シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

劇場版ポケットモンスター ココ

ほとんどの映画好きが見てるようで見てないモノ、それが背景 ~HAIKEI~。

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2020年。矢嶋哲生監督。アニメーション作品。

ココはポケモンたちの楽園、オコヤの森。
ココはソコにいた。「そう、俺はココ!」
ココの傍に一匹の猿ポケモン。ソコにいたのは、ココを育てたザルード。
「ココにいたのか、ココ!」
一方、オコヤの森を彷徨っていた一人の少年サトシ。
「ココはドコ!?」
ソコにココ現る。「ココ!」と自己紹介!
「だから、ココはドコ?」とサトシ!
ココは、ただ、「ココ!」
サトシ、「ドコ!?」
あーもう! 埒が明かないオコヤの森! 岡崎体育が音楽を手掛けた、劇場版ポケッツモンスツー最新作 『ソコ』!


どこおおおおおおおおおお
はい。そんなわけで本日はポケッツモンスツーですねぇ~。
シネトゥ読者にとっては外れ回ですね~。

誰が外れ回だコノヤロー!

失礼こきやがって! 謝れ!!
それはそうと皆、『ポケッツモンスツー アルセウス』してる?
あ、そう!?
俺のポケッツモンスツー見る?
俺のポケッツモンスツーはこんな感じ。

f:id:hukadume7272:20220217052618j:plainシャワーズとゴウカザル、仲よく寝た。

f:id:hukadume7272:20220217052612j:plainエレキブル以外みんな寝た。

f:id:hukadume7272:20220217052625j:plainエレキブル寝た。

いいゲェムですね。ポケモン達をことごとく寝かしつける『寝ルセウス』。
お父ちゃんは、おまえらの愛らしい寝顔をずっと眺めていますよ。すくすく育て。たくさん食べり。ポケモン共とじゃれ合うのが楽しくて一向にストーリーが進まん。

そんなわけで本日は『劇場版ポケッツモンスツー ココ』です。
今年2月にアマプラで見放題になったばかりなので満を持して更新します。ただし、記事自体は去年7月に書き上げたっきり放置してました。7ヶ月の眠りから今目覚める、ポケッツモンスツー ソコ!

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◆父と子の絆を描いたディズニー最新作◆

 『劇場版ポケッツモンスツー』を観たで~。
上記にて添付せし、わたくし渾身の「オリジナルあらすじ紹介」を読んでもいまいち理解できなかった…という0V糞個体皆さまのために、もう一度ちゃんとあらすじ紹介を書きたいと思うよー?
今、あなたと私は同じことを考えているでしょう。「なんだその二度手間は」と。
それでいい。それでいいんだ。

本作は、ジャングルに住む猿型ポケモンに育てられ、また自身もポケモンだと思い込んでいる人間の少年ココサトシと出会うことで人間としての自我に目覚めていく…といったヒューマンネーチャーな大筋である。
 ココを育てたのは「オコヤの森」に住むザルードというポケモン。
はるか昔から、オコヤの森ではザルードの群れが縄張りを作り、どんな怪我でもたちどころに治る「治癒の泉」を独占しては他のポケモンたちにいけずをしていたが、そんな中、一匹のザルードが川岸に流れ着いた人間の赤ちゃんを拾い、その子の父親になるべく群れを抜けることを決意…。
爾来、その子はココという立派な野生児になり、自分はポケモンで、パパザルードが本当の父ちゃんだと思い込んだまま、文明から隔絶されしオコヤでターザンさながらのジャングルライフを送っていた。
そこへ現れたのが、相棒のピカチュウとともにオコヤを彷徨っていたサトシ。「あー。憧れのポケモンマスターになりたいな。ならなくちゃ。絶対なってやらぁ」と豪語してかれこれ25年、一向にポケモンマスターになる気配もなく、ただ各地を散策してるだけの発奮ボーイである。

【サトシ情報1】
せっかく旅の過程で強くなっても、アニポケ(アニメ版ポケッツモンスツー)の新シリーズが始まるたびに前シリーズで培った知識や経験が逐一リセットされてしまうので永久にポケモンマスターになれない…という無限後退の幽閉者。

【サトシ情報2】
そもそも、こいつがしきりに唱える「ポケモンマスター」の定義が不明なので、本人が「俺はポケモンマスターだ!」と言いきって満足すればそこで話は終わる…という完全自己申告制の保険に加入している。すべてはサトシの匙加減。


