子さん。あほみたいな顔してる。

ギャグといえば、行方不明になったバカ息子をご近所さん達が捜索するシーンでも一発放たれるが、こちらも非常に楽しいです。
「あの子、デパートにゾウでも見に行ったんじゃないかしら…?」と推理した近所のおばはんに、別の近所のおっさんが「そいつはゾウ(どう)だかわからねえ」といって首をひねる…という渾身のギャグである。

クソつまんねぇわ。

「ゾウ」なんて言葉はいくらでも掛けられるんだから、こういうときは別の角度から打ちにいった方がいいんだよ。
たとえばそうだな。まず、おばはんが「デパートにゾウでも見に行ったんじゃないかしら?」と来る。そしたら「絹代さんが知ったらパオンだよ」とおっさんが返して、すかさずおばはんが「それを言うならぴえんだよっ」と突っ込む連携プレーなんてどう?

あかん。全然おもんないな。

でも考え方は間違っちゃないから。そうそう。そういう事なのよ。「ゾウ」から「パオン」に繋げて、「パオン」から「ぴえん」に広げていく。連想ゲームだよ、こんなもんは。
もっとも「パオン」の返しは若干リスキーっていうか、そもそも相手が「ぴえん」という俗語を知らなければ「それを言うならぴえんだよっ」というツッコミが利いてこないので、いわば“突っ込まれることを見据えたボケ”というか、突っ込まれて初めて成立する相手依存のボケなのである。
相手が「ぴえん」というスパイクを打ってくれることを信じて「パオン」のトスを上げるわけ。
ぴえん知ってる読みパオン、なのだ。
まあ、このおっさんみたいに「そいつはゾウだかわからねえ」なんつって自分一人で点を取りにいっても構わんが、できれば連携プレーで落とした方が楽しさは倍増するし、場も和むよな。
アホの関西人はこういうことでしか他者との関係を築けないのです(ぴえん)。
この(ぴえん)はダメ押しね。すでに落ちきった所に弱めのボールをもう1発放つという貪欲プレーです。


ああ、何の話をしてたんだっけ。
そうそう。成瀬の『銀座化粧』は割合楽しいよって話ね。
第2章でがんばって映画論書いたから、この第3章の出来は許せね。ギャグの話ばっかりしちゃった。

f:id:hukadume7272:20211009003948j:plain香川京子が堀チャンスをモノにした。