シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

緋牡丹博徒 一宿一飯

化粧で隠した女の涙は、見せたが最期のつむじ風!

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1968年。鈴木則文監督。藤純子、鶴田浩二、菅原文太。

 

一時代を築いた藤純子主演による“緋牡丹博徒”シリーズ第2作。恩義ある戸ヶ崎一家が、農民を困らせる笠松一家のために全滅したと聞いたお竜は、戸ヶ崎一家・二代目を助けるべく一路四国から上州へ。悪らつな笠松一家に殴り込みをかける。(キネマ旬報データベースより)

 

あい、おはよー。2日更新をサボった気でいたけど3日もサボっていたことを知り、慌てて更新準備をしている今時分。

サァサァ。洋画贔屓の読者にとってはガッカリする季節がやってきたかも。昨年6月末から8月中頃まで31本ぶっ通しで続けた「昭和キネマ特集」第二弾がゆくりなく始まってゆくのだから。

題して「続・昭和キネマ特集」悪夢再来とはまさにこのこと。

前回は大映作品を中心に取り上げたけれども、今回は「Amazonプライム・プラス松竹」のお世話になる気満々なので松竹作品が中心になりそうだ。まあ、前回みたいに2ヶ月近くもやらないからそこは安心されたい。

あと前回は溝口健二、増村保造、市川崑あたりを依怙贔屓して取り上げたけれども、今回は特定の映画作家を掘り下げるつもりはあまりないので恣意的なラインナップになると思う。でも小津安二郎だけは行かせてな。松竹といえば小津やん。それはアイスティーに氷が入ってるぐらい確実なこと。

そんなわけで続・昭和キネマ特集の先陣を切ってくれるのは『緋牡丹博徒 一宿一飯』です。

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◆帰ってきた緋牡丹◆

「早速、お控えくだすって有難うござんす。

手前ことは九州は肥後、熊本は五木の生まれ。姓名の儀は矢野竜子。通り名を緋牡丹のお竜と発します。

御視見の通りの未熟者にござんす。行く末、お見知りおかれまして末永くお引き立てのほどお願い仕ります(ペコリ)」

 

藤純子が緋色をバックにカメラ目線で名乗るドリー・インのアバンタイトル。

撮影当時22歳だった藤純子の『緋牡丹博徒』シリーズは江波杏子主演の大映映画『女賭博師』シリーズに対抗して作られたプログラムピクチャーだが、シリーズの質は押し並べて高く、鶴田浩二・高倉健・若山富三郎らと共に東映任侠映画の人気を不動のものとした。

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シリーズ第1作『緋牡丹博徒』は、組長のパパンを辻斬りで失った「緋牡丹のお竜」が仇を討って二代目を踏襲するまでのステキな物語だった。

シリーズ2作目となる『緋牡丹博徒 一宿一飯』では、前作で脚本を手掛けた鈴木則文がメガホンを取る。鈴木則文は「下品こそこの世の花」を座右の銘に『温泉みみず芸者』(71年)でポルノという造語を日本に定着させ、『徳川セックス禁止令 色情大名』(72年)で蓮實重彦を唸らせ、『パンツの穴』(84年)で菊池桃子の芸能デビューをウンコまみれにした低俗映画の巨匠。一般には『トラック野郎』シリーズの監督として知られる。

藤純子扮する「緋牡丹のお竜」がいよいよ全国を回りながら悪党を成敗していく本作。やはり見所は特別出演枠で、前作ではお竜を助ける流浪の剣豪を高倉健が演じていたが、本作ではそのポストを鶴田浩二が爆演。

グレードアップしとる。

高倉健より格上の任侠スターとなると鶴田浩二しか居ないが、その鶴田をあっさり起用した当時の東映の羽振りのよさには吃驚仰天だ。

戦後芸能史において俳優と歌手を両立させた鶴田浩二の人気はすさまじかったという。花道を歩いただけで白い着物が女性ファンの口紅で真っ赤になった…というのは有名な逸話だが、ほかにもキャリア全盛期にはたった1日の撮影だけで300万円(現在の約2500万円)も稼ぐようなスーパースターである(あまりに人気すぎて山口組による鶴田浩二襲撃事件すら起きた)。主な代表作に『人生劇場』シリーズ、『博徒』シリーズ、『次郎長三国志』シリーズ、『お茶漬の味』(52年)『忠臣蔵』(58年)など。

