シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

ストーリー・オブ・マイ・ワイフ

レア・セドゥ、百花繚乱す。~人はそれを「すドゥ」と呼ぶSP~

2021年。イルディコー・エニェディ監督。レア・セドゥ、ハイス・ナバー、ルイ・ガレル。

出会って4秒で結婚した即席夫婦の行く末をみつめる。


おっけおっけおっけおっけ。やろか。
現在大学生でお馴染みの相川七瀬といえば「恋心」「トラブルメイカー」、なかでも私のお気に入りは「Sweet Emotion」であるが、やはり一般的には「夢見る少女じゃいられない」になってくるよね。それって。どうしても。
「夢見る少女」の私的ココ好きポインツというのがあって、七瀬ちゃんが「夢見る少女じゃいられなーい」とサビを歌いきったあとの謎の「フェーッ!」
わかる人いる?
これ好っきゃねん。

相川七瀬「夢見る少女じゃいられない」

「夢見る少女じゃいられなーい」のあとに突如として叫ばれる、誰かの「フェーッ!」。
誰の何の フェーッ!やねん。
織田哲郎なんかな。楽しなって叫んでもうたんか? 「夢見る少女じゃいられなーい」のあとの「フェーッ!」。
フェーッ!やあるか。
しかもこのフェーッ!、なんとイントロにも紛れ込んでいるのだ!

デ~~デデッデー デッデッデデ~
デ~~デデー デッデッデデッ…
「フェーッ!」

言うたっ。
我々は「夢見る少女じゃいられなーい。フェーッ!」までをワンセットとして、この名曲…否、フェー曲に親しんできたが、「フェーッ!は七瀬ちゃんの『夢見る少女じゃいられなーい』を待つってルール」は我々の思い込みに過ぎなかった。
すでにフェーッ!は自立してた!
すると、この曲の構成ってこういうことか。
先鋒 フェーッ!
次鋒 Aメロ
中堅 Bメロ
副将 サビ
大将 フェーッ!
すごい。フェーッ!に始まりフェーッ!で終わってる。意外とフェーッ!の役割おっきい。
それで言うと、サザンオールスターズの「希望の轍」にも、たしかイントロに似たようなやつが…。

テテテ テン テンテン テテ テテテン♪
テテテ テン テテテン テテ テンテテ♪
テンテンテン… 
「フェーッ!」

フェーッ!!!
掛け持ちっ。
相川七瀬とサザンを掛け持ちしてる!
90年代J-POP史を暗躍してる…。さまざまなミュージシャンの楽曲をひそやかに横断してるやん。フェーッ!なのに…。
当ブログではフェー曲を探しています。ほかにもフェーッ!が紛れ込んだ曲を知ってるぞ、という方はぜひご連絡ください。代わりに「おっおーん」が紛れ込んだ曲を教えてあげます。

そんなわけで本日は『ストーリー・オブ・マイ・ワイフ』です。『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』(19年) と混同せぬよう気をつけられたい。おれも気をつける。



◆「モチ」で結婚すな◆

 女を撮ることのできる監督と女を演じることのできる女優がいるだけでひとまず映画は完成してしまう。そんなことはマレーネ・ディートリヒの『モロッコ』(30年) やローレン・バコールの『キー・ラーゴ』(48年) を観ずとも直感的にわかりそうなものだが、悲しいことに女を撮ることが「女性を撮ること」へと姿を変え、女を演じることもまた「女性を演じること」へと音もなく摩り替えられてしまった今日にあって“女の映画”はあまり見られなくなりました。
俺は時々思うんだが、映画ってすでに死んでるんじゃねーか?

「うんにゃ、生きてるー!」

どこからともなく響く声。そう、今「うんにゃ生きてる」と言ったのはイルディコー・エニェディというハンガリーの女流監督である。当ブログでは過去に『心と体と』(17年) を扱ったが、なかなか味のいい監督である。
そんなエニェディがスクリーンに“女”を堂々復権す!
主演はレア・セドゥ。舞台は20世紀初頭のマルタ共和国。港町のカフェでコーヒー飲み飲み「次に入店した女と結婚する」と心に決めた船長ハイス・ナバーは、彼女が店に入ってくるなり「俺の妻になってくれ」
「モチよ」
モチなん?
なんでモチなん。会って1分しか経ってないのに…。
なぜかモチで電撃結婚した二人。互いの素性を知らぬまま始まった結婚生活は海よりも激しく、嵐より厳しかった。
いま見つめる! 即席夫婦の官能溢るる愛の感動巨篇!『ストーリー・オブ・マイ・ライ…らわわワイフ!

