シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

マッドマックス:フュリオサ

アニャ・テイラー=ジョイは誰かの再来  ~その大きな目をくりくりとさせてゆけ~


2024年。ジョージ・ミラー監督。アニャ・テイラー=ジョイ、クリス・ヘムズワース、トム・バーク。

女戦士のフュリオサが戦う中身。


おっけ。やろ~。
或夜。本格イタリアンレストランテとして有名なサイゼリヤ、で本を読みながら「小エビのサラダ」と「半熟卵とペペロンなのにこんなにもチーノ」をバカみてぇな顔してまぐまぐ食べていたのだが、隣りに座った3人組のおばはんが度し難いほどやかましく、苦痛のディナー空間をおれに提供してくれたン。
グラッツェ。
おばはん達の話題は日本のテレビドラマだった。とりわけ、おれの真隣にいたリーダー的存在のおばはんが凄まじい声量で「私、あの展開読めててん。職場のミユキちゃんとかは大層びっくらこいてたけど、私はなにも驚かなかった。なぜなら最初から読めてたから」とか「あの子に主演は荷が重すぎたわね~。まだまだ甘ちゃんだわ。青二才の糞ガキがっ。やっぱり藤木直人ぐらい、味出してもらわんと」とか「語弊を恐れずにいえば、ビバンは過大評価されてると思うのね? とりわけ後半の展開が独りよがりで、視聴者を置き去りにしてる。オナニーだと思う。ぶっちゃけ、アンチヒーローの方がおもしろいしね。長谷川博己も味出てるし」といった意味のことを捲し立てる。
テレビばっかり見とんなぁ、このおばはん。
味ってなんやねん。

席がすぐ真横だったので、よっぽど注意しようと思ったのだが、少し考えてやめた。理由は以下の2点。
ひとつは前書きのネタにしてやろうという下心。おれは珍奇・新奇・非常識な人物を見たとき、これ好機とばかりにその生態を観察する。そしてその様子をケータイのメモ機能に残す。話の種にするために。その種を育てて大輪咲かすために。だが注意してしまうと種が実を結ばない。だから注意やめる。
いまひとつは、そのとき自分が読書しながら食事をしていたからで、たとえば本をひらげたまま「おい、おばはん。うるさいから静かにせえ」と注意したところで、「なにさ! まあ、集中して本読んでる奴からすればうるさいかもしらんが、大前提としてレストランテは本を読む所ではないし、あまつさえ此処はサイゼリヤ。とかくサイゼリヤというのはその低価格帯ゆえに学生/貧乏人/素行不良の巣窟になりがちで、そうした学生/貧乏人/素行不良はだいたいにおいて知性に乏しく、よって元来がやかましい連中。ナチュラル・ボーン・やかましボーンってわけ。畢竟、サイゼリヤとはやかましさをデフォルトとした大衆食堂といえていくわけよねぇ。おい聞いてんのか、めがねの屯田兵。なにが言いてえかっつーと、そのやかましいサイゼリヤで読書を試みることの方がおかしいのであり、さらぬだに『うるさいから静かにせえ』などとお門違いも甚だしい言い掛かりをつけてきたオメェという存在、オメェという生命、オメェという宇宙、に対してこそ『うるさいから静かにせえ』と私は言いたい。西城秀樹の真似事をしながらブーメラン、ブーメランと歌いたい。次の言葉がトドメになるから、よ~くお聞き。アユレディ? 本が読みたきゃ図書館に行きな」と、こう論駁されたらぐうの音も出ないためである。
だから黙って聞いてた。

黙って聞いてたところ、おばはん達のパワーバランスが見えてきた。
先ほどから、私はこう思った、私は全部わかってたなどと意見を捲し立てる、一番うるさい主犯格のおばはん、通称、主はんに対して、その向かいに座っていたおばはんはウンウン族の聞き手で、一から十まで主はんの主張に「うんうん、わかる。そうだよねー。うんうん、蓋し尤もだと思ーう」などと付和雷同するばかり。付和雷同されたものだから主はんはことさらにつけ上がり、私のトークはおもろい、私はドラマ批評の第一人者、この言論空間における主役は私で、もはやこの空間それ自体が私を主役とした1本のドラマだったりするのかも、などと勘違いする。
そして主はんの隣りに座っていたおばはんは笑い声担当の賑やかし。ふたりが織り成すおもしろトークを少し離れた観覧席から楽しみ「あっへ~」と大袈裟に得心してみたり「どらまままままままままままま」などと手を叩きもって大笑いするばかりで、まあ別にいてもいなくてもよいのだが一応いてくれると演者側としては助かる、みたいな、早い話がお客さんなのだ。

