シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

映画 ゆるキャン△

ナチュラルボーン・デジタルネイティブの女たちが見出したキャンプ術。それは令和を生き抜くサバイバル術でもあったとかなかったとか。なんだっていうんだ!!! ~個人主義で決めにいけ~

2022年。京極義昭監督。アニメーション作品。

キャンプするーん。


はっははは!!!
久しぶりじゃないか、おまえたち。
死んじゃいないか? 誰も死んじゃいない?
まあ、1人2人死んじまった奴もいるかもしらんが、1人2人なら、まあ…いいや。
この3ヶ月、映画観て批評してブログ更新することに飽きたから休止していたわけだが、晴れてこのたび、“映画観て批評してブログ更新することに飽きた”ことに対して飽きた。
つまり活動休止を休止する。
人はそれを「再開」と呼ぶんだろうが、再開だなんてそんな…、そんな希望に満ちた兵士みたいな言葉は使いたくないっていうか、使うわけにはいかねえな。「活動休止を休止する」と言わせてくれ。そしたらまた、いつだって休止できる気がしてるんだよね。
まあ、とりあえず今は、あの忌々しいデュラン・デュランの「The Reflex」が多少マシに聴こえるほどには清々しい気分だ。なぜって?
それだけは秘密さ!

そんなわけで本日は『映画 ゆるキャン△』だ。
復帰一発目にアニメを持ってきたことで「うわ、アニメかよ~」と敬遠した読者も多かろうが、これはすぐれて知的な配置学による戦略的順序設計である。
当ブログには映画好きが群がっており、逆にアニメ作品はあまり歓迎されない向きがあるが、されど3ヶ月ぶりの更新、きっとヘヴィ読む者たちは新着記事が読みたくてウズウズしてるだろうからアニメだろうが何だろうが有難がって読んでくれるだろう、という打算である。
読者の欲求を逆手にとった「目論み」。
ただしこの目論みの問題点は、“それ”を言ってしまうことで「元の木阿弥」になってしまうという点である。
なまじ「3ヶ月ぶりの更新なんだし、アニメだろうが何だろうが有難がって読んでくれるだろう」だなんて腹の内を明かしてしまったことで、ひねっくれの跳ねっ返りたる天邪鬼の諸君は「ゼッタイ読んでなんかやらねーッ!」とヘンコをこじらせ反逆の徒と化しがち。

うるせえ読め!!!

目論みがあってもなくても読んでくれたっていいじゃん!!
目論みの有無が記事を読むか否かの有無に関わるなんて、そんな市役所みたいな方便を立てなくたっていいじゃん!!
ま、書いてるオレも読んでるオメーも訳わかんねーだろうが、どっこい上等ノ介だ、バカ野郎が。訳なんて分かってるうちが花だからな。
つまりおれたちはツボミ!!
謙虚に生きていこな。

おれたちツボミ。



◆第1次キャンプベイビー、かく語りき ~第2次キャンプブームを批判する男~◆

 オーケー、昔話から入ろう。
私のパパンは隙あらばハーレーダビッドソンに乗って日本中をツーリングしたり、怪物みたいなジープを転がしては津々浦々でキャンプをしていた第1次キャンプブーマーだったので、当然、せがれの私もまた、幼少期は毎週末のように父に連れられ、テントというテントを潜り抜けてきた歴戦の第1次キャンプベイビーなのであった。
懐かしいな。旅先で知り合った年下のガキにマシュマロの焼き方を伝授してやったら猛烈に尊敬され「師匠、おれを弟子にしてくれ!」と頭を下げられて「なんやこの子」と思ったり。珍しい師弟関係やぞ。マシュマロの師匠とその弟子て。
また、父親が組織したバイクチームの人たちともよく集団キャンプをしてたな。ちょいワルおやじどころか『北斗の拳』のジャッカル一味みたいなおっさん連中に囲まれて、ついにオレは「傭兵殺しのダガーナイフ」を授けられたんだ。
傭兵殺しのダガーナイフ…威力8 命中95 必殺10