モチ婚したハイスとセドゥ。

 フランスで産声をあげたレア・セドゥは映画の神に愛された希少な女優だが、不幸なことにこれまであまり上手く使われてこなかった。
浮遊的な存在感を放った『美しき棘』(10年) は映画として酷すぎたし、『イングロリアス・バスターズ』(09年) ではメインキャストの端で埋没、その後ハリウッドに目を付けられ『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』(11年)『007 スペクター』(15年) のような出なくていい映画 大メジャー作品でキャリアを空費。
ウディ・アレンの『ミッドナイト・イン・パリ』(11年) とウェス・アンダーソンの『グランド・ブダペスト・ホテル』(14年) への出演で映画好きからは歓待されたが、かかるオールスター群像劇においてはワンオブゼム、もっぱら芝居よりも“挨拶”が求められるので、レア・セドゥがセドゥできない。

挨拶…チョロッと顔を出して「私も出てるよ!」と挨拶すれば大体OKという出演形式。いわば人気俳優による出演のための出演。もちろん芝居もするが出番が少ないためじっくり演じることができない。

やはりレア・セドゥがセドゥしたのは『アデル、ブルーは熱い色』(13年) だろうか。あとキャリア最初期の『美しいひと』(08年)
そんなレアが、愛のままに、わがままに、セドゥのままにドゥーしたのが本作。
セドゥ、百花繚乱す!
「すドゥ」といえる!!!


レア百花繚乱すドゥ。

◆帽子と窓と、煙草とセドゥ◆

 あいや~、すこぶる贅沢な映画だったわ。
「贅沢な映画」とは“観るところが多く、その一つひとつに深みがある映画”のことだ。
というのも、大波に揺れる貨物船内をフィックスで捉えたファーストシーンを経て、ようやく航海を終えたハイスがセドゥと出会い、驚くべき呆気のなさで結婚生活を迎えると、途端にステディカムの手ブレが画面を支配し始めるのだ。この冒頭シーケンスで「おっ、これは…」と思い、“見る”から“観る”にギアを切り替えた。
海上で固定され、陸地では揺れる逆説的カメラの動静。
割におもしろいでしょう?
ハイスにとっては荒れ狂う魔の海に船を出すことよりも怪しげな女と生活する方がよほど心揺れる体験だったのだろうし、と同時に慣れた航海においては(たとえ嵐であっても)精神は安定を保ち続ける、と。

 本作はハイスの視点―男性目線から女の奇妙が綴られてゆくためカメラは絶えずハイスの精神状態を反映してゆくわけだが、その試みはきわめて高度な次元で達成されていた。
第一に、レア・セドゥの信じがたいほどの美しさ。
ここでいう美しさとは美貌のことではない。そうではなくて、たとえばうっかり見逃してしまいそうな速さで目尻や口角を過ぎさる“女の意図”であり、むじゃきに踊る髪に絡む白熱灯の光の粒であり、生々しくも触れた端から溶けてしまいそうな肉感的な四肢であり、そのすべてをミステリアスに被覆する帽子とコートなど、だ。
これが、映画の神に愛された役者ならではの資質にして、映画が映画たらんとする為の最後のピースである。

また、レア・セドゥのセドゥもほとんど芸術に近い光彩を放っていた!
昨日は従順な虎のように、だが今日は反抗的な子猫のように、本能と策略が入り混じればこそ無辜にしてタチの悪いヴァンプ(妖婦)の身振りは、それさえも本能か策略かわからぬまま、ハイスばかりか観る者の心をも搔き乱す。
ちなみにこの作品、セドゥの性格も感情も本心も目的もまったく分からないように作られており、ハイスともども「あの女は何者だったのか」と鑑賞後に頭を抱えながらエンドロールの闇に放り出されるという武者修行のごとき映画体験を強いられる一種の知的拷問なのだが、かかる難役をきわめてリキッドな芝居でセドゥさんは体現されました!
白状すると、わたくし、一時期は「レア・セドゥ? 誰ドゥ。単にフォトジェニックなだけのモデル崩れちゃいますのん」と思っていたが、いやはや参りやした。思わず嬉しくさえなっちゃうような芝居のおもしろさに脱帽。
脱帽…違うな。
セドゥが被っていた帽子をわざわざ奪い取ってかぶって…からの脱帽!

セドゥするセドゥ。

  次は色について。
本作はシネマスコープによるフィルム撮影だが、この組み合わせが抜群に調和した作品としても記憶さるべき映画であるし、むしろ“その環境下に息づくレア・セドゥを観るためだけの映画”として総括してしまいたいぐらい!
レンブラントライトの硬く柔らかな光、豊かな濃淡、粒立ちのよい色味。しかもチビるほど発色がよい。
とりわけ黒を基調とした色彩設計の巧妙さ、あー…たとえば“影としての黒”“色としての黒”の描きわけに関してはイーストウッドの『チェンジリング』(08年) 以来14年ぶりに感動した項目だし、それよりなにより煙草よね。ハイスとセドゥが生命維持装置くらい大事そうに吸ってる煙草の煙の恣意的な美しさなんて、まさに白抜き適性満点のモチーフ。つまり黒い背景あってこそ。もし当ブログの読者の中に40'sフィルム・ノワールを愛してやまぬ奴がいたら、本作は少しばかり真剣におすすめするで。
あー、語りたいことがバケツ一杯あるな。
ナイトシーンではフィルム映画として正しく路面に水をまいてるし(水をまかないと黒味で潰れちゃう)、20世紀初頭の衣装や調度品の質感も楽しまぬ手はないぞ。
ま、この辺でやめとくか。

