シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

スラムドッグス

犬映画の定型に噛みついたドッグンロールな“ワン”ダフル痛快作!


2023年。 ジョシュ・グリーンバウム監督。犬の皆さん(ボーダー・テリア、ボストン・テリア、オーストラリアン・シェパード、グレート・デーン。本名不明)。

犬が飼い主の股間を噛みちぎるべく復讐の旅に出る。


おけおけ、やろか~。集まり~~。
27年来の知友2名と街をぶらついていた日。20年ぶりぐらいにゲームセンターに行き、生まれて初めてクレーンゲームで遊んだ。
果たして、大小さまざまの景品たちはクレーンに掴まれて客に取られることを望んでいるのか!? はたまたアクリルの箱の中に安寧を見出し、それを脅かさんとしてクレーンをぐりぐり動かす客に対して「やめて」と思っているのか!?
まあ、景品の気持ちはどうでもいいんだけど、おれがピュッと目をつけたのは『ゆるキャン△』の主人公、各務原なでしこのフィギュア!
欲しいけど、まあまあデケェ。高さ25センチぐらいある景品箱。まあまあデケェってことは、絶対むずいやん。
しかも1プレイ200円。高っ。
だけど3プレイ500円。得っ。でも高っ。
おれが狙った『ゆるキャン△』フィギュアは、景品箱の上部に穴の開いたタグが付けられており、そのタグの穴にアームの爪をぶっ刺すことでアームが持ち上がった拍子に景品が微かにずり動くため、根気づよく何度もずり動かして獲得口に落としてゲット…という寸法。
さっそく500円を投入して3回分の挑戦権を獲得したおれ。1回目は様子見っていうか、アームの感覚を掴むための、いわば『捨てキャン×』。おっおーん、なるほどね。こんな感じで動くんだ? はいはいはい。大体読めました。だとしたら次で決めますよ。
続く2回目はタグの穴を狙う『たぐキャン〇』。これが存外難しく、アームの爪は景品箱の側面をカリッと引っ掻いただけだった。ラストチャンスの3回目。どうにか爪をタグ穴にぶっ刺すことには成功したが、持ち上げた際にほぼ箱が動かない。
「あかんやないか」
そういえば、今どきのクレーンゲームは「確率機」といって、何度もチャレンジして試行回数を増やせば増やすほどアームの腕力が上がっていく(景品を取りやすくなる)というシステームだったことを思い出したおれ。知友2名と口を揃えて言いました。
「課金ゲーやないか」
まあ、うまい人だったらアームの腕力激ショボ状態でもテクニックで取れるんだろうけど、おれみたいなド素人にとっちゃあ腕力MAXになるまで課金という名の失敗をいたずらに繰り返してアームをドーピングするだけの作業やないか。
やってること、ベン・ジョンソンやん。
ステロイドぶち込んでソウルオリンピックでカール・ルイス抜いて1等賞取るみたいな。以降、お金を入れてプレイすることを「注射する」と呼んだ。
いよいよ腹が立ったおれは、「こうなったら何が何でもなでしこちゃんを取る」と知友2名に豪語。されど財布の中の100円玉が枯渇していたため両替機に向かったところ、アメリカ人のアニキが先に両替をおこなっており、順番待ちしていたおれに「ソーリー」と言ってくれたので「おっけおっけ」と返事。イケメンだった。どうやらアニキは星のカービィのぬいぐるみを狙っていた様子。がんばれよ、星のアニキ。おれもがんばる。
さて。両替から戻ってくると、なんと知友2名が私財をはたいてなでしこフィギュア攻略に勤しんでいた。おれは感動した。
「関係ねえのに!!?」
こ、こいつら…! 『ゆるキャン△』好きでも何でもないのに、わざわざ私財をなげうってなでしこフィギュア獲得に裨益してくれているゥ!
おれは問うた。
「な、なぜ自らの益にならないことを…?」
知友2名は答えました。
「あの娘が欲しいんだろ? 協力するぜ」
もうひとりが言いました。
「おれは別におまえの為にやってるんじゃない。掴みたい夢(景品)がそこにあるからやってるだけさ」
持つべきものは友だなぁと思いながら、おれは目頭を熱くして、こう言いました。
「なにをいってるかぜんぜんわからない」
その後も、500円を投入しては3回プレイ。100円玉が尽きれば両替機で星のアニキの後ろに並んで「ソーリー」と言われて「おっけおっけ」を繰り返すこと約15分…。
噂に聞いた通り、目に見えてアームの腕力が上がってきた。当初はタグ穴に爪をぶっ刺してもほとんど動かなかったのに、今や面白いようにぶりんぶりん動く。
そして遂にゲットしました!


