日本家屋がスクリーンにもたらす図形的変態性 ~マカロニか東映任侠か? 決めるのはキミ編~
1971年。小沢茂弘監督。藤純子、鶴田浩二、遠藤辰雄。
シリーズでお馴染みの藤純子が、一匹渡世の女博徒として颯爽登場する新シリーズ第1弾。
時は大正、舞台は信州。生き別れの母を探し求めながら、渡世修業の旅を続ける天涯孤独の主人公・妻恋いお駒が、ひなびた温泉街の乗っ取りを企む博徒に対し、流れ者・筑波常治と白刃を揃えて闘う物語。主演・藤純子が、拳銃、長ドスを器用にこなす男まさりの一匹渡世・妻恋いお駒に扮して、「緋牡丹博徒」シリーズのお竜とは違った魅力を披露。また、鶴田浩二が流れ者・筑波常治に扮するほか、芦屋雁之助、北村英三、遠藤辰雄、汐路章、木暮実千代、水森亜土、正司敏江・玲児、白木みのるら、賑やかなキャスト陣が顔を揃えて、股旅ムードもたっぷりに放つ本格任侠映画。
ちすちす。あふ! おふおふ。
更新が滞ってごめんなさいね。最近は家でずっと「ばばあと私のタラコでPON!」という曲を作ってました。
この曲は、ポンッと手軽に作れるタラコ料理を、ばばあと私が共同開発するという、世にも楽しいキッチンソングです。Dメロでばばあが卵を焦がして自信を喪失するんですけど、大サビでは華々しく復活するという再生の物語です。
ちなみに、その前は「連れ去られた亜斗夢 ~情報求ム~」というサスペンスソングを作ってました。誘拐された亜斗夢くんを助け出そうとする警察目線の歌詞です。
ちなみに誘拐犯の正体は「ばばあと私のタラコでPON!」に出てくるばばあです。2番の歌詞で明かされます。
この曲は自信作で、サビの「連れ去られた亜斗夢~♪」のあとに「情報求ム」というコーラスで韻を踏んでいて、しかも2番のサビでは「これは悪夢」に変わるんです。
この2曲は、謎のレコード会社「ポニー」から来春発売予定。初回限定特典として、ばばあが焦がした卵のステッカーが付いてきます。さらにはポニーレコードの広報担当・馬場義雄さんとの握手券も入っているかも? 買うっきゃないと!
そんなわけで本日は『女渡世人』だわな~?
まあ、読んだったりーや。
◆東映マカロニ任侠ウエスタンという名の講和条約◆
いやはや、『女渡世人』は格別の映画であったよなー。
『緋牡丹博徒』と『日本女侠伝』シリーズで東映の看板女優となった藤純子の新シリーズとして1971年に製作された作品だが、翌72年、七代目尾上菊五郎との結婚に伴う女優業引退によりシリーズは2作品で即終了(ちなみに同年、長女の寺島しのぶが爆誕してもいる)。
※のちに芸名を「富司純子」に改め女優業復帰。アニメーション作品『サマーウォーズ』(09年) での栄おばあちゃん役などで多方面に活動。
誰しもが気になる『女渡世人』の中身は、大正末期の信州にて、生き別れた母を捜しながら渡世修行を続ける女博徒が、ひなびた温泉街の乗っ取りを企む悪辣博徒に対して流れ者の博徒と白刃を揃えて闘う…といった熱き中身!
従者の芦屋雁之助と旅を続ける藤純子は「妻恋いお駒」の名で通っていた。そんな二人が旅の道すがら知り合ったのが子連れ博徒の鶴田浩二。一宿一飯の義理のためにヤクザ抗争に参加することになった鶴田は、自分のかわりに温泉旅館を営む祖父母のもとに娘を届けてほしいとお駒に頼んだ。だがその旅館は二年後の鉄道開通に目をつけた悪しき組長・遠藤辰雄によって乗っ取られようとしていたんである!