硬く柔らかな光。

この章の最後は鏡の話で締めたいと思う。
鏡、窓、扉。これらは映画演出の基本形をなす3大モチーフ、という話はこれまでもせんどしてきたが、やはりココなのだ。ココにいちばん映画が宿る。
本作は鏡越しにセドゥを捉えたショットが異様に多い。ハイスが彼女を見つめる時なんてほとんど鏡越しではないかしら…ってくらい多い。
もちろんこれは“虚像としての妻を見ている”ことのメタファーであり、実体こそあれ像を結ばぬ妻の秘匿性を表現するうえで覿面の効果を発揮する演出だ。また鏡映反転による“すれ違い”をも暗示しているのだろう。
さらには自宅の扉と貨物船の窓を活用したフレーム・イン・フレーム。夫婦のツーショットにおいて頻出する二重フレーム構造により、二人の結婚生活に“劇中劇”というコンテクストが附与される。とりわけ長回しでのセックスシーンにおいては、開け放たれた寝室から居間へと越境した画面手前にカメラを据えることで寝室そのものを枠としてフレーム化。夫婦喧嘩の果てにハイスが手にした愛と悦楽のひとときが現実であることの蓋然性を非情なまでの美しさで微睡ませてゆく。

鏡の活用(画像上)
扉を使った二重フレーム構造(下)

◆“映画”が途切れない限り、映画は無限に撮っていい◆

 ついに本稿が「神秘的な」という形容詞と「ファム・ファタール」という名詞を回避しえたのは、取りも直さずこの映画が湿ってるようで渇いたメロドラマだったからだろう。
易しくも厳しい演出と、儚くも強かなセドゥ。思わず恍惚としてしまうような午睡感覚と、うっとりする寸前で頬を引っ叩かれるような覚醒が交互に訪れるので、169分と長い作品ではあるが居眠りしたり退屈する暇はありませんョ。
とはいえ、やっぱ169分は長いか。
本作は『苦悩するハイスの七つの教訓』と副題された全7章構成となっているので、169分という尺に物語的な意味はあれど映画的な必然性はない。カメラアングルひとつ取ってもほぼ全種網羅する勢いなので、まあエニェディ女史はよほど欲張ったと見ていい。
不幸中の幸いだったのは、これが“語りたがった169分”ではなく“撮りたがった169分”だったことであり、そこには惰性はおろか見栄も慢心もなく、ひとまず総てのショットがシーンを組織し、総てのシーンがシーケンスを形成し、総てのシーケンスが各章を構成しており、その総体としての169分が『ストーリー・オブ・マイ・ラ…わわいワイフ』としてラッピングされただけに過ぎないのである。上映時間が何分だろうと、われわれは毎秒ごとに映画を体験し続けているのであって、その“映画”が途切れない限りは理論的には映画は無限に撮っていい(たいへん困るが)。
まあ、批評する立場だからこんなことを書いてみたが、個人的な話をさせてもらうなら…あと20分は観ていたかった。

にしても…呼びにくいのうタイトルゥうううううううう!!
「ライフ」に引っ張られんねん。「ストーリー・オブ・マイ~」ってきたら、大体「ライフ」やろ。遺伝子的に。俺たちのォ!

物語に触れるタイミングを逸したが、まあ物語もヘチマもあるまい。妻に翻弄され通しの船乗りの結婚生活が描かれてゆく。
嫉妬と不信と愛とヘチマ。
ザッツオールである。それになぁ~、物語を語ることでしか語れない映画に何の価値がある? くだらないこと訊くな。
あ。言い忘れたが、セドゥの浮気相手となるルイ・ガレルも大変よく、ちっぽけな蜂のような勤勉さで与えられた役割を全うしていた(セドゥとは『美しいひと』でもイケナイ関係を結んでいる)。

ともすれば甘美な昼ドラを思わせもする『ストーリー・オブ・マイ・ワイフ』は、観客の期待どおり“嫉妬と不信と愛とヘチマ”をミキサーにかけながらも、出来あがったのは芳醇なコーヒーなどではなく…赤でも白でもない謎のワインでした。
ついに神経衰弱に陥って顔がピクピクしだした夫をよそに、妻がとった最後の行動。あれは赤だったのか、白だったのか?
ことによるとコーヒーの黒!?

『ストーリー・オブ・マイ・ワイフ』は、今のところ絶賛、観る環境ナシ!
「劇場公開終了」と「レンタル・配信開始」のすきまにだけ生じるといわれる幻の亜空間でだらしなく漂っている(とはいえ、そろそろレンタル始まりそう。ぜひ観なね~)。

ルイ・ガレル(右)。

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