また、黒幕・天津敏の側近役を菅原文太が演じる。ここから緋牡丹シリーズでは、鶴田・高倉・菅原が毎回交互に出演するという東映ローテーションが完成した。ボンドガールならぬお竜ボーイとはよく言ったものだ。なお、コメディリリーフの若山富三郎は全作出演。

シリーズは8作品続いたあと、藤が結婚を機に女優業を爆裂引退したことで打ち切りとなった(その年に寺島しのぶを猛烈出産。その12年後に芸能界に激烈復帰するという裏切りを見せた)。

f:id:hukadume7272:20200511173030j:plainお竜を助ける鶴田浩二(上)、敵役の菅原文太(下)。

 

◆心にゃあ誰も墨を打つこつはでけんとです◆

上州富岡で賭場を荒らしている白木マリ西村晃の夫婦を、水島道太郎が束ねる一家の客分・お竜が花札で負かす。その頃、高利貸・遠藤辰雄に搾取された農民から救いを求められた水島は、松山で一家を構える若山富三郎のもとにお竜を遣わし、その間に遠藤邸に討ち入りをかけたが、水島の舎弟・天津敏が20世紀最大の裏切りを働き水島を殺害。

訃報を聞いたお竜が富岡に戻ってくると、すでに上州全域が天津一家の勢力圏になっていたので「あちゃちゃ」と言った。どういう意味が込められているのだろう。

水島の一人娘・城野ゆきと結婚して水島一家の跡目を継いだ村井国夫は血気に逸って単身殴り込んだが、天津の側近・菅原文太からズタズタにいわされてしまう。そこに駆けつけたお竜がピストルを撃ちまくって村井を助けたが、この一件で天津一家に目をつけられたお竜は夜道という夜道で刺客に襲われ、肝という肝を冷やしに冷やす。そこへ通りがかりの一匹狼・鶴田浩二が現れ、一太刀のもとに刺客を斬り捨てた。これにはさすがの菅原もブルッてしまい、尻尾をまいて逃げる姿を見たお竜、「鶴パワーを借りれば…ことによると!」と前途に光明を見出すのだった。

 

『緋牡丹博徒 一宿一飯』は、前作の監督・山下耕作とは一味違う鈴木則文の演出を楽しむ作品だろう。以前『ゾンビランド:ダブルタップ』(19年)評の中で「続編映画を続編映画たらしめるのは“繋がり”ではなく“反復”だ」と述べた通り、本作は実に反復法が効いたシリーズ2作目。

「1作目でメタリカを流した以上は2作目もメタリカ」なのである『ゾンビランド:ダブルタップ』評に詳しい)

夜祭りに始まるクレジットタイトルでは、櫓の上のお竜が鮮やかにバチを操って太鼓を打ちまくる楽しげな風景。Master of puppets」を叩いているのだろうか。

彼女のドラミングは多くの仲間を失ったラストシーンで再び繰り返されることになるが、そこでは音楽も表情も哀愁を帯びており、女の幸福を捨てて戦いに身を投じる悲しき宿命が“祭りのあと”として苦い余韻を残していた。

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ドラマーとしても一流のお竜。

 

お竜が花札勝負で下した天津お抱えの賭博師・白木マリとは拘束された村井の身柄をめぐって丁半勝負で再戦することになり、マリはお竜にイカサマを看破されたことで天津の逆鱗に触れ、夫・西村ともども痛めつけられるが、逃げた先の廃屋でお竜と鶴田に助けられる。それがお竜と鶴田の再会の場でもあるため、このシーンは2つのエピソードを同時に反復していることになる。語り口として申し分ない。

二人が薄暗い廃屋で語り合うシーンではメロドラマが一瞬顔を覗かせてもいて、背を向けた鶴田とその後姿を見守るお竜のトラックアップによって初めてお竜が男に惚れた(惚れかけた?)ことを示唆している。お竜演じる藤の表情がすばらしいが、それ以上にメロドラマを形作る被写体の配置および移動撮影の妙味に酔う。