さて。はじめて人間の友達ができたココは、サトシと共にアーバンな遊びをするうち、ようやく自分も人間だということに気づき、今まで真実を隠していたパパザルードを責め立てる。
サトシの協力を受けながら本当の両親を捜し始めたココは、オコヤの森を調査する研究施設「ビオトープ・カンパニー」の秘密に辿り着くが…?

f:id:hukadume7272:20210720222641j:plainサトシと共にアーバンな遊びをするココ。
アーバンな遊び=服買ってサーティーワンしばく。

ザッとこんな感じね。
ポケモン映画は毎年公開されてるのだけど、今回の『ココ』はTVシリーズから独立した『劇場版ポケットモンスター みんなの物語』(18年) で初監督を務めた矢嶋哲生が再びメガホンを取った長編2作目ということで、新規ファン獲得へ向けてポケモン25年史を一度すべてリセットした“矢嶋路線”の系譜にあります。
つまり、サトシと冒険する旅メン(タケシ、カスミなど)は一人もおらず、サトシの手持ちポケモンもピカチュウのみ。テレビで毎週やってるアニポケともいっさい関連性のない映画オリジナルのストーリーが紡がれているので「ポケモンなんて知らねーさ」「ポケモンGOなら少しプレイしたことあるけど全然おもんないよな。アレ」「誰が0V糞個体だよ。意味はわからんが貶されてることだけはわかるよ」というガチ無知勢でも安心してご覧頂ける内容となっています。

今回は“父と子の親子愛”という普遍的な主題にフォーカスしてるのがズルいわ~。
もうこの一点狙いさ、本作は。なんならポケモンじゃなくても成立する話だからね。
だってさ、父と息子の家族愛を扱った映画って腐るほどあるじゃない。『クレイマー、クレイマー』(79年) 『ライフ・イズ・ビューティフル』(97年)『オーロラの彼方へ』(00年) …。
それどころか、いっそもう『ライオン・キング』(94年)であり『ファインディング・ニモ』(03年) なんだよ、本作は。
なんなら、ココ少年はターザン系男子でもあるからディズニーでもあるんだよ。
「ポケモンなんて興味ないし、この記事だって惰性で読んであげてるだけなんだからね?」って読者は、せめて今日はこれだけ覚えて帰ってくれや。

『ココ』は、いっそディズニー。

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自然の申し子、ココ。

◆森を舞台とした豊かな活劇。およびその無背景化◆

 ストーリーは衒いなく一直線に進み、ココとザルードの親子愛がストレートに描かれていく。
大好きな父ちゃんと同じ「ポケモン」だと思っていたのに、ある日突然「ニンゲン」であることに気付いてしまったココの葛藤。その事実をいつか言わねばならないと分かっていながらも「おまえは本当の息子じゃない」と言い出せずに話し合いを先延ばしにしてきたザルードの逡巡。
精神的な親子にはなれても血縁上の親子になれないココとザルードの類人猿ホームドラマを描いた充実の99分!
…というのが物語上のポイントなんだけど、映画論としてのポイントは「ホームドラマ」の「ホーム」という部分にあります。もちろんこの場合の「ホーム」とはオコヤの森。
つまり本作の主役はココでもサトシでもなくそのものなんだ。


 オコヤの森は「ポケモン達にとっての楽園」ではあるけれど、あくまでそれは部外者たるサトシ(=観客)の目から見た印象に過ぎず、実態としてはザルードの群れが「治癒の泉」を独占していた…という支配構図が横たわっている。
そんなオコヤに科学のメスを入れようとしたのがビオトープ・カンパニー所長のゼッド博士
この博士は「治癒の泉」を人類のために役立てるべく、ザルードの群れを駆逐して泉を支配しようとする“悪役”だ。
そして映画後半では『猿の惑星・征服』(72年) さながら、動物VS人間、自然VS科学というありふれた対立構図によってエコロジー的なメッセージが打ち出されるわけだが、その中立にいるココ、サトシ、パパザルード、あと森に暮らす一般ポケモン達からすれば、この状況は二項対立ならぬ三項対立でもあるわけよね。
なぜなら「治癒の泉」を取り合うゼッド博士とザルードの群れは、ともに“泉を独占しようとする支配階級”だからだ。
つまりココやサトシから見ればどちらも間違っている。だから二人は、両勢力の争いを止める第三勢力としてオコヤ戦争に一丁噛みしていくんである。