お駒に扮する藤純子は長ドスと拳銃の名手。『緋牡丹博徒』で演じた「お竜」よりも戦闘的な役柄だが、そこから溢れ出る気品は変わらない。
まず映画が始まると、カメラに背を向けたお駒が何やらコショコショやってます。
ピストルに弾込めてた。
むちゃむちゃ物騒。
映像の質も相俟って、どことなくマカロニ・ウェスタンを思わせるムードだ。任侠映画なのにファーストシーンからいきなりピストル…という意外性もあるよね。いきなりリロードしてる…。
さて。6発の弾丸を込め終えたお駒は、地平線へと伸びた岩山道の果てをキッと睥睨する。
お駒「キッ」
カットが入ったのち、山腹からアオリ気味にお駒を捉えたロングショットのタイトルバック。と同時に、お駒役の藤純子本人が歌う「女渡世人」のインストゥルメントゥルが鳴り響く!
ドコドン! ちゃっちゃちゃー。
ドンドド…デケデン! ぴょっぴょぴょー。
マカロニやん。
撮り方といい音楽といい、映像の肌理や雰囲気も含めて、すべての方法論がマカロニに基づいてるやん。
すると、お駒が睨んだ先の彼方から馬車がやってきた。どうやら馬車の人物を仕留めるつもりらしい。そのさまは俯瞰ショットを背景とした出演者のクレジット越しに描き出されるが、そのロケーションも、やっぱりどことなく…
マカロニやん。
や。別に「これぞマカロニ!」というようなザ・マカロニ感はないけど……どことなーく、なんとなーくマカロニやん。
いわばペンネやん。異論はあろうが、ペンネはもうマカロニやん。
次にカメラは馬車からの視感ショットに切り替わる。
マカロニやん!
これに関しては待ったなしでマカロニやん。
茹でてあるやん。
もっとも、マカロニ・ウェスタンに明るくない読者からすれば、さっきから私が被せ続けてる「マカロニやん」という低級ギャグ自体がまるっきりの意味不明であろうが、ギャグとかそういう文脈を度外視しても…これはもう完全にマカロニやん。マカロニも認めざるを得ないほどのマカロニやん。
だって、どうでしょう。純粋にこのショットだけを見たら「イタリアの西部劇なのかな?」と思うでしょう。まさか日本映画の、ましてや任侠映画だなんて、あんまり思わないよね。
じゃあマカロニやん。
それをマカロニだってさっきから言ってんだよ。しばくぞっ。
直後。行く手を遮ったことで馬車から降りてきたやくざ者に、グッと腰を下ろしたお駒…。仁義を切る!
「田沼の親分さんですね。無作法はお許しください。
てまえ、早見駒子…。通称『妻恋いお駒』と発します。当時、一匹渡世です。
親分さんには怨みも辛みもございませんが、渡世の義理でお命頂きに参りました。
サシの勝負をお願い致します」
東映任侠やん。
今までずっと「マカロニやん」で通してきたのに、ここへきて「東映任侠やん」としか言いようがないほど東映任侠映画の世界観が急に充満し始めてるやん。なにこの映像空間? なんでマカロニと東映任侠が競(せ)っとんねん。
すると田沼親分、「うるせえ。やっちまえ!」と叫んで舎弟どもをけしかけたが、刹那、お駒は懐に隠していたピストルを向かいくる敵の足元にパキューン、パキューン!
舎弟「うわっ、うわっ」
お駒「私がお願いしてるのはサシの勝負です。…雁之助さん。手出しをする奴がいたらブッ放すんですよ!」
そう言って、お供の雁之助にピストルを渡した。
じゃあマカロニやん。
一時は「東映任侠やん」によって地位を脅かされた「マカロニやん」が、ここへきて復権の兆しを見せ始めてるやん。やっぱマカロニやん、この映画。
やくざに囲まれたお駒は「えい」とか「とお」とかいいながら縦横無尽に長ドスを振り回し、『めくらのお市 地獄肌』(69年) ばりにやくざを斬りまくった。つよすぎた。
雁之助と背中合わせにドスを構えるお駒をキメキメのダッチアングルが捉えた(かっこよすぎた)。
刹那、裂帛の一刀のもとに田沼親分の片腕がゴロリと地に転がった。ブーブー噴き出した血の沼でゆっくりと死んでいく田沼親分を、息を整えながらも冷たく見下すお駒。なんと艶やかなこと!