「オチが読めたよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
「すっごー! 私ぜんぜんわからなかったああああああああああああ」
「ろくがががががががががががが」

興奮のルツボーションじゃないか。
ええ? おい。
おれは、おばはん達を割としっかり見ながらペペロンチーノをペペロンしていたのだが、見られていることにも気づかないほどの熱狂ぶりであった。ワールドカップみたいだった。ちなみに、こいつらは何食べてるんだろうと思い、テーブルの皿を見るとぜんぶ平らげていたのでわからなかった。
普通こういう場合、話に夢中になるあまり遅々として食事が進まないものだが、この子ら、べらべら喋りながらもりもり食べてた。エネルギー、放出しながら吸収してた。しっかりしとんなぁ。目を皿にするとはこのことかなあ?
さらによく見ると、主はんの手元にはワイングラスが置かれている。
酔うとるやないか。
しかも白ワイン飲んでた。
なんでやねん。赤ワインで酔うたときみたいな騒ぎっぷりやのに白ワイン飲んでるやん。赤飲めよ。それだけ騒ぐなら。赤じゃないと辻褄合わんやろ。なんじゃこのおばはん。赤特有の痴態を演じてるのに白飲んでるやん。
でも聞き役のおばはんは赤飲んでた。
白飲めよ。
主はんのやかましさに比べたら幾分マシなおまえが、なんで赤飲んでんねん。なんで赤飲んでんのに白飲んでる主はんに負けてんねん。やかましさにおいて。なにしてんねん。勝てよ。赤飲むなら。絶対勝ってくれよ頼むから。
そして笑い役のおばはんは水飲んでた。
ぶっちぎりで怖い。
世界でいちばん怖い。一等賞で怖い。あんな馬鹿笑いしてたのにシラフやったで、おい。よう水だけで「どらまままままままままままま」言うたな。おまえがダークホースやったんか。いちばんアブない人。飲まずして酔うてるやん。シラフでそれやと酒入ったらどないなってまうん。むちゃむちゃポテンシャル秘めてるやん。そら恐ろしい子。計りしれない子。

そんなことを思ってると、少しく尿意を催したのでトイレに行って帰ってきたらおばはん達の席は無人で、食べ散らかした食器だけが残されていた。
「帰ってるやん」
はや。飲めや食えやのドラマ談義で、せんど騒いでたのに。すばしこ。行動力たか。俺がちょっとトイレ行ってる隙に忍者みたいに消えてるやん。風魔一族なんかな。あんだけ騒いでたのに。もうおらへんやん。きりかえ早。兵は神速を貴ぶ。フットワーク軽。思いきり、よっ。
残りのペペロンチーノをペペロンしてサイゼリヤを出たら、少し眩暈がしました。つかれた。

そんなわけで本日は『マッドマックス:フュリオサ』。ファイトを出して書きまーす。

レッツGO!GO!



◆走れママオサ! 囚われのチビオサを救いだせの巻◆

 この世には 『マッドマックス』(79年) 好きと『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(15年) 好きと双方ひっくるめたマッドマックス好きがいるから困る。
…や、べつに困りゃあしないか。
さて、おれはと言うと断然『マッドマックス』、つまりメル・ギブソン主演の旧3部作が好きなのだが、もっといえば『北斗の拳』好きでもあるし、そもそも映画単体としては『マッドマックス』よりもその亜流作品である『マッドライダー』(83年) の方が好きという、もはや新旧どちらのマッドマックスが好きかという議論とは無関係マックスの方向へとハンドルを切らざるをえない。
ちなみに、もう9年前か、日本でも社会現象を巻き起こした『怒りのデス・ロード』に関しては割とフツーに楽しんだクチだが、「V8を讃えよ!」よろしくこの映画を信奉しすぎて理性を砂漠に置いてきてしまった盲信的な映画ファンによるカルトじみた磁場は嫌いです。
そんな『怒りのデス・ロード』の続編は、同作でシャーリーズ・セロンが演じたフュリオサというキャラクターの過去に焦点を当てたプリクエルもの。フュリオサ役はアニャ・テイラー=ジョイ。監督は新旧すべてを手掛けたジョージ・ミラー御大79歳。