そんな第1次キャンプブームの生き証人たる私が、近年訪れた第2次キャンプブームに対して思うこと…。
キャンプグッズ増えすぎ。
利便性を追究しすぎてワケわからんことなってもうとる。キャンプとは文明から隔絶されし大自然の常闇に身を置き、時のよすがを辿りて己が答えを見出す原始体験だと思っているのだが、この考え方ってもう古いのか?
「工夫」という知恵を使って「不便」とうまく付き合うのが醍醐味ちゃいますのん。
なんですのん、インスタントスモークキットて。キャンプに来てまで何を燻製することがあるんよ。嬉しがりみたいに。最近のキャンプグッズは便利すぎて引くわ。「そこまで便利だとキャンプの意味なくない? 部屋でよくない?」ってくらい便利だものねぇ。
まあ、キャンプ場でゲームボーイばっかしてたオレが言えたことじゃないけどな。

さてさて。そんな第2次キャンプブーム(正確にはソロキャンと冬キャンブーム)の火付け役となったのがアニメ『ゆるキャン△』
野外活動サークル(野クル)に所属する女子高生たちがあっちゃこっちゃでキャンプを楽しむという幻想譚である(現実の女子高生は世界でいちばんキャンプをしない)


このアニメ、2018年にTVシリーズ第1期が始まると、未だにアニメ=オタクと思ってるような化石世代のキャンパーやバイカーがこぞってドド嵌りした。
のちに実写ドラマ化もされ、2021年にはTVシリーズ2期が放送開始(3期制作も既に決定している)。キャンプ人口の爆増に一役買い、物語の舞台となる中部地方の地域活性化や経済効果にも大きく裨益した。海外人気もヤケに高い。
何より驚いたのは、アウトドア趣味の中高年…というこの世で最もアニメと縁のない層をここまで取り込んだ訴求力である。いかな人気アニメでも、やはりファンの大部分は二次元に慣れ親しんできたアニメ好き…というのが世の常だが、『ゆるキャン△』はそうした磁場の圏外にいる人々まで巻き込み、奴らの日常に“アニメ文化”の球根を植えつけた!
では、なぜ『ゆるキャン△』はアニメ磁場圏外の人々を魅了しえたのか。その理由は評のなかに紛れ込ませたいとおもう。

~主な登場人物~

 

志摩リン
歴戦のキャンパー。原付免許取得者。
人と楽しむキャンプより、ひとり静かに自然と向き合うソロキャンを愛する女だったが、なでしこ達と出会ったことでグループキャンプも悪くないと思い始めたものの、それでもソロを貫く孤高のソロキャンパー。

 


各務原なでしこ
元気印の風の子ガール。いつもぽやぽやしており、幸せそうな顔をよくする。
見た目によらず体力サイボーグで、富士山を見るためだけに自転車で往復80㎞もの道を漕いでのけた。
グルキャン派ゆえにソロキャン主義のリンとは正反対のキャンプ思想を持つが、やがて無二の親友となり、幸せそうな顔をした。

 


大垣千明
野クルの部長だが、おちょけな性格。こいつがいない野クルは1週間ともつまい、とさえ言い切りうるほどの精神的支柱。でもおちょけ。
異常に短い前髪を是としている。

 


犬山あおい
おっとりした関西弁を操る八重歯美女。兄弟が多く、おっぱいも大きい。
虚言癖の持ち主で、なんの意味もない嘘をついては野クルメンバーの精神的安定を脅かす。
おっぱいが大きい。

 


斉藤恵那
野クルの活動に参加してはいるが野クルメンバーではない(帰宅部)…という伝説の潜り。正式に「麦わらの一味」に加入する前のニコ・ロビンのようなポジション。ほどほどに頑張り、気が向けばキャンプに参加する…という気まぐれ風のような付かず離れずガール。
「ちくわ」というチワワを育成している、大の犬好き。