箱の上部がタグ穴。

帰り際、両替機の近くを通りがかったところ、すでに星のアニキはおらず、彼が取ろうとしていた星のカービィのぬいぐるみは、あと少しで取れるような中途半端なところでクッタリしていた。
諦めて帰ってもうとるやないか。
おまえが星になるんかい。
粘れよ。何度もやってればアームの筋肉モリモリになって取れるようになんねん。一番あかんのは途中で諦めること。こんなもんは100か0かや。取れるまで挑み続けるか、しからずんば最初からやらないかの二択だけ!

☆PS☆
知友2名に多大な感謝を。
彼らの助けなしには景品獲得はなかったことでしょう。角度計算や重心評価などの戦略提案、精神的後方支援、物理的ジュース支給etc…。
彼らの助力あってこそ獲得しえた『ゆるキャン△』なでしこフィギュア。箱を開けるのは勿体ないので、この日の思い出を記憶に閉じ込めるという意味でも、あえて未開封のまま大事に保管させて頂こうと思います。
絶対開封しないぞ!!!

超かわいい~~~~!

そんなわけで本日は『スラムドッグス』です。



◆そこ退けワンワン! 4匹だけの大冒“犬”◆

 動物どもだけで旅をする映画といえば、古くは『奇跡の旅』(93年)『ベイブ』(95年) などがあり、さらに古くは  『三匹荒野を行く』(63年) などという忘れじの珍妙作が脳裏にフラッシュバックするが、やはり21世紀以降は「3DCGアニメーションでやっちゃった方が効率いいやね」ってことで、あまり見かけなくなったな~…なんておセンチな気分を吹き飛ばすには十分なタフネスをもった『スラムドッグス』。下ネタと決闘精神とブラックジョーク溢るる、ワンダフルでロックンロールな…否、ドッグンロールな動物映画でした。


ボーダー・テリアのレジーは、飼い主のウィル・フォーテから邪険に扱われても、それを“自分への愛”と勘違いしたまま、何度捨てられても家に戻った。ウィルはトラックでレジーを名もなき原野まで運び、林に向かってボールを投げる。
「あばよ、バカ犬!」
レジーがボールを取りに行ってる隙にトラックに乗り込み、置き去りにしようという寸法だ。だがレジーは驚異的な嗅覚を使って家に辿り着く。これを“遊び”と捉えているのだ。ウィルは悔しがって物に当たり散らしたが、その姿さえレジーの目には“ウィルが大喜びしている”ように映った。
ウィルは最悪のレッドネックだった。一日の中ですることと言えば、マスを掻くことと、水煙草を吸うことと、マスを掻くことだ。恋人と同棲していた。もともとはレジーも恋人が連れてきた飼い犬だったが、ある日、レジーは自慢の嗅覚でウィルの浮気相手の下着を探り当てた。いや、探り当ててしまった、と言うべきか。激怒した恋人は家を出てしまい、残されたウィルは「このクソ犬のせいで俺の人生がry!」と吠えた。爾来、ウィルはレジーを疎むようになるわけだが、人間の言語を解さないレジーは、その一挙手一投足の意味を「遊んでくれている」、「僕のことが好きなんだ」、「その愛に応えなきゃ!」と取り違えた。
 何度目かの“ボール遊び”の日。ついにウィルはこの世の辺境までレジーを連れていき、“最後のボール”を投げた。さすがに匂いの痕跡も辿れないほど遠く離れた都市で、レジーは完璧に迷子になってしまう。
そこで出会ったのがボストン・テリアのバグ。体こそ小さいものの、キチガイのフリをして大型犬を出し抜く孤高の野良犬だ。さらにその友人であるオーストラリアン・シェパードのマギーは、飼い犬(=勝ち組)でありながらも“妹のヨークシャー・テリア”に飼い主を奪われるという先住犬ならではの苦悩を抱えた女の子。そんな二人の友人であるグレート・デーンのハンターは警察犬学校を落第したストレスに対応するためにエリザベスカラーを装着させられた思慮深き賢人。
事情はさまざまだが、たったひとつの共通点。
彼らは人間を信頼していない(あるいは人間に絶望した)スラムドッグスであった!
そんな3人と出会ったレジーは、たいへんな刺激と感銘を受け、犬本来の生き方を見つめていく。
犬本来の生き方を見つめた結果、毒親ウィルに対して怒りを覚えたレジーは「なにがなんでも家に帰ってあの野郎のチ〇コを噛みちぎる」という答えを出す。