ほな東映任侠やん。
結局「マカロニやん」と「東映任侠やん」のせめぎ合いは「東映マカロニ任侠ウエスタン」としての講和条約を締結せしめた。
ウエスタンやくざが跋扈する大正末期の信州にて、股旅ムードもたっぷりに放つ藤純子の本格東映マカロニ任侠ウエスタンの金字塔『女渡世人』!
シリーズは次作で打ち切り!!!
◆はぐれツルタが なかまになりたそうに こちらをみている◆
その後、田沼親分の残党から鶴田浩二に命を救われたお駒は、義理返しにと鶴田の娘ちゃん…通称・鶴子ちゃんを祖父母の家に届けると約束するが、彼女がこの任を引き受けた理由はもう一つあった。幼くしてママンを失った鶴子ちゃんが我が身と重なったためである。
お駒もまた母の愛を知らずに育った孤独の女。幼き日に自分を捨てたママンは苦界に身を落とし、そのあと行方不明になっている。爾来、ママン捜しをしながら渡世修行の旅を続けている…ちゅうわけだ。
そんなお駒のヒストリーが短い回想の中で描かれるのだが、かかる回想シーケンスを摩訶不思議な楕円形のSFXが縁取る!
回想シーン。
魔界のプリクラやん。
なんて魔界的なフレームだというんだよ。去年取り上げた木下惠介の『野菊の如き君なりき』(55年) と同じ手口じゃない。
魔界の如きフチなりき、すな。
それにしても鶴田浩二は相変わらず色っぽいね。
『緋牡丹博徒 一宿一飯』(68年) を含むいくつかの作品で藤純子と共演しているが、どちらかと言えば「藤純子には高倉健」というイメージが付き物。だけど個人的には藤×鶴田こそがベストマッチなのだ。グーなのだ。
藤と鶴田…。双方ともに清白。
また被写体としても優雅なことこの上ない。物言わずに“目で語る芝居”をする高倉健とは真逆の“語るまいとする芝居”が情緒を生む。それを可能ならしめるのは抜群のキャッチライトに映える真珠のごとき瞳だろう。
ちなみに、わたくしの好きな市川雷蔵なんかは芝居こそおもしろいが瞳が弱い。だから顔を使うときは頬や口元の芝居しかできないわけだし。勝新太郎に至っては顔を使うこと自体をスッパリと諦め、いっそ『座頭市物語』(62年) なんかでは白目を剥いちゃってますでしょう。
いずれにせよ、人は鶴田浩二と藤純子が視線を交える構図=逆構図をもっと持て囃すべきなのだ。こんな贅沢な切返しショットはないぞ。
鶴田浩二と藤純子。
さて。お駒たちが温泉旅館に到着したことで物語は大きく動き出すが、その隅できらめく光の端役たちを忘れてはなりません!
まず、旅館の客を演じているのがどつき漫才のパイオニア、正司敏江・玲児。
『めくらのお市 命頂きます』(70年) でもプチ漫才を繰り広げていたが、本作でも玲児が敏江の頭をしばきまくっていた。東映マカロニ任侠ウエスタンの狭間に上方漫才。こうした身振りは当然作品の世界観を寸断することになるが、不思議とこれが邪魔じゃない。かえって蒸し暑き任侠劇の清涼剤として機能せし調子(ニュアンス)と相成るんである。だからこの手の映画には“お調子者”が欠かせないのよね。
次なるお調子者は、雁之助の恋人を演じた水森亜土。
相当におつむの弱いキャラクターで、喋ってる雁之助の口にからしを塗りたくったりするようなデンジャラスの娘だ。
それにしても耳馴染みのある声だなーとオレ思った。このキィキィと甲高い、水森亜土の萌え声。そうだ。そうなのだ! これは『ひみつのアッコちゃん』や『パンダコパンダ』(72年) のエンディングテーマの声なのだ!
あと、何といっても『Dr.スランプ アラレちゃん』の主題歌なのだ!!!