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 で、この戦争を止めるキーマンがパパザルードなの。
実はパパザルードも(ココと同じく)親を知らない捨て子…ならぬ捨て猿だったが、そんな彼を群れに迎え入れたザルードの長老は、ある伝説をパパザルードに聞かせます。
それは、平和な森にしか住まないと言われる、時を駆ける幻のポケモン「セレビィ」が、ある日、オコヤの森の奥地にポケモンの卵を残してオコヤを去った…というものでした。
 結論…というか私の勝手な推測から申し上げると、かつてセレビィが森を去ったのは、来るべきオコヤ戦争を予期していたからであり、それを収束させるために“戦争を止めるキーマンの卵”を未来から持ってきた。その卵から孵ったのがパパザルードなんだよね。
そして、パパザルードは人間の赤子(ココ)を拾うことでポケモンと人間の架け橋となり、その象徴たるココは人間のサトシと出会う。そして「ポケモン」であるココと「ニンゲン」であるサトシがオコヤ戦争終結の切り札として三項対立を決着させるわけであります。

 要するに、ココとサトシを巡り合わせた大本(おおもと)はパパザルードであり、そのパパザルードにココとサトシを巡り合わさせた大本の大本こそがセレビィ。
ココが「森の王」で、サトシが「森の冒険者」なら、パパザルードは2人を見守る「森の守護者」であり、セレビィはそんな3人を庇護している「森の神」
ココ&サトシ< パパザルード< セレビィ
なんか既視感あるね。そう。この構図は、まんま『もののけ姫』(97年) に置き換えることも出来るの。
サン&アシタカ(森の子)< モロの君(守護者)< シシガミ(神)

『もののけ姫』でもありました。

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セレビィ(左)とザルード(右)。


 前置きが長くなったが、つまるところ本作は“森をめぐるハナシ”であり、裏でその画を描いていたのがセレビィ。
すべてはセレビィの掌の上だったわけだ。
ちなみにセレビィちゃん。さすがは幻のポケモンというだけあってラストシーンで一瞬だけ登場する程度です。ようやくオコヤが平和な森になったあと、ヒョコっとパパザルードの前に現れるのだ。木の枝に座って足をパタパタさせながら「住める」と言わんばかりにニッコリとする、満足げな表情。プクッとした面構え。
かわいい。

f:id:hukadume7272:20211108022404j:plainたまねぎみたいで可愛いなぁ。画像は『劇場版ポケットモンスター セレビィ 時を超えた遭遇』(01年)より

 ポケモン知らない人を置いてけぼりにしてゴメンね。
さぁさぁ…。

こっからは面倒臭い映画論の時間だ。

セレビィは自然や平和の象徴であり、いわば不可視の観念。オコヤの森そのもの、とも言える。
そして“映画における森”というモチーフもまた不可視の背景であり、ほとんどの観客は被写体であるココやサトシ、それに数々のポケモンに視線を向けるのです。

人は、しょせん「背景」など被写体の位置情報を示すための環境に過ぎないと思い込んでおり、背景そのものが被写体であろうなどとは夢にも思ってない。
…あるいはこういう言い方もできる。
ほとんどの映画好きが見てるようで見てないモノ、それが背景だと。


『劇場版ポケッツモンスツー ココ』が“アニメとして”ではなく“映画として”すぐれているのは背景が存在しないからである。
木々の息吹き。草花の揺れ。空気のにおい。水しぶきの輝き。水面を走る波紋。月光に照らされた葉。風の一つひとつにも表情があり、砂煙の舞いがバトルのダイナミズムを生む。そして父ちゃんと植えた種の萌芽…。
もはや「ココやポケモンたちの方が背景なんじゃない?」と思うほどに前景化するジャングルの雄々しさ。図々しさ!
当たり前っちゃあ当たり前だよな。だいたい森ってやつは広範囲に渡って生きている唯一無二の環境的生命なんだからよォォォォォッ。
なんて気持ちのいい99分を私は過ごしているというんだ!
そうかっ。もしかしてスクリーンからマイナスイオンとか出てる?(出てない)
オコヤの森、それ自体を被写体としたカットとアングル…という名の映像快楽のつるべ打ちじゃんか!!!