◆「理解はするが、共感はしない」。人間関係なんてそれでいいだろうが ~リンという意思を祝福~◆

 そして本作『映画 ゆるキャン△』
この劇場版では、なでしこ達が女子高生だったTVシリーズからブンッと時が経ち、皆すっかり社会人になっている。
軽く驚いた。すごい思い切ったことしてる…。TVシリーズの年齢から10年くらい経ってるかな?
普通、この手の日常系アニメって「この世界観にずっと浸ってたーい」という視聴者のインモータルな甘ったれ願望を叶えるように、(1)物語内時間が止まっておりキャラクターを取り巻く環境が変化しない(2)それでなくとも1年ずつ緩やかに時が経つので事実上ほぼ変化しない…というパータンが多いが、急に10年もすっ飛んで社会人って…。
観客総浦島太郎状態よ。
「なになになになに10年後? 社会人? なになにいま西暦何年? なに~?」ゆうて。
要は日常系アニメじゃなかったという事実が告げられたわけ。この劇場版で。
や、もちろん出版社に就職したリンや、アウトドア用品店で働いてるなでしこ達の“日常”が描かれた本作ではあるけれど、TVシリーズを見たあとに劇場版を見ると、逆に非日常に映って仕方ないわけちゅん。
みんな…背ぇ伸びて、話し方も変わって、身振りも大人になってる~ゆうて。
そこが、珍しい、とおもった!
あ、言い忘れたけど、今回は『ゆるキャン△』にちなんで『ゆる評□』でお送りするからね。

物語は、社会人になった5人が仕事の合間を縫って自分たちでキャンプ場を作るという、もはや全然ゆるくないどころか、あまりにガチすぎるキャンプ場開発計画の顛末を描く。
『がちキャン◎』やないの。
それにしても、高校卒業後にバラバラになった5人が大人になって再会する、というのがええやんか。おばちゃん、そういうの大好きやで。
東京のアウトドア用品店でキャンプグッズを売るなでしこ、名古屋の出版社で働くリン、東京のイベント会社から山梨の観光推進機構に転職した千明、山梨の小学校教員となったあおい、横浜のペットサロンでトリマーとして働く恵那が、ひょんなことから再会してキャンプ場を建設することに。
なんと多幸感溢れるリユニオン(同窓会)だろう。
リユニオンものっていいよね~。ギャング映画だけど、セルジオ・レオーネの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(84年) とか、最近だと『IT/イット THE END “それ”が見えたら、終わり。』(19年) とか、台湾映画の『あの頃、君を追いかけた』(11年) とか、俺の中の死にかけのピュアがギュ~ってなるのよ。わかるけ?

大人になって再会した5人。

『ゆるキャン△』の素晴らしさとは、すなわちメロドラマの廃止である。
女の子同士のイチャイチャや、イチャイチャを通して目配せされる“萌え”の強要、あるいは劇的な演出によってドラマタイズされる物語上のクライマックス(感動の押し売り)…といった湿りけが全くなく、ある種ドライともいえる淡々たる演出によって「でも現実ってそうだよね。いちいちアニメ声で大袈裟な反応とかしないよね」と思わしむる、落ち着いた映像空間を醸成した、実は“大人向けのアニメ”であって(=安易なメロドラマで安易に感動しちゃう安易な観客にとっては結構退屈な作品かもよ)。
それはメインキャラクター5人の関係値にも符号する。