きーたぞ~、きたぞ、アラレちゃん ♪
キィーン、キンキン、キンキンキーン。テケテケ、テッテンテン……とはよくぞ歌ったものです。その水森亜土が、雁之助の口にからしを塗りたくるわけさ。
もうお前がアラレちゃんだろ。
そして旅館街の乗っ取りを企む悪辣組長・遠藤のスケを演じているのが木暮実千代。
『お茶漬の味』(52年) 、『祇園囃子』(53年) 、『銭形平次捕物控 まだら蛇』(57年) などを代表作に隠し持ち、昭和キネマ特集においてもちょこちょこ登場していることでお馴染みの美人一番搾り。本作ではプクッと中年太りなさっているが、まだまだ実千代と分かる艶やかさ。
実は彼女こそがお駒のママンだったのだ!
ところが実千代は「あなたが私のママンなのですね!?」と涙したお駒に「アンタなんか知りませんョ」とシラを切る。いっさいは遠藤からお駒を守るためのウソだった。
お駒は旅館街を守るために遠藤と敵対しており、実千代はその遠藤の情婦…。ついに遠藤は権利書を奪うために鶴子ちゃんを人質にとって旅館を営む祖父母をゆすり始めたので、これに激怒したお駒は今にも遠藤組にカチコミをかける勢い。だが巨大組織を束ねる遠藤に楯突いても死ぬるだけなので、愛する娘…お駒を前に、実千代は泣く泣く素性を隠し、遠藤とはケンカせずに街から出ていくよう強気に諭すのだ。
「母はペンより剣より強し」ってことかぁ…。
しかも、物置に監禁された鶴子ちゃんを救い出したことが遠藤にバレて、しこたまシバかれた挙句、ついにはお駒を庇って死んでしまうんである。
泣いちゃう。
実千代は、じつにアッパレなママンと言えすぎた。実の娘だけでなく、よその子の為にまで体を張るとは。「母はペンとか剣より強し」を地でいくことに成功してるやん…。
木暮ママン(右)。
ゆえに複雑胸中の鶴田。鶴子ちゃんのために落命した実千代への恩義から、その娘たるお駒の復讐に手を貸すと言い出した。
鶴田「すまねえ、お駒さん。鶴子のために、せっかく会ったおっかさんを死なせてしまって…。この落とし前だけは任しておくんなさい」
お駒「お言葉、涙が出るほど嬉しゅう存じます。でも…。これだけは、どうしても…」
鶴田「お駒さん。お供させてもらいます」
お駒(はぅあう…!)
これぞ鶴の恩返し。
日本人ならではの義理と遠慮の押し相撲。
わかるか。ドラクエ風に言うと、いわばお駒は「はぐれツルタが なかまになりたそうに こちらをみている。なかまにしてあげますか?」に対して「いいえ」を押そうとしたが、はぐれツルタには命をなげうってでもお駒を守る義理があるため、自分自身の問題に他人様を巻き込めないと思いながらも、お駒は「はい」を選択するのである。選択するしかないのである。本当は「いいえ」を押したいけど。
…と、このようなメロドラマを台詞でべらべら語り合わないのが本作の聡明さ。
「これだけは、どうしても…」と遠慮気味にまごつくお駒を「お供させてもらいます」で撃ち抜いた鶴田の気持ちよさ!
これぞ鶴の一声。
私なんかは、自分語として「言葉を飛ぶ」なんて言い方をしているが、こんなふうに無用な応答はせず結論まで一息にジャンプする脚本術こそ映画の持つ文学性といえるよなー。素朴でありながら言葉の旨味が詰まってる。
これぞ、つるとんたん。
鶴の一声に涙目でうなずくお駒に「女渡世人」のイントロがずり上げでかかり、歌が始まり出した次のショットでは夜道を歩く二人のカチコミ場面!
お駒役・藤純子による魂の歌唱であります!
