シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

アンダー・ハー・マウス

純愛? いえ、バキバキの性愛です。

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2016年。エイプリル・マレン監督。エリカ・リンダー、ナタリー・クリル、セバスチャン・ピゴット。

 

心身ともにたくましく、昼間は大工として働くダラスは、夜ごと違う女性と関係を持つという奔放な日常を送りながら、自身の居場所を探していた。ある週末の夜、ダラスはバーの片隅で、ファッション誌の編集者として成功するキャリアウーマンのジャスミンと出会う。情熱的に絡み合い、お互いの愛を確かめ合った2人の時間は永遠のものと思われた。しかし、ジャスミンには結婚を約束した男性がおり、その男性の存在がダラスとジャスミンの行く末を遮る大きな障壁となる。(映画.com より)

 

ぷんすか怒ってます、私。

最近、映画を観てぷんすか怒ることが多いので、酷評レビューばっかり書いているのだけど、ネガティブワード乱発の酷評レビューばっかり立て続けにアップしちゃうと読者様の気分までダダ下がりにしちゃうので、絶賛回と酷評回をいい塩梅に配置してバランス取って行こうみたいな打算があります、私の中に。

ちなみに私の「酷評」は3段階のステージに分けられます。

 

軽:ぷんすかレビュー

「疑問」、「不快」、「呆れ」を感じた作品を腐したレビュー。

これが最も多い。とはいえ良いところがある映画も多いので、部分的には褒めているのが特徴。

 

中:プチ切れレビュー

「怒り」を感じた作品を腐したレビュー。

「ブ」じゃなくて「プ」ですよ。あくまでプチ切れです。ありとあらゆる悪口や嫌味が飛び交うことが特徴。だいぶキレてますが辛うじて理性は保ってます。

 

重:ブチ切れレビュー

「憎悪」や「殺意」を感じた作品を腐したレビュー。

阿修羅のような形相で「指よ、折れろ」とばかりにキーボードを弾丸押しして罵詈雑言を書き殴った支離滅裂かつ感情的な文体が特徴。一年に一度あるかないかの貴重な回で、幸いにも当ブログではまだ披露していない(披露するのが怖い)。

 

くだらない前置きはこの辺にしておきましょう。

本日は『アンダー・ハー・マウス』をぶった斬って候。

 まずはこの写真をご覧あれ。

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※女性です。

『アンダー・ハー・マウス』は、ユニセックスなトップモデルとして活躍するエリカ・リンダーの初出演作だ。

女性でありながら「イケメン」と評されるほどの中性的に整った顔立ちから、若き日のレオナルド・ディカプリオエドワード・ファーロングとの相似性をみとめる者が後を絶たないという!

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※大事なことなのでもう一度言うけど、女性です。

画像右はディカプリオに見えるし、画像左はエドワード・ファーロングターミネーター2のイケメン小僧)に見える。

 

そんなエリカ・リンダーが主演を務めた『アンダー・ハー・マウス』は、女性同士の過激な性愛を描いた官能作品である。

監督はあくまで「性愛」ではなく「純愛」という言葉にこだわっているが、全体の約60パーセントはセックスシーンで、夜な夜なレズバーで女を漁るエリカの奔放な性が描かれているのでバキバキの性愛です。いくら純愛という言葉でごまかしても無駄だ。ぜんぶ見通しだっ。

そんなイケメン・エリカ、ようやく運命の相手ナタリー・クリルと出会って愛し合うようになるが、精神的な交流なんてまるで描かれず、セックス→ピロートーク→セックス→ピロートークの繰り返しで、「これを純愛と呼ぶなら性愛との違いはどこにあるんでしょうね?」という感じで。

少なくとも表層的にはエリカの止まらない性欲がただただ律儀に描かれているだけだし、どうも私の目にはそれを「純愛」という方便で美化しているだけのようにしか映らないのですよ。文字通りのファック映画だ(質的にも内容的にも)。

ちなみにエイプリル・マレンというまれに嘘をつきそうな名前の監督もまた女性監督です。

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 それにしても男前やなぁ。

 