当シリーズはリンとなでしこのW主人公制
リンはソロキャン派で、なでしこはグルキャン派。結果的には、なでしこが「野クル」にリンを招待する形でグルキャンのよさを認め始めたリンだったが、かといって易々とグルキャンに転向するリンではない。グルキャンの魅力を知り、仲間とともに鍋や焚火を囲う楽しさを知ったうえで「でも私の生き方はこっち」と、あくまでソロキャンにアイデンティティを置くのである。
再び『ONE PIECE』に例えるなら、アラバスタ編のビビだよな。ルフィの仲間でありながらルフィと訣別するっていうね。泣けてまうわ。
アニメやマンガだけでなく、現実の人間関係でさえ「仲良しこよし」が美徳とされる現代において、あくまで個人主義を貫くリンという意思
リンという生き方。
これがサブキャラならまだしも、W主人公の片割れである。主人公格なのに、仲間と群れず、距離を置き、決して媚びず、単独行動に喜びを感じるゥッ!
これぞ『ゆるキャン△』におけるW主人公制のトリック。付かず離れずの関係性。
そしてTVシリーズでは、リンが初めてグルキャンの魅力を知ったように、なでしこもソロキャンに興味を抱き「一人だからこそ味わえるキャンプの形」を知ったことで、二人はこれまで以上に相互理解を深める…というエピソードがあって。


付かず離れず、慣れ合わずの二人。

ここに『ゆるキャン△』がヒットした所以たる現代的価値観との合流を見たんだよなあ、オレって!
決して自分の「好き」を押し付けず、相手の「好き」を理解することで共存しうる人間関係の新たなる美徳。

「理解はするが、共感はしない」

これでいいんだよ。
オレの口癖だ。人間関係なんてこんなもんでいいだろ。オレは昔から思ってた。なぜ人は分かり合おうとするのだろうって。オレは先見の明をもってた。ミスチルも先見の明をもってた。ミスチルは「掌」という曲で「ひとつにならなくていいよ 認め合うことができればさ」と歌ってる。大好きな曲や。たぶんミスチルはテレパシー装置みたいなマシンでオレの思想を見抜いて、それをパクって「掌」の歌詞にしたんだと思う(それなのにオレには印税入ってこない)。
だいたい、人と人はそんなに仲良くしなくてよろしい。必要以上のメロドラマ(連帯意識)は共依存やカルトを生むだけだ。

だが開闢以来2020年、「共感」は凄まじい価値を持ってしまった。
「たしかに~」「わかります~」「ですよね~」「それな~」といった空虚な相槌を駆使し、相手の意見に“共感という名の同化”をすることで人間関係の摩擦を減らし、同一の価値観を共有することでしか仲間であることを確認し合えない、アメンボにも劣るヘナチョコ現代ピーポーが増えすぎた。
“意思”を持つ力を失ったんだろうな。
そんな共感脳筋どもに対して、意見交換のつもりで「私はそう思わないけど」なんて反対意見をぶつけると途端に異端者扱い。ただ反論されただけの事を、あたかも「人格否定された!」と拡大解釈しては勝手に傷つく、ちょっと触っただけですぐ死んじゃうNPCのごとき自意識薄弱野郎どもが蔓延り、そういう奴らほど「誰も傷つけない笑い」を称揚したり「〇〇を上げるために△△を下げる発言はよくない」とか言い出すのだ。「好きな人もいるのに、否定するようなことは言わないで下さい。嫌なら見なきゃいいじゃないですか」とかな。

くっだらね。

傷つくことに敏感すぎるだろ。オマエの体は硝子細工で出来てんのか? それとも幼少期にジャングルジムで遊ばなかったのか? 甘えるな。『ゆるキャン△』見て、牛乳でも飲んで、骨を鍛えろ。
「理解はするが、共感はしない」
それぐらい言ってみせろよ。