風に吹かれて 重なり合った
落ち葉みたいな あなたと私
どこで死んでも 悔やみはせぬが
せめて三途の 河までは
笠をならべて 歩きたい
花の一匹 渡~世~人~~
うるさ。
藤純子の低音ボイスを活かした歌謡ナンバーでした。
それにしても、お駒の三歩後ろを腕組みしながらザッザッと歩く鶴田の格好よさったら、ないぜ。
…まあ、物語的には完全にパターン入ってるので、このあとの展開としてはガッサァーの運命(さだめ)によって鶴田は死んじゃうンだけどさ。
ガッサァーの運命…とかく女主人公を助けるサイドキックの男性はクライマックスで敵にガッサァーと斬られて死ぬ法則(主人公に抱かれながら事切れがち)。
◆日本家屋はキュビスム◆
さて。遠藤の屋敷に奇襲をかけたお駒と鶴田は、二手に分かれて敵を討つ。
この場面がおもしろい。『緋牡丹博徒』なんかでは背中合わせの連携によって襲いくる敵を二人で迎撃するスタイルだったが、本作の藤純子はやたらに戦闘力が高いので個人プレーでも頑張れちゃうというんだ!
まあ、共演者が国民的スターの鶴田浩二だから、二人別々の殺陣をカットバックすることで鶴田の見せ場を確保してるだけなんだろうけど。
このキッタハッタの大殺陣シーンで一際目を引いたのは日本家屋がスクリーンにもたらす図形的変態性である。
日本家屋というやつは、障子や襖だけでなく、長押・鴨居・床柱など、とにかく長方形を構成する「線」が千万無量をきわめるため、必然的にスクリーンは四角地獄の幾何学まみれと化し、あまつさえ殺陣によって奥行きが与えられることで画面はことさらキュビスムのごとく変態するのである。
いわば“刀を振り回す人間”という有機的な曲線のモチーフが、半ば宿命的に“幾何学の世界”に閉じ込められてしまう…という日本特有の剣戟空間が可能ならしめたシュルレアリスムの畸形化実験であり、この感覚は「線」のない西部劇文化圏にはまず存在しない。
たとえばシドニー・ポラックという物好きがロバート・ミッチャムと高倉健を使って『ザ・ヤクザ』(74年) という日米合作の任侠映画を手掛けてみても、やっぱり「線」からは逃げてしまうのである。その点、『キル・ビル Vol.1』(03年) のタランティーノなんかはいくらか「線」に対する学習意欲があり、クライマックスの主舞台となる青葉屋の店内照明に四角行灯をぶら下げる…ぐらいの気は利かせているのだが。
まぁなんにせよ、ドイツ表現主義ならぬ日本表現主義とも呼ぶべき、日本家屋での殺陣シーン。日本人にとっては見慣れた光景だが、改めてよ~~く見てみると相当に奇妙であります。
ていうか、そもそも論として日本映画って相当ヘンだしな。
他に類を見ない映像表現や撮影技法は「珍奇」や「画期的」を超えて、もはやクレイジー。言葉は悪いけど、きちがい沙汰なんだよ。
よく「欧米の映画って人種や宗教が日本とは違うから理解しづらいところが多分にあるよねー?」とか言うけど、おまえ…それ言い出したら「欧米人にとっての日本映画」はナンボほど難しいんだよっていうさ。喧嘩両成敗だよ。イーブンだよ。
まったく、日本って難しすぎるよな~。良くも悪くも。
だって、日本の映画好きが一番観てないのが日本映画だからね。
灯台下暗しだよ。木を見て映画観ずっ。
このショットの中に四角形がいくつあるか数えることがキミにできるか!
そんなシュールな映像空間で優雅に舞い乱れる藤純子。
殺陣……否。もはや「挙措」と呼ばせてほしいのだが、挙措の美しい彼女の立ち居振る舞い……否! もはや「一挙手一投足」と呼ばせてほしいのだが、その一挙手一投足の滑らかな動き……否!! もはや「芸術的動態」と呼ばせてほしいのだが、そうした芸術的動態の優雅な……否!!!
いや!!!!