バグ「付き合うぜ、その旅!」

なんでやねん。

マギー「チ〇コ噛みちぎるの!? 私も協力してあげる!」

なんでやねん。

ハンター「それでこそのワン目躍如!」

なに言うてんねん。

いィィィィィィま始まる!
いィィィィィィぬ旅する!
ワ〇コがチンコを噛みちぎる…あっ間違えた伏字間違えた! ワンコがチ〇コを噛みちぎる、4匹だけの大冒険…ならぬ大冒“犬”!

左からマギー、レジー、バグ、ハンター。

◆ワンコに関する一大ワン考◆

 『スラムドッグス』は動物映画の中でも「犬映画」だけが狂犬的…あ間違えた、強権的に保持する“犬と飼い主のフレンドリーシップ”だの“犬の忠誠心を利用したお涙頂戴”だのといった甘えたメロドラマに、ガブリ! 噛みついた痛快作だ。
大筋からして、最低な飼い主を信用しきっているレジーという(いわば人間社会に馴致された)主人公を、バグたち“人間社会の外側から犬という動物=自分たちを自己相対化できる目覚めし者たち”が「いい加減、目を覚ませ!」とばかりに動物としての本来の生き方を教育していく(犬にとっての)実存主義的な命題を軽やかに描いた高度なブラックジョークなのだよね~。
 『スラムドッグス』は愛玩動物になることを拒否した犬たちの孤高の魂を見つめる。


ちなみにおれも犬好きだが、懐疑思考性の高い人間ゆえに昔からこう考えています。
ペットが飼い主に示す愛情は、ことによると愛情ではなく返報性の原理に基づいた行動パターンに過ぎず、バカな人間はその行為を「理解」や「絆」や「愛情」などという美的概念に落とし込んでは“人間と動物のフレンドリーシップ”を勝手に幻視しているだけではないか
、と。
その可能性は大いにある。
犬は言語を解さないからサインを送るが、そのサインを解釈してるのが当の人間である以上、たとえば犬を馴致する人間にとって都合のいい解釈だけが一般化し、それ以外は淘汰される。そして、おれも、おまえも、その一般解釈に照らし合わせて犬の気持ちを“知った気になっている”。酔っている。
おれたちは動物の声など聴いちゃいない。
ただ手元の辞書と照合してるだけだ。
「この動物がこういう行動を取ったときはこういう気持ちのあらわれです!」
でもよ、もしその辞書が間違ってたら?

可能性は十分あるぞ~。先にも述べたように、その辞書を作ったのは犬本人ではなく“犬の気持ちになった気になっただけの人間”なんだから。
カン違い。これが一番怖えのよ。
大前提から、根本的に、おれたちは何かとんでもない思い違いをしてないか?


まあ、人間のエゴだな。
人間のエゴといやぁ、おれがいつも思うのは、犬や猫に対する現代人の語彙が、ほぼ「かわいい」に集約されてしまうことへのネッチョリとした違和よ。
特にここ10年…15年! 「かわいい」という価値は人間感情において飽和化を極めていまーす!!!
ちなみにおれは、何を見ても開口一番「かわいい~」と発する人間はオツムが足りないと思っている。それ以外の感情やボキャブラリーをもたず、脊髄反射で「かわいい~」と口にしてしまうのか、あるいは何に対しても「かわいい~」と言える自分の感性を他にアピールすることで「『かわいい~』と言ってるこの娘がかわいい」と思ってもらおうとする猫娘の謀略か!
いずれにせよ「かわいい」などという貧しい語に一元化された価値判断でしか感情表現も意思表示もできないヤツは窒素と酸素のムダだから黙っとけ、と思う。
過激なこと思ってすみませんでした。