ソロキャンに初挑戦するなでしこ。

◆元気が一番なんよ◆

 まだまだ『ゆるキャン△』の素晴らしさについて語っていこかな。そうしよ。
この映画が広くウケた理由のひとつに、いわゆる美少女アニメ(萌えアニメ)的な構造の回避…というのが挙げられるわな。
非常に可愛らしい絵柄ではあるが、萌えやらフェティッシュといった記号はなく、早い話が視聴者に媚びてない。
ゆえに中高年のファン層にとっては、娘世代の女の子たちが一生懸命キャンプするさまを温かく見守る親目線が担保されている。すべて計算ずくだとしたら相当賢いわ。
とはいえTVシリーズでは(推しを作らせてアニメグッズを売るためにも)個々の魅力をクローズアップするべく多彩なキャラクター描写も欠かせなかったわけだが、劇場版たる本作はあくまで“映画”というルックに比重を置いているので、キャラよりもむしろ風景に力が入ってて。
0.5秒しか映らないカットなのにここまで描き込む? ってくらい、全シーン、全カットの背景が全身全霊で描き込まれており、現代アニメの病理のひとつである「アップ主体シンドローム」も精一杯に跳ねっ返して、極力ロング。
極力ロング!
極力ロング!!
こくろkyコンb…
こくろくコンブ!!!

主役はあくまで“ロケーション”であり、なでしこ達は偶然そこに居合わせたエキストラ程度の扱いとして、もっぱら『ゆるキャン△』が誇る背景美術が前景化したアニメーションに仕上がっている。
作画以上に、単純に“絵”がいい。

贅沢な大自然を享受していたのはなでしこ達だけではなかったというわけか…!(なんてカラクリが俺たちを待ち構えているというんだ)

そんな山野の美景に囲まれながらも安易な自然讃美やアンチアーバニズム(反都市生活)に滑り落ちることなく、Z世代のなでしこ達もナチュラルボーン・デジタルネイティブらしくSNSを駆使して互いの位置情報や記念写真を交換しあう。
身も蓋もない言い方をするなら、べつにスマホがあるんだから皆でキャンプなんかしなくたって、ちゃんと“繋がってる”わけ。
ゆえにこのアニメ、毎回キャンプをするたびに必ずしもメインキャラ5人が全員参加するわけではないのだ。
べつにキャンプに人生かけてる連中じゃないんから、それぞれに予定があればそっちを優先するし、気分が乗らなければ「うーん…今回はやめとく!」と参加を見合わせる。だからTVシリーズ2期では、千明、あおい、恵那という、W主人公不在のサブキャラ3人娘だけで山中湖をキャンプするというエピソードが前後編に分けて放送された。全13話しかないのに主人公不在のエピソードに2話も割くなんて相当な度胸と自信がないとできない芸当だが、そういうことを飄然とやってのけるのが『ゆるキャン△』

キャンプに参加する動機がそもそもユルいという。

だからこそ「参加しなくてもスマホがあれば繋がれる」をある種の免罪符に、キャンプ(テーマ)に対する情熱や真剣さだけがキャンプに対する向き合い方ではない…とする旧価値からの脱却、つまり“令和の生き方”が視聴者の胸に刺さったのだろう。
ちょうど映画界隈でも同じ現象が起きてるよ。Twitterを開けば「知識とか本数よりも、ただ純粋に映画を楽しめばいいじゃん」といったツイートに500以上のイイネが集まったりして。「楽しければいいじゃん」を免罪符に、映画に対する情熱や真剣さだけが映画に対する向き合い方ではない…とする人たちの令和的生態ね。
もう、そういう時代なのか。
もう、そういう時代なのよ。

千明、恵那、あおいの3人だけでキャンプきめた(TVシリーズより)。

演出面で心打たれたシーンも沢山ある。
なんといっても、恵那が飼ってる「ちくわ」の散歩シーン!
ちくわといえば当シリーズのマスコットキャラ。TVシリーズでは元気印のチワワであったが、本作ではTVシリーズから10年前後経っているので、すでに老犬。
そんな二人が土手を散歩するシーンで、若い小型犬に後ろから追い抜かれたちくわが恵那の方を振り向いて「クゥ~ン…」と鳴くと、その気持ちを察した恵那は「ゆっくり歩こうね~」と微笑みかける。
そのあと恵那は土手の斜面で休憩をとり「気持ちいいね~」なんて言いながら、歩き疲れたちくわを愛おしそうに見つめるのだが、このシーンは天命を全うするまで老犬を飼っていた全人類に捧げられし後奏曲だああああ!