もう「優雅」でいいや。ラチ明かねえ。
藤純子の挙措、その一挙手一投足の芸術的動態に見られる優雅な移ろいは、観る者はおろか劇中の斬られ役にとっての求心力にすらなっていた。
つまり「敵を斬るために藤純子が舞い乱れてる」のではなく、むしろ「藤純子が舞い乱れてるところにたまたま敵が来て勝手に斬られてるだけ」に見えるのね。
いわば藤がドスを振り回しながらベイブレードみたいにくりくり回ってるところに、やくざ達が「心惹かれるー」とかなんとか言いながら近寄っていってはバッサリ斬られる…といった、ある種のマヌケ沙汰が演じられてるわけだ。
素人ながらに藤純子の身のこなしはどこか日本舞踊を思わせるよなーとは思っていたが、のちに7歳から日本舞踊を習っていたと知って合点がいった。なるほどなー。だからベイブレードなのかぁ。
鶴田も鶴田で、非常に美しいですよ。
殺陣においては“上から叩き斬るタイプ”なので藤のような優雅な身体性こそないが、もとより線が細いので上品に叩き斬っている。RPGゲームの勇者スタイルね。別に上手かぁないが魅せる殺陣というか。
そんな鶴田が遠藤組ナンバー2の汐路章にドスを突き立ててゆっくり殺す場面は『プライベート・ライアン』(98年) のメリッシュ刺殺シーンを思い出した。刃先が内蔵に到達するまでのプロセスを「うわ~、痛い痛い痛い…」とかなんとか観る者が小声で呟きながら酸っぱいもの食ったみたいな表情で眺めるためだけの時間ね。バイオレンスだなァ。
そんな鶴田も、ついにガッサァーの運命(さだめ)の前に倒れてしまいます。まぁ、刃物による斬撃ではなくピストルによる流れ弾で死ぬので、この場合はガッサァーというよりバッスゥーと言い換えうるかもしらんが。
お腹、バッスゥーいかれとったからな。
バッスゥーの運命…ガッサァーの運命と同義。刃物で斬られた場合はガッサァー、銃で撃たれた場合はバッスゥーと使い分けるのが大人のたしなみ。
メリッシュvs鶴田。
ピクピクと瀕死の鶴田から「オレの事はいい。奴を…」と言われたお駒は、ヒィヒィいいながら逃げ惑う遠藤を追い詰め、ついに二人の因縁が決着せんとした。いま、多くの血を吸ったお駒の長ドスが遠藤の首を捉える!
母の命を奪っただけでなく、鶴田までピクピクとさせた憎き遠藤組…。ようやく全ての幕が下りる最後の一撃にて、お駒は次のようなセリフを発します!
「しねっ」
ただの悪口。
しかも言い方がポップなのよ。「しねっ」の発音が何かカワイイの。
「しね」。そう…。普段われわれがビデオゲームをしながらよく発する言葉である。とりわけザコのCPUをやっつける時、われわれは半ば無意識裡に「しねっ」と呟いてしまうのです。それを、お駒は発しました。
うわ~~任侠映画における決着シーンの決め台詞にしてはあまりにパンチが弱くて何なら可愛らしくもある「しねっ」というワードがお駒モンドセレクションに選ばれてしまったというのかぁ~~。
途端!遠藤の首からウソみたいに血が噴き出します。
ブ――――ッ!!
遠藤は死にました!
「しねっ」のポップさと釣り合ってないよ。バイオレンス描写が。
この血糊の量はアレよ。菅原文太あたりが凄みのある怒声で「死ねゴラァッ!」って叫びながら組長をぶち殺すとき専用の量だよ。間違ってもビデオゲームでCPUやっつけたみたいなポップな言い方の「しねっ」で噴き出していいレヴェルの血糊じゃないでしょ。ブ――ッ!いうてるやん。
そんなわけで無事に温泉街を守ったお駒は、遠藤組で飼われていたバカ犬を抱きしめながらラストシーンの雪道を楽しみます。さくさくと歩いて。
大量の血飛沫のあとに白銀の世界。
イメージの補色的活用による鮮烈なショットだわ。これは雪道のショットがすぐれてるのではなく、その前の“血飛沫のイメージ”が後ろのショットに活きた…と見るべき映画術だな。この二つのショットを繋げているのが遠藤討伐の直後から流れ始めた「女渡世人」。挿入歌のちょっとした使い方である。ただ単に雰囲気を作るためではなく、複数のショットをひとつのイメージにするための、いわばショットとショットの接着剤のような役割を担うものが劇中音楽。エンドロールが当たり前になった現代では忘れ去られたテクニックかもね。