マジックマッシュルームを食べて幻覚を見るバグ。

ほんで、あなたが「かわいい、かわいい!」と愛でてる犬猫ちゃん。あなたがその子を愛でる理由は「かわいいから」だけですか? とも思うわけ。
もし、事故や病気で可愛くなくなったら?
それでも変わらず愛せますか?
おれも昔、実家でミニチュアダックス、黒ラブ、謎のチワワを飼ってたけど、結局のところおれが好きだったのは“犬の特性”であって“その子たちの本質”ではなかったのかもしれない。
たとえば、一番長い期間ともに暮らしていた黒ラブのソラ(♀)。本当に好きだったで。でも、見た目が寸分違わぬ黒ラブを10匹用意されて“性格や雰囲気だけでソラちゃんを当てろゲーム”とかされても、正解する自信ないからね。
いわんや、もしこれで外したら、もう“交換可能”ってことになっちゃわね~? べつにソラがソラである理由がない。だってある日突然、別の子にすり替わってても気付かないんだから、こいつ(俺)は。
それでも人は愛だ! 絆だ! 友情だ!って。
なんか…アホすぎて悲しいよな。
人間ってやっぱりアホなのよ、たぶん。何かとんでもねえことを根本的に取り違えてるのかも。正しいと信じきったまま。

そんな人間のアホな勘違いを、メタ視点ならぬ犬視点から描いたのが本作。
長年、心のどこかではっきりと感じながらも言葉にできずにいた(というよりその機会を持ちえずにいた)ワンコに関する一大論考、通称ワン考を促す作品でした。
“人間サマ”の生活様式の延長線上に「ペット」としてのみ規定されてしまう犬という動物。あるいは、人間に従属することが最も賢明な生き方だということがDNAに刻まれ、その習性に骨抜きにされながらも、なお犬と人間の関係性をフレンドシップの一言で済ませてよいのか! よいかも!でも本当によい!?という問題。
人間が犬を「飼ってる」と思っているように、犬もまた(利害の一致から)人間に「飼わせてやってる」と思ってる…という恐ろしき可能性は!!?



◆ミクロ化されたマクロ。そしてパロディのその奥

 典型的なロードムービーに“犬あるある”を混ぜ込みながら進行する物語がとにかく気持ちよく。
4匹が線路のうえを歩くシーンが『スタンド・バイ・ミー』(86年) のパロディになっていたが、まさに犬版『スタンド・バイ・ミー』といった面持ち!
セリフの大半は過激な下ネタだが、その下ネタの大半もまた“相対化された下ネタ=非下ネタ”。つまり人間の倫理からすれば下ネタだが、犬にとってはごく当たり前の振舞いという、そこもまた魅力的なギャップというか、異化効果になっているわけである。
あるいは、レジーたちが夜の遊園地に打ちあがる花火を“自分たちを抹殺するための絨毯爆撃”と勘違いしたり、ハンマーゲームのベルを警報機と誤解するなど、ただ遊園地で楽しんでるだけの人間たちを“自分たちを包囲/抹殺しようとするナチのごとき極悪種族”だという被害妄想に陥る活劇シーケンスにおけるミクロ化されたマクロのジョーク(知的遊戯)など、さながらプラレールが敷き詰められた子供部屋で命のやり取りをする『アントマン』(15年) のようで、大変おもしろいですよ。もちろんお笑い的な意味でもおもしろいけど、一番は構造論的な意味でおもしろい。たとえばチャップリンの『街の灯』(31年) とかね。
ミクロ化されたマクロの映画構造論に宿るおもしろさ。
これってピクサー作品のお家芸でもあって。“小さき者”が広大な世界=人間社会に放り出されたことで惹起するさまざまな勘違いやドタバタ劇…っていう構図は『トイ・ストーリー』(95年) にも『バグズ・ライフ』(98年) にも『ファインディング・ニモ』(03年) にも共通する説話類型で、まあ日本でいうなら『一寸法師』に当たるのかな。いずれにせよ動物映画における、ひとつの花形。
その花形を「犬」というモチーフでやったのが本作の珍しさ。だって犬映画といえば大体がくだらないお涙頂戴モノに堕するなか…もう断ち切ってるからね、人間とのパートナーシップを。犬=飼い慣らされる存在というイメージに対して「ノー」を突きつけた…否、「ワン!」と吠えた作品なんだよねええええええ。
犬による、犬のための、犬だけの連携がここにはある!
「ション友、フォーエバー!」