ただ単にセックスしてるだけの映画ならまだしも、この作品にはひとつ厄介なファクターが横たわっていて。

まぁ、ご想像の通りLGBT問題だ。

LGBT文化全盛の中で作られたレズビアンを主題とした内容なだけに、「レズビアンの何が悪い!」という主張が過剰なまでに詰め込まれていて、もうヒステリー寸前の逆ギレ状態

レズビアンに対する偏見をなくすために彼女たちの恋愛観とかレズビアンバーといった「同性愛者の思想・文化」を扱う…というのは映画としてこの上なく真っ当なのだけど、もはや監督含め映画全体がエリカという主人公に100パーセント肩入れしちゃってて、自分らしく堂々と(ていうか奔放に)生きるエリカを無条件で称揚または盲信しているさまには薄気味悪さすら感じる。

 

たとえば、エリカは毎晩のようにレズビアンバーで女を漁っては行きずりの関係を結ぶ、一般的に言えば「性に奔放」なキャラクターだ。

だが映画は、決してエリカの奔放な性生活を客観的な立場から批評するでも留保するでもなく、むしろ「クールで格好いい生き方」として全面的に肯定している

「今の時代、レズビアンはこれぐらいサバサバしてなきゃダメよ!」とでも言うかのように。

えてして性愛者の奔放な性生活は「ふしだら」とか「男好き・女好き」といった言葉で批判されるのに、その「奔放さ」はレズビアンを対象にした途端に「純愛」になるんですか? っていう。

マイノリティを過度に贔屓することって、一周回って差別になるんじゃないの?

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エリカと本気で愛し合ったナタリーには婚約者の彼氏がいるが、ナタリーはどっちつかずの態度でエリカと婚約者の二足の草鞋を優雅に履きこなしている。

ところが、女二人がバスタブで激しくヤってる現場を、出張から帰ってきた婚約者が目の当たりにしてしまう。

婚約者 「うそーん」
エリカ「うそーん」
ナタリー「あ、やっべ!」
おれ 「うそーん」

 

多数決により結論「うそーん」。

 

浮気にぶち切れる婚約者に対して「でも相手は女なのよ…」と、言い訳してるようで言い訳にもなってない言い訳をするナタリー。

一日経って冷静さを取り戻した婚約者だが、今度は激しく落ち込んでナタリーからの性交渉を「とてもじゃないが今はそんな気分にはなれない…」と断る。するとナタリーはバルコニーでヘコんでる婚約者に対して「私だって辛いのよ。あなたも努力して!」と謎の努力を要請。

もはや厚かましくて引く。

だが婚約者はナタリーとやり直すことを決意し、ナタリーにエリカとの関係を綺麗さっぱり清算させたあと、しばらく抱く気にもなれなかったナタリーをついに抱こうとする!

しかし土壇場になって、ナタリーの方が「ごめん、やっぱ無理…」といって仲直りセックス大会中止。自分を許してくれた彼氏との婚約も破棄して、結局エリカのもとに走ってしまう。

うそーん。

 

「恋の噛ませ犬を守る会」の会長を務める私としては、婚約者が不憫で仕方ないし、ナタリーの外道ぶりは到底看過できるものではない。ナタリーぶっ殺す!

…というのはわたくし一個人の感情論として流して頂きたいのだが、この問題の本質は「同性愛を擁護するために、ナタリーと婚約者の異性愛を相対的不平等に扱っている」という点だ。語弊を怖れずに要約すれば「異性愛よりも同性愛の方が尊重されるべき」というバイアスが極端に働いている。

また、婚約解消したナタリーが、晴れて堂々と付き合えるエリカに対して「同僚にあなたのことを打ち明けたわ」と報告するラストシーンの一言にはドッチラケだ。最後の最後にカミングアウト展開で一気にテーマが矮小化されてしまう。

それをせずにLGBTを描くのがLGBT映画でしょうに。

 

『ムーンライト』(16年)でも少し触れたが、私はLGBTが広く認知されて受け入れられることはとてもグレートなことだと思っているけど(より多くの人が自己表現しやすくなるからね)、ただ、昨今顕著な神経質なまでのLGBT推しには違和感を覚えている。

たとえば本作も「女性スタッフだけで作る」という、とてつもなくバカなことをしていて。

「それ、なんか意味あんの?」と。

 