f:id:hukadume7272:20210720222928j:plain森全域を使ったダイナミックな活劇。縦の構図も豊富です。

ザルードの腕から伸びるツタは木々に巻きつき、スパイダーマンの要領でオコヤ全域の移動を可能ならしめる。
ちなみにこのツタは、パパザルード専用の「ジャングルヒール」という技を撃つときにも使われます。「ジャングルヒール」はすごいぞ。背中からニョロッと伸びた4本のツタで地面をぶっ刺してナチュラルパワーを大地に送ると、その周囲でぶっ倒れてる負傷者のダメージがたちまち癒えてしまい、また、それまでシボシボだった草木がむくむく成長するんである。

シシガミ様じゃん。やってること。

勘のいい読者なら、この「ツタ」も“森の主役化”に一役買っていることに気付いてるはずだ。気付いてるんだろう?
身体の一部であるツタを木に巻きつけるって行為が、ほかでもなく「被写体」と「背景」の物理的な一体化を意味してるってことをな。
クッ…!

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すべてを再生させるジャングルヒール。

 さあ。この期に及んで、なお『劇場版ポケッツモンスツー ココ』が子供向けアニメだとは言わせませんよ。
映画装置としての“オコヤの森”に瞳を楽しませ、説話装置としての“セレビィ”に頭を楽しませる…という純映画仕様たる本作。ポケモン対戦用語で言うところのガチ両刀を具現化してしまった『ココ』
ポケモン映画史の中では、これは結構とんでもない作品で、巷で言われてる「ココは歴代最高傑作!」という手垢まみれのバカフレーズは意外と本当だったりする可能性は高い(全作観てないので断言は控えるが)
 というか、私としては歴代のポケモン映画があまりに幼稚な内容ばかりだったので、今作での映画的飛躍に軽く度肝を抜かれてるっていうか「ポケモン映画って本気出したらココまでやれるんだ…」と吃驚している次第なんだよなー。

◆ココに見る映画言語論◆

 私は映画好きであると同時に言葉好きでもあるので、この最終章では『ココ』と言語表現について語ってみたいのよね~。
映画好きとして『ココ』を観てもおもしろかったけど、言葉好きとして見てもすごくおもしろかったわ。
まず、パパザルードが人語を話すんだよね。同族のザルードとも日本語で会話するの。
そしてココも人語が使える。「父ちゃん! ここに木の実を埋めたら楽しいんじゃない!?」なんつって。
まあ、木の実を埋めたところで楽しいことなんて一つもないけれど。
 なにせ、ココは日本語でパパザルードと会話するし、森のポケモンとも意思疎通が出来ている様子。
しかしココ。サトシと出会った途端に「あぐ…あぐ…」と意味不明の呻き声を発するようになってしまう。

なるほど。そういう設定かー。
つまりココは「人語」が使えるわけではなく、今まで人語で発していたのは「ポケモン語の日本語翻訳」だったのよね。本当はポケモン語で話してるけど、便宜上(観客のために)人語に置き換えてるだけ。だから人語しか操れないサトシとは言語コミュニケーションが取れんのである。


この設定のおもしろさは、各会話シーンによって「聞き手の耳」が変わるってとこなんだよ。
ココがパパザルードの話を聞く場面では、映画は「ココの耳」になってるので、パパザルードの言葉は人語として聞こえる。逆にサトシがココの話を聞く場面になると、映画は「サトシの耳」に切り替わるので、ココの言葉は呻き声(ポケモン語)にしか聞こえない…というカラクリだ。
 さらにおもしろいのは、ココが人語を発する場面は森のシーンだけで、ポケモン語を発する場面は街のシーンだけ…と描き分けられている点。
この言語表現の切替えによって、ココは生粋の野生児、すなわち「身体はニンゲンだけど心はポケモン」という主題が感覚化されるだけでなく、自ずとサトシとのコミュニケーションも非言語の意思疎通、すなわちアイコンタクトという極めて映画的な方法論が主となるほか、バトルシーンでは阿吽の呼吸で助け合うなど、言葉が通じないからこそ“映画”たりうる関係性が紡がれていく。
畢竟、ココとサトシの友情は映画表現だからこそ達成されたものなのです。