アニャ・テイラー=ジョイ。

 映画は5章構成の148分で、フュリオサの幼少期から仇敵に復讐を果たすまでの血とオイルにまみれた旅路を描く。
思いのほか幼少パートが長く、クリス・ヘムズワース扮するディメンタスという卑劣漢が率いるバイカー集団に母親を殺され、また自身もやがて手籠めにされるであろう緊縛の処女として移動式監房に幽閉された13~4歳のフュリオサ―通称チビオサの目を通して新星暴君ディメンタスと絶対暴君イモータン・ジョーの両勢力による奸計と呼ぶにはいささかヒャッハー過多な覇権争いを見つめてゆくのだが、いかんせんピカレスクロマンとしての精彩を欠くのは権謀術数の駆け引きに乏しすぎるプロットだけではなく、ディメンタスの手に落ちたチビオサを奪還せんと単身敵地に潜入した果てに壮絶な最期を遂げたチャーリー・フレイザー扮するママオサのシーケンスが簡にして要を得た見事なオープニングだったからなんだよねー。

貴種流離譚の序章にふさわしい第1章は、ヒャッハーたちに攫われたチビオサを奪還するべく火の玉となりて改造バイクで砂漠を飛ばし、ライフルで一人仕留めてはまたぞろ改造バイクで砂漠をすっ飛ばす…という追跡劇が、まるでハワード・ホークスの西部劇を観ているかのような引き延ばされた時間性の中に真空パックされていて。
と同時に、空間性はおざなりと言えるほど抽象化されている。“されている”っていうか、もともとジョージ・ミラーは空間が撮れる人ではなく、事実『怒りのデス・ロード』でも二丁拳銃を乱射する武器将軍とその銃弾から逃れるマックスらを貧乏臭いカットバックだけで処理したり、全編にわたって不明瞭なイマジナリーラインの上をたゆたうばかりで、トラックの直進性や追う側と追われる側の位置関係も曖昧模糊のモコちゃんと化すなど、まあ、はっきり言って下手なんですけど、この1章に関しては砂嵐。この砂嵐がすべてを解決した。空間性の被覆、サスペンスの醸成、そして見えなかった世界がこのあと―すなわち第2章でドーンと立ち現れることの表象的伏線、言い換えるならスクリーンマスク(映画の世界にいざなうカーテン)etc、詳しくは本編をご覧なさってくだせえ。

チビオサを乗せてバイクを走らすママオサ。

◆故意に引き延ばされた時間! 飽くことを知らない148分の巻◆

 利口にジャンプカットもせず、フュリオサの幼少期から現在時制そして復讐を遂げるまで…を律儀にタラタラやってるため、かなり冗長な内容ではあるんだよね。上映時間をみても、前作の120分を大幅に超過した148分の肥満体。
前作はえらかった。120分ピッタシというのは意識しないとそうはならないわけで、つまりG・ミラーが“120分の病理”を心得ていたことを傍証してるわけだが、それを本作が大幅に超過したということは、これもまた意識しないとそうはならないということで、畢竟、第1章に触れたときにも言及したように“故意に引き延ばされた時間”をこそ主題に選んでいるわけじゃよ。
だってさー、観客の関心はイモータン・ジョーの下で男を装った整備工として頭角を現したフュリオサの捲土重来ストーリーであり、いつ終わるとも知れないフュリオサを乗せた2連タンクローリーの補給戦車が無限湧きする敵軍の猛追にじりじりと消耗してゆく迎撃戦であり、“事実上のマックス”としてフュリオサの相棒となるトム・バーク演じる警護隊長ジャックの「でもこの人、なんか死にそうやな。そろそろここらで死んでまうんかなぁ?」という予断許しまくりの死期であり、苦心惨憺の末にようやく追い詰めたディメンタスの処遇についてフュリオサが羽生善治ばりに大長考して導きだした結論なのである。