己のペースで散歩を楽しむちくわ。

約10年経って主人公たちが社会人になった…という時間の経過を、わざとらしい再会シーンやキャプション(字幕)に頼らず“若い犬に追い抜かれる散歩中の老犬”というさりげない描写だけで実感させる技量のみならず、“やがて迎えるであろう、ちくわの死“という予感のなかにさえ月日の残酷さを実感せしめた演出暴力。
前章では「10年も経ったなんて信じられない。非日常だ。浦島太郎状態だ!」みたいなことを喚き散らしたオレであったが、ちくわの散歩シーンを見るにつけ、やはり抗しがたく10余年の月日を受け入れてしまう。TVシリーズではあんなに元気だったちくわも、10年経てば老犬。あと5年もすれば死んじゃうかも。
10年の月日。なでしこ達にとっては女子高生から社会人だが、その感覚を犬の一生に置き換えれば、やおらグッと重さを増すよね。
そこへさして恵那。若犬に追い抜かれたことで老いの現実を突きつけられたちくわを宥めるように「ゆっくり歩こうね~」と微笑みかける身振りに心えぐられて。じつは老いの現実を突きつけられたのはちくわ以上に飼い主たる恵那自身なのに…。

老犬や老猫を飼ってらっしゃる読
者いるうううう!? 

わかるらろ? だろ!? 例えば、たかが3年後。人間にとってはたかが3年後でも、3年経てば愛するペットはもういねーかもしんね~~~~!!!
それでも恵那は、ちくわファースト。
ちくわの悲しみに“共感”するのではなく「ゆっくり歩こうね~」とか「気持ちいいね~」なんて言葉をかけて、ちくわが精いっぱい生きてる“今”を称揚するのだ。
だからこそラストシーンでは、ちくわが溌剌に活動するさまを見たときだけに発される恵那の口癖「げんき、げんき♪」という独り言に涙するんよおおおおおおおお!
これでもかとばかりにドッグランを楽しむちくわ。その様子を遠目から愛おしそうに眺める恵那。
「げんき、げんき♪」
元気が一番なんよ。

どうやら本作の公開前、ファンの間では「大人になるなよォー! いつまでも女子高生のまま『ゆるキャン』してくれよ!」とか「社会の荒波に揉まれるリンたちなんて見たくない…」といった批判も多かったらしいが、いざ公開してみれば、全員が陪審員のように黙りこくった。
奴らを黙らせたのは、“ただ時が過ぎて大人になったリンたち”を描かなかったからだ。
いわば「時」を描かずして「老い」を描くことで逆説的に「時」が描かれたのである。
聡明。

恵那とちくわフォーエヴァー。

ほかにも心打たれたシーンは正確に5ヶ所あるが、疲れてきたし、紙幅もないから、もう書かない。
5人の空気感はそのままに、小ネタやギャグシーンを意図的に削ることで“成長した5人の姿”をも逆説的に描きあげた本作は、120分という劇場版アニメにしては長尺のサイズにも耐えうる強度と、TVシリーズから増した純度を誇る、ただただ完成度の高いアニメ作品だった。
名古屋の居酒屋でビールと手羽先のコンビネーションに酔い痴れる千明の初登場シーンで用いられた“視感ショットによる長回し”は映画好きほど必見(伝票に注文を書き加える店員さんの細やかな作画には思わずハッとした)。

そんな『映画 ゆるキャン△』は絶賛Amazonプライムで垂れ流され中(TVシリーズも垂れ流されてるので興味モッターノたちは見たらいいと思います)。


(C)あfろ・芳文社/野外活動委員会