また、こんな血生臭い世界からは足を洗えと諭す鶴田が「ドスよりお針の方が似合うと思うぜ」とかけた言葉はお竜だけでなく私までドキドキさせることに成功している。このシーンは藤純子と鶴田浩二の色気合戦。もはやどっちのフェロモンにグラついてるのか分からなくなるレヴェル。

f:id:hukadume7272:20200511173325j:plain見つめ合うと素直にお喋りできないから視線を逸らすロォマンス。

 

まあ、大筋としてはお竜と鶴田がタッグ組んで天津しばくというシンプルなものだが、魅力的な脇役が大量投下された本作は脇道も愉しく。

当シリーズのコメディリリーフは若山富三郎と相場が決まっているが、いかんせんしつこいのが大好きな鈴木則文の作。お竜に惚れて舎弟にしてもらおうと付きまとう二人組が笑いを追加補充する。その二人というのが「チョメチョメ」という言葉の生みの親・山城新伍と、『2019年ひとりアカデミー賞』で助演男優賞にノミネートした実績を持つ『しびれくらげ』(70年)玉川良一

お竜をリスペクトしている二人は、彼女のマネをして緋牡丹の刺青を入れたが、なぜかお竜と同じ背中ではなく胸に入れるという部位間違えを犯す。山城新伍は胸毛の上から彫ったので「毛牡丹の新伍」、玉川良一は乳首の上に彫ったので「乳牡丹の良一」を勝手に自称した。

くだらないんだよバカヤロー!

その後「乳牡丹の良一」はお竜を刺客から庇って刺殺されるが、いかんせん玉川良一なので「乳牡丹、死んでもうてるやん」と笑いながら茶化してしまいました。

f:id:hukadume7272:20200511170529j:plain毛牡丹の新伍(左)、乳牡丹の良一(中央)、若山富三郎(右)。コメディリリーフ多すぎ。

 

また、ドラマの通奏低音をなすのが女賭博師・白木マリと不能の夫・西村晃、それに水島一家を継いだ村井国夫とその妻・城野ゆきの夫婦物語である。

マリは不能にされた夫を愛しながらも天津から慰み者にされており、自分たちを逃がしてくれたお竜に義理を感じる。当初は敵対していたが、賭博師としても人間としても遥か格上のお竜に無言の敬意を示して上州を去るが、ここでの夕陽をバックにした女同士のアイコンタクトがいい。

一方、村井を人質に取られたゆきは天津に騙され、事業の権利書を分捕られた上に手籠めにされる。父の仏壇の前で泣き崩れ「私は汚れまったんです」と慟哭するゆきに、背中の緋牡丹をギャーンと見せつけたお竜が涙を堪えて悲しみを分かち合うシーンは本作屈指のハイライト!

「女だてらに…、こぎゃんもんば背負って生きとっとよ。だけん、私にはゆきさんの気持ちがよう分かりますばい。

女と生まれて人を本当に好きになったとき、いちばん苦しむのは、こん汚してしもうた肌ですけんね…。だけん、身体じゃなかつよ。人を好きになるのは心。

肌に墨は打てても、心にゃあ誰も墨を打つこつはでけんとです…」

「お竜さん!!!」とギャン泣きするゆき、および私がそこには居た。

しかと打ち出された『緋牡丹博徒』シリーズのテェマに涙。女の幸せを捨て、背中に背負った牡丹の緋。渡世の義理は血で果たす。化粧で隠した女の涙は、見せたが最期のつむじ風!

どうか安心して。何言ってるか自分でも分かってないから。

f:id:hukadume7272:20200511171126j:plainお竜と悲しみをシェアーする城野ゆき(下)。

 

◆俺たちは花に群がる蜂でした◆

下っ端ひとりを従えてカチコミに行くクライマックスでは藤純子歌唱による緋牡丹博徒のテーマが流れるのが毎度のパターンだが、その道中で鶴田が現れると一度音楽が鳴りやみ、以前お竜が置き忘れていった簪をちょんと頭に付けてやり「お供いたしやす」と言うと再び曲が流れ始める。

