シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

ザリガニの鳴くところ

注意散漫型映画鑑賞会、ウォッチパーティ第二弾! 湿地帯にこだまするふかづめ怒涛の文句! なにかを看破したサクは急にウトウトし始めたの巻。


2022年。オリヴィア・ニューマン監督。デイジー・エドガー=ジョーンズ、テイラー・ジョン・スミス、ハリス・ディキンソン。

湿地の娘に容疑がかかる中身。

 

先日、Twitterで「暇な人いたら一緒に見るか」ゆうて、Amazonプライムビデオで『フラッシュダンス』(83年) のウォッチパーティを開催しました。思いつきで急遽開催したから、どうせ誰も来ないだろうなと踏み、サクを誘って2人だけで見るつもりだったんだけど、そこへ現れたのが「モコ」という謎の人物。
「キミ、どこの子や?」と問い質したところ、どうやら受験生。しかも女子高生。おまけに入浴中とのこと。
ほう。

「入浴してるんか、モコちゃん!」
「はい」
入浴してんのん!?

「肩まで浸かってるの、モコちゃん!」
「はい」
あ、肩まで浸かってるん!?

「受験生やのに勉強もせんと『フラッシュダンス』見るんか、モコちゃん!」
「はい」
見るん!!?


なんやこの子。
受験生やのに勉強もせんと『フラッシュダンス』見ながら入浴してるくせに「はい」しか言わへんやん。なんて深遠な生命体なんだ。深海に沈んだ豪華客船みたいな子やな~。
その後、映画そっちのけでオレとサク(というかほぼオレ)はくだらない事ばかりチャットしてて、モコは一言も話さずROM専。
「映画に集中してるんか、モコちゃん!」
「はい」
なんやこの子。
受験生やのに勉強もせんと入浴しながら『フラッシュダンス』に集中してる! なんて意味深長にして意欲的な生命体なんだ。
映画もクライマックス。映画に集中したいモコを差し置いて、サクとの駄話に夢中になりすぎたことにハッと気付いて反省オレ。下品で無意味な言葉でチャット欄を汚してしまったな…と思い、「ていうかモコちゃん、えらい迷惑やろな。集中して見たいだろうに」と気遣ったところ…

「はい」

「はい」て。

そこは「そんなことないですよ」の出番なのに、あえてか本音か「はい」を被せてくるセンスが、好いと思った。
あっ。こういう前置きを書くたびに、やなぎやさんが「どうせ作り話よね?」とか言ってくるから、はいいいいいい、いつか前置きで書くことを見越してスクショしてますぅ~。
ハイおれの勝ち~。地滑り的勝利~。


証拠。モコに「このやり取りブログに載せていい?」と断り入れたら「やったー」言うてた。
そこは「はい」やろ。

その後、エンドロールに至って、今さらツルコプが参加して4人。
4人でチャットするうちに発覚したのだが、なんとモコは当ブログのヘヴィ読む者だった!!
先言うといてくれんと。
てっきりオレは、モコがこのウォッチパーティの部屋にミスって迷い込んだ“不思議のオレの国のアリス”かと思って、だからこそ「キミ、どこの子や?」とか「えらい迷惑やろな。集中して見たいだろうに」とオレなりに気を遣ってみたんだけど。おしりの話も控えたのに(『フラッシュダンス』はおしりが充実した1本)
ヘヴィ読む者だったんじゃ~~ん。
先に言ってよぉ。水臭いな~。
がんばれ受験生モコ。オレは応援してるぞ。
選択形式のクイズで迷ったら、だいたいBだ。もしくは②。ふたつ目の選択肢を選ぶんだ。そのときはオレのことを思い出せ。だってそうだろ。「ふたつめ」、「ふかづめ」。似てるから絶対それが正解。テストなんてそんなもんや。ふたつ目の選択肢を選んどきゃだいたい当たんねん、あんなもん。おもんない、おもんない。

そんなわけで本日は『ザリガニの鳴くところ』です。サクちゃんと見ました。



◆デイジー・エドガー=ジョーンズちゃんを見つめる係にオレがなった◆

 本作は『X エックス』(22年) に続いてAmazon Prime Videoウォッチパーティで友人のサクと大バカ野郎みたいな顔しながら鑑賞しました。
この映画は劇場公開中に見逃したので、早々にアマプラ落ちしてくれて有難かった。
1969年、ノースカロライナ州の湿地帯で町一番の色男の死体が発見される。警察は事件と事故の両面から捜査するが、やがて容疑は“湿地の娘”と地元民から蔑まれる一人の少女へと向けられてしまう。逮捕勾留された彼女に手を差し伸べたのは老弁護士だった。