トム・バーク。

すべては故意に引き延ばされた時間

でもな。えらいもんで、飽きないのよ、この映画。摩訶不思議だよね。
エンタメとしてのおもしろさを担保する手段として時間を引き延ばすというパラドックス(フツー、時間を延ばせば延ばすほど退屈するじゃん)が成立してるわけ。
不思議だよねぇ~~?
不思議だよにぃ~~?
不思議でもなんでもねーよ、バカ。
時間を引き延ばしてもおもしろさが担保される理由なんて『怒りのデス・ロード』を観てりゃあ誰でもわかるっつーに!
デザインよ、デザイン。
キャラクターやメカニック、各種ガジェットに衣装デザインの趣向、構図のデザイン、音のデザイン、照明やカラコレやVFXのデザイン。凡そすべてにおいてデザインセンスが抜群だから飽きないの。
不世出の天才デザイナー、G・ミラーによってビジュアライズされた『マッドマックス』の世界観がとってもステキだから飽きないのおおおおおおおおおおおお。
あ。一応ちゃんと“映画理論の見地に立った、飽きない理由”も述べておかないとアホと思われるから述べるけど、コマ抜きによる早回し効果ですね、それは。
特にディメンタス周りかな。随所でコマ抜きが使われてるんだけど、これがなかなかに心身症的というか、明らかに不自然なの。なんなら、もうコマ抜きすぎてストップモーション・アニメみたいになってんの。1秒/24コマが当たり前の現代人にとっては「うわ、気持ちわるっ」てなもんだろうが、これが16コマだった時代のバスター・キートンの『キートンの大列車追跡』(26年) の影響なんかもモロに受けてる本作ですから、やはり根幹の血に流れてるのはサイレント映画ですよ(ちなみにそのキートンはコマ落としを使わなかった、という意味では『怒りのデス・ロード』よりも速い。ううむ、恐るべし…)。

キャラクター、メカニック、衣装、ガジェット等のデザインセンスが雷鳴のごとくに狂奔す。

◆映画から要請されし貌! ピュッとした視線の巻◆

 『キートンの大列車追跡』の余勢を駆って話すけど、前作『怒りのデス・ロード』の時点で70歳だったG・ミラーも今作では79歳、されど感性は新進気鋭の若手作家ぐらい若返り、演出は切れよく、脂が乗るどころかその脂身を切り捨て、逆に青臭く、もうベンジャミン・バトンよろしく幼児退行してもうてるやんと思うほど先鋭化しゆく、センスという名の肌のハリ、フィルムという名の髪のコシは、石田ゆり子、安達祐実、深津絵里に匹敵する勢いだし、もうちょっとで「諦めないで、あなたのその肌」って言うんじゃないかと思うほどだが、どっこい、「やっぱり爺やんけ」と思わしむる点も特筆大書しておきたい。
まずもって大筋は『荒野の用心棒』(64年) であり、となれば当然、黒澤明の『用心棒』(61年) も観ているだろうし、当シリーズの見所であるカーチェイスに関しては先にも述べた『キートンの大列車追跡』は言うに及ばず、前作にも増して『駅馬車』(39年) への接近が見てとれる。スペクタクルに関しては『ベン・ハー』(59年) も。
それより何より第1章、クリス・ヘムズワース扮するディメンタスが『アラビアのロレンス』におけるアラビアのロレンスすぎた。
ここまで『アラビアのロレンス』(62年) だともう『アラビアのロレンス』やんってぐらいクリス・ヘムズワースが『アラビアのロレンス』。
もはや『クリスヘのムズワス』
そうしたロレンス愛は撮影にも感じられて、ニコラス・ローグ(『アラビアのロレンス』の撮影監督)を感じさせるショットも散見されたが、すぐ諦めた模様。スクリーン越しに「あ、むり。あかん」という声が聴こえた。

『アラビアのロレンス』風のクリスヘのムズワス。

そんなムズワスが演じた仇役、ディメンタスに関しては正直言って弱いですよ。しょうもない奴ですよ。
本来の、つまり旧3部作では通用したかもしらんが、なまじ『怒りのデス・ロード』でイモータン・ジョーなんて個性物凄(ものすご)な悪役を創造してしまった以上、それと張り合うにはあまりに場違い、埒外、格が違う。
カリスマ性はありそうでないし、演説を通して語られる思想や言葉そのものも浅薄だし、“大物の雰囲気をまとった小物”と斟酌しても尚つまらん。あと配役もね。MCUでせんど見てきたクリス・ヘムズワースに、もうそれとわからないぐらい“貌”がなかったですから(実際エンドロールを見るまでクリス・ヘムズワースと確信できなかった。むしろピーター・オトゥールとして見てた)。
ただ、そんなダメンタス、じゃなかった、ディメンタス。とびきりお気に入りの場面があって、ひとつは復讐してきたところを返り討ちにしてふん捕まえたフュリオサとジャックに地獄の責め苦を与え続けるよう部下に命じたディメンタスが、その単調な拷問風景にだんだん退屈してきて、やがてその倦怠感が苛立ちに変わり、挙句、敗残兵のようにしょぼくれた顔で「もういい、飽きた…」と言って部下に拷問をやめさせるシーン。
なんなんだ、このおかし味は。
ふたつ目は、激闘の末にフュリオサに追い詰められ額に銃を突きつけられたラストシーンで、母を殺したおまえが憎い、同じ苦しみを与えよかな、絶対許さない云々と言いながらいつまで経っても引き金を引かないフュリオサの長広舌に対して「話長いな。はよ撃てや」みたいなことを言うシーン。観客の気持ちを代弁したメタ発言っていうかね。
この2つのシーン。いずれも時間を引き延ばしてることを自覚すればこその自虐というか、時間に対する言い訳というか。映画が映画に対して、いわばG・ミラーが自分自身に対してメタ的にツッコミを入れてるわけよね。延々と続く拷問シーンに「飽きた…」と辟易し、勿体つけたクライマックスに「長い」と言ってしまうディメンタスは、G・ミラー自身であり、観客自身でもあり、なればこそディメンタス自身なのだ。