※ション友…バグたちとの結束を感じたレジーが提案した、4匹で互いにションベンを掛けあうことで“全員が全員にとっての所有物になる”ための謎の儀式。儀式終了後、「これで僕たちはション友です」とわけのわからない宣誓を果たした。


 また、パロディといえば『スタンド・バイ・ミー』だけでなく、ビートルズの『アビイ・ロード』(69年) の有名なアルバムジャケットを(アメリカ映画のくせに)真似てみたり、病気なり事故なり、ラストシーンで犬が死ぬことで観客の涙をむしり取ろうとする動物映画の定型として『マーリー 世界一おバカな犬が教えてくれたこと』(08年) を思いきり腐すなど、『マーリー』でワンワン泣いたおれを複雑なきもちにするほどには毒の利いた小ネタがあちこちに埋められている。
個人的に一番「はぅあう!」と反応したのは、森でバグがイヌワシにさらわれる場面。イヌワシに頭を噛まれたまま上空に連れ去られるバグ。一方そのころ、たまたま森でバードウォッチングをしていた男が“犬を咥えたまま飛んでるワシ”を双眼鏡越しにみとめる…。



デニス・クエイドやないか。

何しとんねん、おまえ。
おまえのワンダフル・ライフは終わったやろ。

そう。デニス・クエイドといえば近年、人々の記憶にも新しい『僕のワンダフル・ライフ』(17年) という、何度死んでも別の犬種に転生しては飼い主のもとへ戻ろうとする健気な忠犬・ベイリーの前前前世ならぬワンワンワン世を描いた号泣必至の大ヒット犬映画のラストシーンで「君の名は…?」と訊ねるかわりに生前ベイリーと遊んでいた「SMキャッチ」を仕掛けることでベイリーの転生システムを看破した男!!!
犬映画繋がりってだけでそのデニス・クエイドがカメオ出演しとるやないか~い、なんて思っていると…

なんと!

ニャンと!!

ワンと!!!



「SMキャッチ」までしっかりパロディにする始末。

これね…。未見の人にはなんのこっちゃのコン太郎だろうけど、『僕のワンダフル・ライフ』で見る者をワンワン泣かせたオンリーワンのワンダフル・ラストなんですよ。

「SMキャッチ」…『僕のワンダフル・ライフ』において、幼少期のデニス・クエイドと忠犬ベイリーがやっていたオリジナル・スポーツ。まず、デニスが天高くラグビーボールを放り投げたあと、すかさず「アッ、女王様!」と叫んで四つん這いになり、助走をつけて走ってきたベイリーが「このブタ野郎!」とばかりにデニスの背中を踏んでジャンプ。落ちてきたラグビーボールを空中で見事キャッチするという採点不能の競技。



この「SMキャッチ」と同じ要領で大ジャンプしたレジーが見事空中でバグをキャッチする(救い出す)というパロディの、その奥。
つまり、サプライズのように現れたデニス・クエイドは“同じ犬映画繋がりでなんとなく出てもらいました~のカメオ出演”ではなく、『僕のワンダフル・ライフ』の「SMキャッチ」へのフリとして周到に準備された“カタパルト”。
いみじくも「SMキャッチ」におけるデニスもまた、ベイリーを飛ばす(より遠くにジャンプさせる)ための土台=カタパルトとしての役目を担っていた…というダブルミーニングとしてのカメオ出演ッ、…くわあ!
意味わかる!?
このシーンの…! 「パロディの、その奥」といった言葉の二重構造、ちゃんと分かってもらえてる!!?
まあ、伝わらないなら伝わらないでいいよ。言葉を尽くせば伝えられるが、今のおれは言葉を尽くすよりも熱だけで書きたい気分なんだ。
あとはそっちで勝手に頑張れ。


冒頭でチラッと『ベイブ』の名を挙げたが、本作でも使われている、動物の口元だけをCGに置換する「Animal Talk」と呼ばれる視覚効果は『ベイブ』で初めて実用化されたCG技術らしく、また、先にも述べた“ミクロ化されたマクロの映画構造論”に関しても、総じて先祖返りを思わせる本作。
監督のジョシュ・グリーンバウムという結局監督なのか助手なのかわからないような名前の男は、辣腕…否、“ワン”を振るいました。
動物映画の原点に立ち返りながらも、動物映画の需要点に噛みつき、それでいながら動物映画の現時点に鎮座した、誰に尻尾を振ることもない堂々たる動物映画。
う~ん、ナンバーワン!

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