シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

天気の子

端役でもいいから石原良純を登場させる気概もないやつに天気の話など語れまい。

2019年。新海誠監督。アニメーション作品。

なんかあんま覚えてないけど家出少年が天気の子を救おうとするんだけど救えなかったら一生雨がやまなくてどえらい事になるんだって。


 あっすあす。
今日の評はサラッと終わるから、そのぶん前書き多めでいこな。そやってバランスを取ることが世界の理っちゃ世界の理だからな。
どうでもいいけど「理」って書いて「ことわり」って読ます作戦、やめてほしいよな。漢字1文字のなかに4文字も込めるなよ。欲張りな野郎だ。

さて。今から話すことはたぶん誰にもわからねーだろうが、まあ、わからなくていいや。ただ話したいから話すだけだ。
おれさー、コナンくんのことをケビンって言ってしまうんだよな。昔から。
大人気名著『名探偵コナン』に出てくるコナンくんのことを、なぜかケビンと言ってしまう。いや、「言ってしまう」というより、そう思ってるっていうか、おれの中ではケビンなの。ケビンとして定着してるわけ。ある種。
だから、咄嗟に口をついて出てくるのがケビンなの。
だから江戸川コナンはエドガー・ケビンですよ。
おれの中ではね。
あくまでおれの中だけの江戸川コナンはね。
世間一般では「江戸川コナン」でも、おれの中に巣食うあいつは「エドガー・ケビン」なのよ。それって。もう。
事の発端は、あれいつだ、昔か。昔だよ。コナン好きの友人がいて、やたらコナンコナンってうるせーもんだから、コナンに対するアンチテーゼとして「わざと名前を間違えて怒らせてやろう」ってイケズを企てたの。

友人「今度の名探偵コナンの映画がさ~」
おれ「名探偵ケビン?」
友人「名探偵コナン!」
おれ「ケビン」
友人「コナン」
おれ「ケビン」
友人「江戸川コナンだよ」
おれ「エドガー・ケビン」
友人「エドガーじゃない。江戸川」
おれ「エドガー」
友人「江戸川」
おれ「エドガー」
友人「コナン」
おれ「ケビン」
友人「コナンだって」
おれ「くびん」
友人「…くびん???」
おれ「ケビン」
友人「江戸川コナン」
おれ「エドガー・ケビン」
友人「ケビンじゃない。コナン」
おれ「わかった。名探偵ケビン」
友人「わかってない。名探偵コナン」
おれ「名探偵エドガー・ケビン」
友人「コナンだっつって」
おれ「ケビンつって」
友人「江戸川コナン」
おれ「エドガー・ケビン」
友人「名探偵コナン」
おれ「名探偵ケビン」
友人「コナン」
おれ「くびん。ケビン。名探偵ケビン」
友人「だから違うって。コナン」
おれ「ケビン」
友人「見た目は子供」
おれ「見た目は子供」
友人「頭脳は大人」
おれ「頭脳は大人」
友人「その名は」
おれ「その名は」
友人「名探偵」
おれ「名探偵」
友人「コナン」
おれ「ケビン」

そのあと、友人は発狂した。
あとちょっとで縁切られそうになった。
でさぁ、そのときのケビンって言い過ぎた名残が染みついてるっていうか、だから抜けねーのよ、もう。金輪際。
それ以来、コナンのことを思い出すたびに、まず先に「エドガー・ケビン」がきて「あ、違ぇ。江戸川コナンだ」って脳内で一瞬訂正する時間が発生するようになっちまったわけ。
こういうさぁ、“わざと間違って認識したことを是とする癖”はほかにもあって、たとえば当ブログで何度も言ってる「ポケッツモンスツー」なんかもそうだし、クリント・イーストウッドのことを「クリンティング・イースティング」つって、何故かingを付けちゃう癖とかもあるのよ。クリンティング・イースティングの『チェンジリング』つって。語呂がよくて気持ちよくない?
こういうの、皆はあるかな? あんまりないかな? 「マイ言葉」っていうか「マイ言い方」っていうか。
ま、あったとしても、人に迷惑かかるから、やめような。

そんなわけで本日は『天気の子』です。つまらないからすぐ終わらせた。



◆私の心も雨模様◆

 世間がすずめ、すずめと言うから「そういえば新海誠なんてヤツがいたな」と幾年ぶりに誠ちゃんの存在を想起。どのVODを開いても『天気の子』を見ろ、『天気の子』を見ろと脅しつけてくるので、まあ見るかと思い視聴。
この子は相変わらず幼いな。甘いアニメ作ってるわ。
“冗長な説明描写”を危惧するあまりジャンプカットを多用しすぎて一向に物語が線にならない前半40分が一番キツい。描き急いでるというか。さしあたり各キャラクターや各シーンの状況が分かればいいって見せ方は中編アニメを撮ってた頃からなにも変わってなくて。
結局ポエマー。一行詩の人なんだよな。言葉は紡げど、その言葉が“文章”にならない。流れも渦も生まれず、波すら立たん。ただポチョン…ポチョン…って雨漏りみたいに“言葉の滴”が落ちてくるだけ。

加えてセリフのつまらなさ。主人公は状況説明のみならずナレーションまで担当しちゃって“新海ポエム”をべらべら垂れ流す。女キャラ2人は“思春期の男の子が憧れるちょっぴり色っぽいお姉さんが言いそうなこと”を鋳型通りに話すセクサロイドでしかなく。
ていうか、新海アニメに出てくるキャラクターってどれも類型的すぎて退屈なのよ。判で押したようにポンポンポンポンポンポンポンポン。特に女性キャラの幅のなさは一周して作家性?
あと主人公・帆高くんのアテレコがド三流なんだけど。何これ誰これ。調べたら醍醐虎汰朗とかいうまったく知らん新人俳優だった。
声優使えよ。
昨今の劇場用アニメって「声優使ったら死ぬゲーム」してるんか?