当然アニャ・テイラー=ジョイを讃える言葉も用意してございますよ。おれは以前「アニャ・テイラー=ジョイは誰かの再来」と豪語したことがあるが、その誰かというのが今ようやくわかりました。
ローレン・バコールだったんだな。
『三つ数えろ』(46年) であり『キー・ラーゴ』(48年) だったんだな。
フィルム・ノワールだったんだな。


彼女だったんだな。

だから 『ラストナイト・イン・ソーホー』(21年) のアニャは、あんなにもステキだったんだな。
アニャのことを、人は「かわいい」とか「美しい」とか「格好いい」といった言葉で称揚するが、そうした形容詞を用いることが自ずからアニャの魅力、その本質への盲を自白する身振りであることをわれわれは知っている。だってローレン・バコールの妖しさを「美しい」で済ますことは不適当を通り越して無神経ですらあるし、ハンフリー・ボガートの佇まいを「渋い」で形容した気になっているシニア層から、おれは迷わずその杖を、お薬手帳を、孫からもらった刺繍入りポーチを取り上げる。「あっ、返して…」と言われても絶対返さない。「えっ、いやいや。本当に返して?」と言われても返さない。
この世には映画から要請された貌としか言いようのない役者がごく僅かに存在する。アニャもその一人だ。
G・ミラーは、そんなアニャに襤褸とゴーグルとフェイスペイントで顔を隠してイモータン・ジョーの軍団に潜伏させたのだから、嗚呼、まいった。実際スクリーンに向かって「まじかよ」と呟いた。スクリーンから「まじだよ」と返ってきた。だって、こんなこと出来るのは30~50年代の映画人だけですよ。

顔を隠す。

思えば、大昔の映画はそうでしたな。
貌を見せたいなら逆に“隠す”のが効果覿面。
さらぬだに映画中盤では丸坊主のクリクリ頭にまでしている。そうなるともはや、われわれがアニャをアニャと識別しうる要素は目のみとなる。泥のフェイスペイントによって逆説的、そう戦略的に誇張された目だ。ローレン・バコールもそうだった。その目がすべてを見抜き、厚かましいクローズアップに耐え、サスペンスの導火線に火をつけた。すべからく観る者の関心はその目線の先へといざなわれたのだ。
かくして視線劇の動的装置は実装される。
極限までセリフを削ぐという、本来なら褒めたい要素がもうひとつ美点に繋がらないほど視線劇の緊張感に欠いていた前作『怒りのデス・ロード』が、敵地での交渉の場で「バカ野郎」を合図にトラックを発進させてしまったことに比して、本作はアニャの視線によってフィルムが緊張し、アニャの視線によってカットが支配され、アニャの視線がショットたりえちまう。とりわけジャック役トム・バークとのアイコンタクトは、いかな愚鈍な客でもその“言葉なき会話”の内容を聞きとれただろうよ。
車がバンバン転倒したり建物がガンガン爆発したり壮観な景色が映し出されることをスペクタクルと呼ぶのではない。

たかが目線一発。チラッ♪

たかが視線一本。ピュッ♪

されど、かほどの緊張/恍惚/恐怖/随喜を一瞬のうちに観客の魂に射し込む映像魔術をして「スペクタクル」と呼ぶのだ。
目だけ抜いたこのショット(↓)とか…、もう泣けちゃうぐらいフィルムノワール。
映画を観てきてよかったよ。この泣けちゃうぐらいのフィルムノワールに対して「
もう泣けちゃうぐらいフィルムノワール」と思えること自体、思えたこと自体、この“自体”それ自体が嬉しかったな。
感謝申し上げる。

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