弁護士「キミはやってないんだね」
湿地娘「誓ってやっておりません」
弁護士「誓ってやってないんだ!?」

いま立ち向かう! 差別と偏見の闇を切り裂いて真実を掴み出せ! Summer of '69!
そして炙り出される少女の過去。めくるめく恋愛劇と法廷劇のシーソーゲーム!
『ザリガニの鳴くところ~~。

…と、このように本作の概要をサクに説明したら「へえ」だって。
湿地の娘を演じたのはデイジー・エドガー=ジョーンズ
2016年にイギリスのTVドラマでデビューした新人女優だ。王道美人というか、透明感ある端整な顔立ちだが、それゆえに何者でもない無記名性によって没個性の側へと滑り落ちた“美のパラドックス”の現代的犠牲を体現した女優の一人とも言えるけれども、とかくこの手の顔は“記名性を必要としない映画”においてはトコトン強い。
たとえば『X エックス』みたいなスプラッター映画とかね。「次に死ぬのは誰か?」っていう出役退場の予想をひとつの醍醐味とするスプラッター映画において、たとえば主演が名の知れた人気俳優だったりすると「どうせ最後まで生き残るんでしょ?」と容易に予想できてしまえる。だからスプラッター映画では無名俳優が多用される(そもそも予算がない…という悩みも同時に解消さるる)。

デイジー・エドガー=ジョーンズちゃん。

そして本作もまた記名性を必要としないミステリ映画であった。
ミステリ映画としての本作のフーダニットは「町一番の色男を殺したのは誰だ?」ではなく「殺したのはデイジーか否か?」の二択なので、その主演には“犯人かもしれないし犯人じゃないかもしれない相貌”が求められるわけだ。その意味では『真実の行方』(96年) のエドワード・ノートンや『39 刑法第三十九条』(99年) の堤真一ってすごくよかったよね。
本作のデイジー・エドガー=ジョーンズは、そのつるっとした美しい相貌ゆえに「犯人なんかな? でもそうは見えないよな。でもだからこそ逆に犯人? いやナイだろ~」と見る者を惑わせるが、これは端的にクレショフ効果だよな。
クレショフ効果とは、ソ連の映画理論家レフ・クレショフが提唱した認知バイアスである。一言でいえば「観客の映像理解などモンタージュによって如何様にも操作できる」というもの。
たとえば、“サイゼリヤのミックスグリル”を映したアップショットのあとに“無表情の男”のアップショットを繋げると、見る者はこの男がまったくの無表情であるにも関わらず「ああ、この男はとても空腹で、ミックスグリルむちゃむちゃ美味そうやん、今すぐこのミックスグリルが食べたいわぁ、と思っているのだろう」と勝手に解釈する。
同様に、“棺桶を映したショット”のあとに“無表情の男”を繋げた場合も、やはり見る者は「可哀そうに。この男は大事な人を失って、とても悲しんでいるのだろうなぁ」と勝手に物語を作りあげて、勝手に感傷に浸る。
翻って、デイジー・エドガー=ジョーンズの“つるっと美しくも何者でもない顔立ち”は、まさにクレショフ効果を惹起するに相応しい退屈さを湛えていたのである。


そんなわけで、「おれはデイジー・エドガー=ジョーンズちゃんを見つめるから、おまえは湿地帯を見つめる係な」と役割分担した私、「おれだってデイジー・エドガー=ジョーンズちゃんを見つめたい」とごねるサクを無視してレッツ・ウォッチパーティ。
文句の嵐でした。

町一番の色男を殺めたのはフーズダット?

◆意思決定者としてのテイラー、スーパービンタの使い手ハリス◆

 美しいシラサギが湿地帯を滑空するファーストシーンで、早くも僕はガッカリしてしまったのです。
シラサギ、CGでやってもうとるのよ~。
も~~~~、なんでそんなことすんよ~~。湿地帯の美景を活かした作品なのに野生動物がCGて。
これが『エクボー:ウェイ・ウェイ・パーティー』…じゃなかった、『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』(22年) だったら分かるよ? でも『ザリガニ』やん。言うたら悪いけど、しょせんザリガニや。製作費だって十分の一以下。
だからこそテクノロジーじゃなくてリアリズムでやるんですやん。『ザリガニ:湿地・オブ・ウォーター』ですやん。そこはCGじゃなくて実物を撮ってよ~。
実物を撮るんですや~~~~ん。

1969年。町一番の色男が死体で発見され、デイジー・エドガー=ジョーンズちゃんが逮捕されたファーストシーンのあと、物語は1953年に遡り、そこから62年、68年…と幼少期から現在までのデイジーちゃんの歩みを辿っていく物語構成と知ったときもガッカリしてしまったのです。
これに関しては好き嫌いの問題だけど、おれはこのフォーマット苦手なのよね。壮大な回想シーケンスが上映時間の約半分を占めて、本来“主演”と謳っていたデイジー・エドガー=ジョーンズちゃんの出代が同役の子役に半分持ってかれて実質半減しちゃうやつね。役者交代型回想とでもいうのか。