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ついでにピカチュウの存在にも触れておきたい。
ココとサトシの言語的寸断を繋いだのが、ふたりの言葉を懸命に通訳せんとしたピカチュウ。
ココの発するポケモン語が理解できるピカチュウは、それをサトシに伝えようとピカピカ言いながら必死でジェスチャーをする。サトシはポケモン語を解さないがピカチュウの気持ちは大体わかるので、ピカチュウによる通訳…通称ピカ通によってココの発言内容を掴むことに成功。
戸田奈津子としてのピカチュウ。
そしてトム・クルーズとしてのサトシがそこには居ました。

語りたいことはまだまだあるけどね。
従来のアニポケにはなかった暴力描写の衝撃とか、トータス松本による主題歌のすてき味とか、パパザルードの声を当てた中村勘九郎 (6代目) の節回しが素晴らしいだとか、旅立つココを見送るためにザルード達が花火を打ち上げるラストシーンって『ONE PIECE』でチョッパーが旅立つときの桜のライトアップをパクってるよねとか、あと、そうね……ゼッド博士役の山寺宏一はあと何回結婚と離婚を繰り返すのかなとか。

そんなわけで『劇場版ポケットゥモンストゥー トゥトゥ』、非常によかったわ~。何気にポケモン映画を全面的に褒めるのって初めてなのよね。照れた。
この作品は、あほのキッズではなく、むしろキッズを育成している親御さんたちに向けられた“親が見てこその作品”なので、わたくしの知る限りにおいてキッズ育成中ブロガーを自称して憚らないGさん、お子さんの努力値をサッカーに全振りしてしまったやなぎやさん、ヒヨコの孵化厳選に取り組んでいるKONMA08さんなどにおかれましては、好むと好まざるとに関わらず鑑賞の義務を負っているので速やかに視聴されたい。
つべこべ言うな。
だまれ。

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(C)Nintendo・Creatures・GAME FREAK・TV Tokyo・ShoPro・JR Kikaku  (C)Pokemon (C)2020 ピカチュウプロジェクト

◆『ポケッツモンスツー 小津』◆

毎度恒例。CM明けはオマケのコーナーです!
ポケモン映画を取り上げたときは「お気に入りポケモン紹介コーナー」と題してオレのポケモンを勝手に紹介してるのだけど、今回は『ユメノツボミ』の話をしたいと思います。
『ユメノツボミ』とは、ポケモン公式側がYouTubeにアップした短編アニメーション作品だ。15分弱の動画なので、ぜひご覧頂きたいと思います。
えぇ、見ない? どうせヒマだろ。
15分ぐらいガマンして見ろ!

どんな中身かと言ったら、おっちょこちょいな性格ゆえに母親から旅立ちを禁じられていた女がニドラン♂というポケモンと出会ったことでポケモントレーナーとしての第一歩を踏み出す…といった希望の中身!
絵柄よし。作画よし。雰囲気よし。何といっても僅か15分の中に仕掛けられた幾つものギミックよし。
ポイントはやはり「親子」です。奇しくも『ココ』と同じく“親と子供の物語”になっているのだけど、父と息子を描いた『ココ』とは逆に、母と娘を描いているのが『ユメノツボミ』
ふんふん、仰る通り。たしかに言われてみればそうですね。
ほぼ小津やね。

f:id:hukadume7272:20210728081942j:plainニドラン♂と出会った少女・ツボミ。

そして『ユメノツボミ』では娘の門出を祝う親サイドの寂寥感も描かれている。だわな。小津だわな。
かわいい娘を旅にやるのは寂しいけど、本人が行きたいつってんだから、やるしかあるめえし、やるからには笑顔で見送りってやりたい。そんな親心のけじめ。元気でやれよ~つって。物理上は離れていても心理上ではベリーニアニアよ~つって。
しかもパパとママの馴れ初めまで描いちゃって。ここ、すごくいいのよ。ただの背景でしかなかった両親にも、ちゃんと人生があってドラマがあって。そして今がある。
実のところ私は『ココ』以上に、この短編作品をこそ評価しているのです!
『ユメノツボミ』もとい『ポケッツモンスツー 小津』は絶賛YouTubeにて公開中。
辛抱して見ろ。

~うれしい追記~
ゲームボーイ版の第1世代『ポケットモンスター赤・緑』からやっているファンには、ゲーム音が流れてくるラストシーンで吃驚仰天の目配せがあります。「あぁ、だからニドラン♂だったのね」と思わず膝を打つ、サプライズと呼ぶにはあまりにさり気なく小粋な目配せがねえ!!!


ポケモン Kids TV「ユメノツボミ」YouTubeより