東京の風景は描き込まれてるね。すごくいい。それを「リアル」という人もいるし「映像美」と呼ぶ人もいるが、ここが新海アニメ最大の勘違いポイント。
新海アニメでやたらにリアルリアルと持て囃されてる風景描写はリアルどころかアンリアル。
光源不明の照明がありえない角度から街を照射する“ファンタジーアート”なのであって、言ってしまえばラッセンの絵。どこがリアルなんだと。むしろ真逆やろがい。
実際、誠ちゃんは、上京したての自分を感動せしめた“心象風景としての東京”を大人になった今なおアニメに焼きつけてるような子なので、世間でいわれる「童貞の妄想」だとか「気持ち悪い」といった意見はごもっともで。もっぱら“雰囲気”を発光源としたノスタルジアに自己陶酔した作風であることは、大林宣彦の尾道三部作や、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の影響からも窺えるが、本作の問題は「ノスタルジア」よりも「雰囲気」にかまけてしまった点である。
なんといっても脳死連打の挿入歌による全編MV化。

今回もちゃんとRADWIMPSうるせえ。

MTV映画よりもMTV映画。音楽に全もたれの楽曲依存ぶりは相変わらずって感じだが、雰囲気演出は前作より加速してるような気がして。
繰り返される無意味きわまりない心象風景のシーンや、刑事役の平泉成「大丈夫ですか。あなた今、泣いてますよ」のくだり、スーパーカブで警察の追跡を振りきり「帆高、走れー!」と叫ぶ夏美の後ろでキラキラと輝く水面の必然性の無さなど。甘いねえって感じで。



最大の瑕疵は、最重要モチーフである雨が物語上の道具としてしか機能しておらず、映画的主題として全く活用されてないことだろ。“濡れる”なんておいしい素材も放置されっ放しだったぞ。
モチーフ活用の稚拙さは、たとえば銃であったり。たまたま帆高が入手した拳銃に“大人に抗しうる武器”なり“代償としての暴力”なりといったメタファーを読み込むにはあまりに短絡的かつ矛盾だらけ。チャンドラーやサリンジャー読んでこじらせたんか?
また、たとえば猫であったり。とりあえず猫を出しておけばいいみたいな安易かつ世界観にもそぐわないあのデザインはなんだ。しかも作劇になんら寄与せず、ばかな観客の「あの猫かわいい~」を引き出すためだけの点数稼ぎ装置として幾つかの場面にだけチョロっと登場させやがって!

あと、これに関しては新海アニメだけじゃなく国産アニメ全般に対して7年ぐらい前から思ってたことなんだけど、昨今のアニメって致命的なまでに“おとな”が描けないよね。
主人公の穂高は家出して上京した少年。両親は心配してるって設定なのに、その両親とやらは1秒たりとも画面に映らないばかりか、ほんのわずかでも穂高少年が両親を顧みることさえなく(だいたい家出した理由も最後まで明かされないまま)。
そんな穂高少年に衣食住を提供してやるのが須賀(ガサツなお兄さん)と夏美(エッチなお姉さん)なんだけど、この2人も思春期のガキが思い浮かべるステレオタイプな大人像におさまってて。実社会でいうところの大学生から新社会人ぐらいの精神年齢しか持ってないのよ。ヘタしたらそれ以下か。だって大人なのに「ここはオレに任せて先に行け~!」とかいって刑事に殴りかかったり、大人なのに「警察に追われてるの? 乗って~!」とかいって穂高をスーパーカブの後ろに乗せてパトカーとチェイスを繰り広げたりしてるんだからああああああ。

物語の着地点もよくわからないですよ。
『ライ麦畑でつかまえて』的な青春譚がやりたかったんだろうけど、これじゃあ「世界の危機より好きな娘をとるうううう」ってまっすぐ青臭い話でしかなくて。これなら『崖の上のポニョ』(08年) の方がよっぽど可愛げがあるわ。
『君の名は。』(16年) の瀧くんと三葉を登場させるよりも先にやるべきことは山積みでしょうが。

あとさ…巫女とか好きだよね、この子。
“僕”と“世界”を媒介する存在としてのヒロイン=巫女。そんな巫女を失ったことで世界に災害が訪れる。“僕”は彼女を探してラストシーンあたりで再会する…!!
『君の名は。』以降の大メジャー3部作は全部コレだと思ってる。
誠ちゃんのことだから、なんか「再会=エモい」とか思ってそうじゃん。『すずめの戸締り』(22年) は見てないし、見る予定もないけど、どうせ再会の場面で終わるんじゃないですか? (見当違いだったらすまん)

そんなわけで『天気の子』
劇中と同じく、私の心も雨模様。
端役でもいいから石原良純を登場させる気概もないヤツに天気の話など語れまい。


良純こそ天気の子。

(C)2019「天気の子」製作委員会