くわっ…苦手だっ。

回想型でこそないものの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(84年) とか『スリーパーズ』(96年) とかさぁ。デイジー・エドガー=ジョーンズちゃんが見たくて本作を見た人間からしたらなんか損した気分になるやつね。それでなくとも、単純に二人一役って構成的に不細工だからやめてほしいのよなー。そういうのはNHKの朝ドラだけでええ。
あとさぁ、わざわざ子役を使ってまでデイジーちゃんの過去から現在に至るまでをばかにゆったり描いてるけど、これが後に利いてくるとは思われへんのよね。たぶん原作小説の筋をそのままなぞってるだけとちがうか。
もっといえば、そこに一抹の傲慢さを感じてるオレもいてるのですよ。卑近な言い方だけど、結局こんなもん、湿地帯殺人事件の犯人はデイジーちゃんか否かの二択でしかないし、ミステリとしては割と即物的な題材でしょ。にも関わらず、主人公の境遇や生い立ちをたっぷり描き込む…というのは、それこそ(文字情報しか持たない)小説の手法であって、それを映画でやることが作り手の傲慢にほかならないことを自ずから傍証してる身振りやと思うのよね~。

ジョジョ・レジーナによる主人公の幼少期パート。

そして物語中盤からやおら傾斜し始めるラブロマンス路線。
森で出会ったテイラー・ジョン・スミスとの蜜月を甘く描きあげる手つき! 戻ってくると約束したきり都会から戻らなかったテイラー坊の裏切りに、ひとり浜辺で涙をこぼすデイジーちゃん。もう「木綿のハンカチーフ」やんか、やってること。
そんな傷心デイジーのまえに町一番の色男ハリス・ディキンソン(本作の犠牲者)が現れたことで、今度はハリスとの蜜月を甘く描きあげん、と映画はする。
ここで、何かに耐えかねたサクは「なんか若い女の子向けみたいな映画やね」と言った。
正鵠を射がち~。
実際はカタカナで言ったからね。「セイコクヲイガチ~」って。
何気なく呟いたサクの一言は、とてもいい一言だと思いますよ。この発言を因数分解するなら「全編から漂う女性向けヤング・アダルト小説感にぼくはウンザリさ」ってことになるのだろう。
ヤング・アダルト系の映画といえば『きみに読む物語』(04年)『トワイライト 初恋』(08年) が有名だけど、それよりはもう少し年齢層高めの…『きっと、星のせいじゃない。』(14年) 以上『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』(15年) 以下ぐらいのニュアンスで伝わってくれればいい。
だからか、とにかくデイジーの自己憐憫がすごいよ。正確には“デイジーを憐憫する映画の眼差し”やけどね。
…ちょっと物真似してみるわな。
「デイジーを憐憫する映画の眼差し」の物真似したる。
嗚呼っ、湿地帯でひとり育った天涯孤独のデイジーちゃん。テイラーに裏切られ、ハリスからは弄ばれたデイジーちゃん。なんて孤独な魂なんだろ!! こんな娘が殺人事件の犯人なわけないよね。見てる人たちだって、そう思うよねえ!?
…みたいなさ。
うるせえって。
デイジーを憐憫する映画の眼差しがうるせえ。

ほんで、サク…
「くわぁ…」
あくびしてるやん。
飽きてるやん。
5分ぶりに話したと思ったら「くわぁ」ゆうてるやん。ウトウトしてるやん。

急接近するデイジーとテイラー。

そして相手役の男二人はただただ雑に扱われる。
本気でデイジーを愛していたテイラーが都会に行ったきり戻らなかったのには何か事情があるのだろうと、せっかくオレが斟酌してあげたのに、彼女がハリスと結ばれたあと、今さらのこのこ現れて「ごめん、都会生活が楽しすぎてキミのこと忘れてた…」って。
事情あらへんのかい。
やむにやまれぬ事情のせいで都会から湿地帯に戻ってこれなかった…じゃなくて、すき好んでおのれで都会選んどったんかい。
おもいっきりテイラーの意思っていう。
なのにテイラー、踵を返して「今さら遅いわ。トゥーレイト。あなたとはこれきりよ。イッツオーバー」つって去ろうとするデイジーに縋りついて「僕が悪かったよ。諦めきれないんだ!」って。
意思決定したんオマエやろ。
知るかあ! オマエが都会に行ったきり戻らないと知ったとき、おれは「きっとなんか事情があんねんて…」と言って訝しがるサクを説得したのにさ~。世界中でただ一人、おれだけがテイラーのことを擁護したわけよ。
それなのにオマエ…「都会生活が楽しすぎたため」って。
意思やん。
選んでるやんけ。「都会か湿地か!? 都会ならAのボタンを、湿地ならBのボタンをどうぞ!」言われてAパ――ンッ!押してるやん。大概にせえよ。

