シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

コーダ あいのうた

どーだコーダ言うとりますけども、結果的には良コーダ(良好だ)。

2021年。シアン・ヘダー監督。エミリア・ジョーンズ、トロイ・コッツァー、マーリー・マトリン。

エミリアいう嬢ちゃんが歌うたうんや。


おっけおっけ。やろか。
『ONE PIECE FILM RED』(22年) が大ヒットしてる昨今、若いワンピーサー達と話すたびに「ふかづめさんってワンピース見てます?」と訊かれるので、「空島編でやめたよ」と答えると、皆一様に「あーね…」みたいな顔をする。
そのあと必ず、訳知り顔で「たしかに空島編は難関ですからね~」と言われるのだが、そのたびに私はむかついている。奴らの内に秘めたる“秘密の蔑み”を看破しているからだ!
どうやら多くのワンピーサーたちの共通認識としては、「空島編は退屈かもしれないけど、そのあと急激におもしろくなる」という意見がこだましているのだという!!
ゆえに私のような脱落組は哀れみの対象っていうか、「あーあ。そこで止めちゃったんだ…。もうちょっと辛抱してりゃあ、めちゃくちゃなオモシロ展開が君を待っていたというのにさ。勿体ない。可愛そう。服も貧相」といった同情の眼差しを向けられてしまうのである。
いわば空島編とは、ワンピースファンとそうでない人間を分かつための、踏み絵、試金石、リトマス試験紙のようなものだと奴らは言う!!!
え?
もしくは、え?
オイオイ、待て待て。まるでオレが空島編で振り落とされたみたいな言い方してるけど、オレは「振り落とされた」んじゃなくて「見限った」んだよ。自分の意思でな。
それをオマッ…
あたかもオレが超速回転するメーリーゴーランドから振り落とされたみたいな言い方をしえええええ!
どの…っ、この口か!?
超速回転するメリ……この口かぁ!?
オレは降りたの。このメリーゴーランドいまいちだな~って思ったから。だのに「たしかに空島編は難関ですからね~」みたいな言い方をされると、あたかもオレが尾田栄一郎が描いた壮大なヴィジョンから振り落とされたみたいなミジメったらしいイメージに収まるやろがいいいいい!!

だいたいね、「難関」って言葉選びが私を苛立たせるのですョ。使っちゃだめよ、こんな言葉。だめ、だめ。
難関とは、すなわち通過するのがむずかしい関所のこと。転じて「突破すべきポイント」とか「乗り越えるべき壁」といった文脈を含むわなああああ?
ええっ! 空島編って乗り越えるべき壁なの? たとえつまらなくても「ここを越えれば春が来るーん」と言い聞かせて辛抱しながら読まないといけない季節なの?
ンーフ~ン?
そうじゃないよなぁ? マンガを読むことは義務でも公務でもないんだから、やめたい時にやめてもいいんだよなあ? 好き好きだよなああ? 好き好きのタイミングで読んだりやめたり読んだりやめたりするコミックライフを随意に謳歌しているよなああ民は!?
にィィィィも関わらず!
訳知り顔で「たしかに空島編は難関ですからね~」
だまれ民。
民といえばオレも民だが、オマエは黙るべき民だ。オレは喋り続ける民。そういうルールでいこ?
オレはメリーゴーランドから降りたんだ。わかるな。遠心力で吹き飛ばされた奴だと心の中でプププと笑うなよ!
ふかづめは、メリーゴーランドから降りた。
そんな夢を、今宵見ろや。

そんなわけで本日は『コーダ あいのうた』です。怒りすぎてどこにも愛がないけどな。


◆そーだ、コーダを見よう◆

 寡聞にしてまったく知らん映画だったが、先日友人が「そういえば、アマプラで『コーダ』を見たよ。こうだ!といえる決め手には欠いた映画だったけれど」と感想していたのを思い出して「そーだ、コーダを見よう」を思い立ち、ソーダを飲みながらコーダを見た。
なるほど確かに、こうだ!といえる決め手には欠いていたが、まぁ、あーだコーダと言いつつ興味深く見ることができたので、結果的には良コーダ(良好だ)。

うん、ありがとありがと。


 聴覚障害者の両親をもつ子供(Children of Deaf Adult=コーダ)が歌う喜びを知ったことで、今までは家族と世界をつなぐ“手話通訳者”として家業の漁を手伝っていたが、このまま一生魚臭さを漂わせながら耳の聞こえない家族の世話をせねばならぬのかと逡巡。ましてや遊びたい盛りの女子高生。キスだってしたことないのにィー!
そんな折、合唱部の顧問から「自分、歌の才能えぐいな」と評され、名門音楽大学への進学をプッシュされる。
魚をとるか、歌をとるか!
いま迎える! 高校生活のコーダ(最終楽章)の締め方とは!?