このクサい演出がサマになるのは、とめどなく色気を放つ鶴田とお竜の危うい視線劇がポルノまがいの官能性を湛えている為だろう。おそらく鈴木則文は二人の構図=逆構図をリハで試した時点で「勝った」と思ったはずだ。それほどまでに確信に満ちた凄艶な切り返しと瞳の衝突は、高倉健との前作を見事に反復しながらも“その先”へと跳躍してしまいそうな危うさが張り詰めていた。

この「緋牡丹博徒のテーマ」をバックに夜道を歩く前作との同一ショットの反復(=跳躍)こそが「続編映画が続編映画でなければならない理由」、ひいては『緋牡丹博徒 一宿一飯』が正しくシリーズ2作目であるための出生証明書に他ならんのだ。

 

カチコミをかけたお竜と鶴田は、クライマックスの大立ち回りにしては僅か3分という短い時間の中で天津・菅原をラクに成敗する。早えー。および強えー。

この短時間のなかで決闘の舞台を屋敷から地下の製糸工場へと移す手並みはいかにも鮮やか。斬られた人間が床に崩れ落ちる拍子に糸繰り機に軽く触れることでカラカラという乾いた音を残すのだが、この残響がチャンバラの調子になっていてすこぶる好い。

もはや鈴木則文をすぐれた映画作家として信用しない法はない、とこちらが満足げな笑みを浮かべていたところへ、物陰に隠れていた残党が鶴田めがけて鉄砲を放ち、お竜の腕の中で死んでいった前作の高倉健とまったく同じシチュエーションで逝ってしまうという噴飯モノの結末にはズッコケ。

またこのパターンかよ!

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お決まりの死亡コース。

 

結句、良くも悪くも鈴木則文は鈴木則文、下品の子は下品の子、なぜなら鈴木則文は鈴木則文だから…という糞みたいなトートロジーに帰結した私、「あはん」などと笑っていると、エンディング曲が激しく鳴りしきる中、いまいちど櫓にのぼったお竜がバチを振り回してMaster of puppetsを叩く。

このように、1968年製作の『緋牡丹博徒 一宿一飯』の映画術が半世紀もあとのアメリカ映画『ゾンビランド:ダブルタップ』へと受け継がれたように、「続く」ことは「繰り返す」ことなのだ。

いささか短絡的ともいえる緋牡丹(赤)を使った山下耕作の色彩戦略が思いきりよく廃棄されたシリーズ2作目『緋牡丹博徒 一宿一飯』は、賭博、剣劇、色恋、戦術、音楽、笑劇など、すべての面でパワーアップしており、お竜の武器も短刀、簪、拳銃、傘と多彩を極める。加えて場面転換で挟まれるエスタブリッシング・ショットのパターンなど、枚挙に暇がないほど多要素の魅力に満ちた鈴木畢生の力作ぶり。

前作以上の満足度を約束してくれる鈴木則文は、いやいや、商業作家として一流だ。

 

今度も『緋牡丹博徒』シリーズは(読者のニーズをドン無視して)ルーティンの如く取り上げるかもしれないが、それは取りも直さず“自堕落”とほぼ同義の続編量産体制の中で数少ない「観るべき映画」として選りすぐった結果の態度として受け取って頂きたい!

藤純子が背負った緋牡丹の物語は、月々の量産と消費を飽きることなく繰り返すプログラムピクチャーの見世物商売とは一線を画した地平に「女の業」という戦後日本のモダンな主題を咲き誇らせ、その夜露に湿る花弁の香りは半世紀の時を越えてわれわれの嗅覚を甘く刺激し、好むと好まざるとに関わらずその瞳をスクリーンに引きつけてしまうので、いわば“『緋牡丹博徒』シリーズを観る”という行為は花に群がる蜂の営みに等しい。つまり俺たちは緋牡丹に群がる蜂ということが言えると思うんだ。わかるだろ。

肌を露わにした藤純子の刺青に視線を注ぐことは、ひとつの営為、ある種のライフスタイルなのだッ!

ただしお竜が腕一本で敵を川に投げ飛ばしたシーンだけは解せん。

なんやその怪力設定は。いつからや。

f:id:hukadume7272:20200511174230j:plain「るるおー」