ほんでハリスもハリスなのよ。
婚約者の存在を隠してウブなデイジーちゃんの純情を弄んだハリスは、後日ウソがばれて「婚約者がいたなんて!」と激怒した彼女に対して「いてもいいだろ!!!」と逆上してスーパービンタをお見舞いする。

サク「いてもいいだろ?」
おれ「ハリスっていうかハリタオスやん」
サク「なんで本来ビンタされる側がスーパービンタしてんねん」
おれ「デイジーちゃん、華奢やからビンタ喰ろてふっ飛んでもうとる」
サク「あ、でもデイジーちゃん反撃した!」
おれ「あっ!! すごいすごい…」
サク「すごいなぁ。石でガーンってした」
おれ「すごいシバいてる。戦いのシーンや」

なんやねん、これ。
あろうことか、デイジーちゃんとハリスがハードアクションするのよ。ただの痴話喧嘩で。「殺意の目覚めー」とかなんとか言いながら。す~ごい戦うから。なんなら殺そうともする。

そんなこんなで現在時制。
町一番の色男、ハリス殺害事件の真相を巡ってデイジーちゃんの裁判が開かれるわけであります。
いったいぜんたい、犯人は誰なのか!?
もう…、ほぼ一択じゃない?


「誓ってやっておりません」
本当かなあ、デイジーちゃん!!?

◆魂のブルルン◆

 まあ、別におもしろくはなかったな。
「Aと見せかけて逆にBじゃない?」としたオレの裏読みがことごとく外れて、最初からまっすぐ「Aやろ」と予想したサクが、たくさん、謎を当てました。
おもんね。
おれは言い訳をしましたよ。
「まあ、オレもAって分かってたけどな。分かったうえで、あえてBに逆張りしたのよね。というのも、何かに出し抜かれるのがイヤな性分なのよ、昔から。オレを出し抜くな。誰もオレの予想を超えんな。日々そう思ってるね。だから、こういう時はBに張る。頭では『たぶんAやろな』と思いながらもBに張る。魂のB。でも頭ではAと分かってるから、実質AとBの2車単折り返しなわけ。だから、ある意味Bに賭けながらも正解してるわけよ。わかった?」
そしたらサクに「その理屈がまかり通るならなに予想しても全部当たるやんけ」と言い負かされて、くにゅにゅ~~ってなった。
いやいや実際、「Aと見せかけてBじゃない?と思わせて実はまっすぐA」はシンプルにつまらなかったけどね。だってこんなもん、まっすぐ予想していいならハナから全部わかるでしょ。腹立つわ~。まあ、ネタは伏せるからこれ以上語らないけどさ。

裁判を受けるデイジーちゃんのようす。

ほんで肝心の“映画”部分ね。
肝心の映画については…ずっとLINE通話で喋ってたからロクに見てないですよ、それは。
ただ、“喋るのに夢中で見てなかった”のか、“見るまでもない出来だから喋ってたのか”という先後関係の謎は残るけどね!!!
朧げな記憶を辿りながらの批評になるけど、主役の身体性が残せてないと思った。あまり動いてた印象がないし、絵や読み書きといったモチーフの活用もただの説話機能の一部になっとった。
なによりデイジー・エドガー=ジョーンズちゃんが汚れなさすぎ。町人から迫害される身寄りなき湿地の娘には到底見えないし、むしろ町人から愛される湿地の名物娘として逆に人気でるやろってビジュアルを貫きすぎ。 『愛人/ラマン』(92年) の見すぎ。
美景ショットは一辺倒なので、一発目で「綺麗に撮られたある」と感心したあと、二発目で「あ、ハイ」、それ以降は「ずっと同じことしてる…」の感。
畢竟、映像といい物語といい、なんか色んなものが入ってそうなのに、いざ開けてみたら通帳と印鑑しか入ってない実家の引き出し…みたいな、そんな印象を受けたのよな~~。

美景ショットの数々。

エンドロールを眺めながらサク、不意に質問をしてきた。
「さっき見た『 X エックス』か、今見たばかりの『ヤドカリの住むところ』、どっちが面白かった?」

『ヤドカリの住むところ』て。

海か磯浜やろ、だいたい。
ザリガニとヤドカリ間違えてるやん。巻貝の中で暮らす奴のこと言うてる。『ザリガニの鳴くところ』や。なんやねん『ヤドカリの住むところ』て。海周りやろ、そんなもん。
と、めちゃくちゃに突っ込んだら、けらけら笑ろとったわ。
なんやこいつ。

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