主演はエミリア・ジョーンズ
子役として『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉』(11年)『ワン・デイ 23年のラブストーリー』(11年) に出演し、大きな怪我もなくすくすくと育つ。現在20歳のライジング・ニューカマーだ。
父親役のトロイ・コッツァーは実際に聾者の役者である。母親役のマーリー・マトリンもまた聴覚障害をもつ女優で、映画初出演の『愛は静けさの中に』(86年) でも聾唖者のヒロインを演じ、デビューと同時にアカデミー主演女優賞をゲットした元ライジング・ニューカマー。兄役のダニエル・デュラントは誰だか知らんが、彼も聴覚障害を持つ役者らしい(たぶんライジング・ニューカマーではない)。

エミリア・ジョーンズ(ライジング・ニューカマー)。

◆あれ? 俺たちって“映画における手話の可能性”について考えたことあったっけ?◆

 見事なダブルミーニングによって冠された『コーダ』が今年のアカデミー賞で「どうだ!」とばかりに作品賞をかすめ取ったことはつい最近知った。
アカデミー賞ねえ。年々どうでもよくなってくるわ。今のアカデミー賞は「映画賞」じゃなくて「政治ショー」だしな。差別やいけずはダメ、みんな違ってみんな良いって。小学校のホームルームかよ。
まあ、ウィル・スミスがクリス・ロックを引っ叩いたりとバラエティ番組としての側面もあったらしいが、いずれにせよ「映画のことをやらない大会」なら興味ないね。勝手にやってろ。


さて。『コーダ』が映画としてたいへん興味深い理由は、この作品が映画的構造への思案を促しながらも映画そのものとしては至って凡庸だからザッツオールである。
そもそも本作はドラマとストーリーで見せるタイプの作品であり、移入や感動や共感といった観念的な映画体験の果てに「いい“お話”だった」と称賛され、他方、ショットや演出効果といったものは情緒によって流されてしまう、そんな括弧つきの“ハリウッド映画”である(本作はアメリカ・フランス・カナダの合作だが、最近はフランス映画だってハリウッド化してるもんな)。
したがって本稿では映画の話はしない。
ていうか出来ん。

マイノリティーが織りなすホームドラマパワーでアカデミー賞作品賞をゲット。

 

母親役マーリー・マトリンの在りし日の姿(『愛は静けさの中に』より)。

その上でおもしろいのが本作の映画的構造だ。
一般的な劇映画における「会話手段」といえば“言葉”と“視線”だが、聴覚障害を扱った本作では“手話”が加わることで、会話劇と視線劇のみならず「おてて劇」とも呼ぶべき動態の純映画性があらゆる箇所に利く歯車として、あるいはネジとして『コーダ』を駆動させている。
「手話というモチーフは、ことによるとトーキー映画とサイレント映画の非嫡出子なのかもしれんな」
本作を見た私は、一休さんみたいな顔をしながらそう呟いた。割におもしろい試論だろ?
そういやぁ、最後に手話を使った映画を観たのはいつだろう。うーん。あ。アニメになるけど『映画 聲の形』(16年) だわ。それでも6年前か。おぇー。
では、この世に手話を扱った映画はいくつあるのだろう。パッと思いつくだけでも片手で数えられる程度しかないわ(きみはどう!)。
つまりそういうことだな。
われわれは今の今まで“映画における手話の可能性”についてこれっぽっちも考えてこなかったわけだ。とんだ盲点だよ、まったくチクショー。
そして、それを考える契機は『愛は静けさの中に』でも『聲の形』でもなく『コーダ』だった。
そりゃ「どーだ!」と言われたら「相すみませんでした」だよな。


聴覚障害を持つ少女といじめっ子男児の関係を見つめた『映画 聲の形』


“映画における手話”には美点と難点がある。
美点としては、ただの会話が総アクション化するという点に尽きよう。
端的にいって会話劇とは映画を硬直させる毒でしかないし、だからこそ映画人は言葉でなく映像言語を用いてテリングするわけだが、こと手話に関しては会話すること自体がすなわちアクション。カンフーみたいに素早く手を動かして。表情にもキレがあるしね。
本作もそうだ。とりわけエミリアの家族は気性の荒い漁師気質ということもあってか、手話の動作がヤケに激しい。
『コーダ』はハードアクション映画。
いやいや、冗談じゃなくて。
マシンガンのごとく繰り出される身体言語の応酬によるコミュニケーションで物語が進んでいく…という意味では、より高次のアクションかもしれない(説話機能を内包しているため)。

反面、映画における手話には難点もある。
何といっても話者にカメラを向けねばならないことよね。手話とは視覚情報なのでボイスオーバーが無いんですよ。当たりめぇだけど。画面外の音声が使えない、という意味では映画の上でも大きなハンディかもしれぬ。さらぬだに、音のずり上げ/ずり下げも封じられるので編集の幅が狭くなってしまう。それは『コーダ』を見てても感じた。いかな激しい親子喧嘩のシーンも切り返しがモッチャリしちゃうと迫力を削ぐ。ツーショットにおさめてしまえば立ち所に氷解するが、そうするとこんだ手話の動作が見づらいし、そも毎回ツーショットというわけにもいかぬ。やはり映画である以上は切り返さねばならんが、そもそも音が無いからずり上げもヘチマもない。「ずらす」ことが出来ないのだ。
畢竟、手話のショットを切り返すことは、好むと好まざるとに関わらず小津を踏襲することになる。
小津って、ずり上げもずり下げも使わないから会話シーンに変な映像の間があるでしょう。それと同じよ。

『コーダ』は小津でした。

解決したんちゃう?
「こうだ!」と言える結論、出たやん。


左から順に、原節子、笠智衆、東山千栄子。

◆この世で最も愛おしいイヤホン◆

 前章では“映画における手話”についてせんど考えた結果「小津になる」というマジックみたいな結論に辿り着いてしまったが、うーん、この最終章では何を喋ろうかしら。まあ、消化試合みたいな気持ちで雑感でも綴ってこましたろ。
たとえばセックス描写なんかはどうかね。
本作の登場人物は性に対して活発で、元来タブー扱いされてきた「障害者の性事情」に踏み込んだ作品となっている。その思いきりのよさは買うが、もうすこし自然に素描できていれば素敵だったのにな。惜しいことに、鬼のような筆力で描き込んじゃってるのよ。作品のメッセージ性を拡声器で演説してんの。
要は、うるせえんだよセックスが。
「障害者がセックスしたっていいじゃんかいさああああ」がうるせえ。もちろんセックスするのは自由だが、騒ぐな。
まあ、これも括弧つきの“政治映画”なんだろうな。

湖に飛び込んで恋にも飛び込んだエミリア。

あと、合唱部が発表会をするシーンはしっかりと気に入った。
かねてよりエミリアと童貞風評撒き(上の画像の男児)が練習していたデュエット曲、マーヴィン・ゲイ&タミー・テレルの「You’re all I need to get by」は言わずもがな、私としてはデヴィッド・ボウイの「Starman」の選曲に唸りました。単にボウイのファンだからじゃないよ。この歌詞が、試験会場のラストシーンでエミリアが歌ったジョニ・ミッチェルの「Both sides now」の詞にうまく繋がってるのよね。
ていうか、全編こんな感じなのよ。曲の背景を作劇に落とし込んだ“音楽劇映画”というか。

発表会のシーンでは、エミリアたちの合唱が徐々にミュートされていく演出も若々しくて刺激を受けました。
音声がミュート…。つまり保護者席にいるパパンの耳と同化させてるわけよね。彼には娘の歌声が聞こえない。でも目は見える。そこでパパンが見たものは、エミリアの歌に涙するよそのばばあだったり、楽しそうに揺曳するよそのおっさんなど、他の保護者たちのリアクション。そこでパパンは気付くわけ。
「こんなにもか~」つって。
我が娘はこんなにも歌うまかったんか~ゆうて。まったく聞こえんが、奴らのリアクションから当て推量、いわば間接的に“娘の歌”を知るのである。
そこから先の展開がなかなか見せる。くだらないバラードを聞くよりよっぽど感動的だ。とりわけ“喉に触れて声帯振動越しに歌を感じる”という…この世で最も愛おしいイヤホンね。
パパンが手という名のイヤホンを使って娘の歌を聴くわけですわ。心で!
世が世なら不朽の名シーンにもなりえた場面だし、ともすると50年後に本作を見る連中にとっては、すでに…というか…いずれ不朽の名シーンになるかもしれないんだよ!?
ま、そんな感じで~す。

よその保護者のリアクション越しに娘の歌唱力を知るパパン。
「ごっつ上手いんや…」

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