ここまでは映画の思想や態度について不満を爆発させてきたけど、実際に映画としての出来がよければ結果オーライなんだよ。「作り手のスタンスには賛同できないけど、映画としては素晴らしいし、技術的にも一級でした。悔しいけど認めざるを得ない!」ってね。

でも、それすらナイ状態で。

カットの繋ぎは滅っ茶苦茶。エスタブリッシング・ショットを撮り逃したまま部屋Aから部屋Bのショットに繋げているのでその部屋が誰の家の部屋なのかがまったく分からない…といった編集ミスが目につく。

おまけに純愛純愛と言ってるわりには、やってることは性行性行で「なんなの? 純愛=性行なの? だとしたら動物の交尾はぜんぶ純愛なの?」と。「純愛」ってこんなに安い言葉だったんだ…と目が開かれる思いです。

この映画で描かれる愛には説得力がない。

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畢竟、「マイノリティに対する理解」と「マイノリティを守るためのマジョリティに対する攻撃」を履き違えると、ある意味ではマイノリティもマジョリティも差別してしまう結果になる…、ということに気づかされる作品でした。

レズビアンを描いた映画では『キャロル』(15年)がおすすめです。『キャロル』は最高だ。

ただし、主演のエリカ・リンダーだけは絶賛したい。

フォトジェニックな佇まいや、タフな骨格、そして曖昧な笑みは、それだけで画面をさらい、映画を支配している。ぜひモデル業だけでなく映画にもバンバン出てほしい。この監督以外の映画にね。

えらいのが出てきたなー。今後が楽しみだなぁ。

まぁ、エリカ・リンダーを発掘した…という点においては意義のある作品なんじゃないすか?(ヤケクソ)

もう知るか!

 

 

黙秘

 キャシー・ポテンシャルが発揮された母親サスペンス!

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1995年。テイラー・ハックフォード監督。キャシー・ベイツジェニファー・ジェイソン・リークリストファー・プラマー

 

アメリカ・メイン州の小さな島にある、富豪未亡人の邸。そこで郵便配達人が見たものは、血だらけで横たわる女主人の頭上に、のし棒を手に呆然と立ち尽くす家政婦ドロレスの姿だった…。無実を主張しながらも、事件の詳細には黙秘を通すドロレス。彼女には20年前、夫殺しの容疑で不起訴になった過去があった。数年ぶりに帰郷した娘セリーナにも堅く口を閉ざすドロレス。その全ての真相は、20年前の日食の日に隠されていた…。(映画.com より)


先日『フライド・グリーン・トマト』(91年)を観てからというもの、どうも私の脳内にはキャシー・ベイツが居座り続けていて、たいへん迷惑している。

日に2回ぐらいはキャシー・ベイツに思いを馳せている自分がいるのだ。

なんというか…、イメージよ? イメージとしては、天使の羽をつけたキャシー・ベイツが全裸で空を翔け回っているのだ。弓矢をバスバス放ちながら。

それも10人ぐらい。

キャシーズだよ。

このまま脳内でキャシーズを飼い慣らしていたら日常生活がままならぬ…というので、ショック療法的に「あえてさらにキャシー映画を観ることで脳内のキャシーズを供養できるのではないか?」とすてきなアイデアを閃いて、このたび『黙秘』を初鑑賞したわけだ。

『黙秘』という邦題なので、てっきり被告になったキャシー・ベイツ仏頂面で黙秘し続ける映画かと思っていたが、ぜんぜん違ったわ。

 

もくひ

 

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キャシー・ベイツが黙秘しない映画。

本作は、恐竜顔でお馴染みのスティーヴン・キングキャシー・ベイツを想定して書いた小説『ドロレス・クレイボーンの映画化だ。

スティーヴン・キング原作&キャシー・ベイツ主演…といえばミザリー(90年)だが、本作は二度目のタッグとなる。

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ミステリー小説好きのキチガイババアが大好きなミステリー作家を自宅に監禁するミザリー

 

さて。物語は、ニューヨークでジャーナリストをしているジェニファー・ジェイソン・リーのもとに、故郷メイン州の小島で暮らす母キャシー・ベイツが長年メイドとして仕えていた女主人を殺害した容疑で逮捕されたという報せが入り、慌てて故郷に帰るところから始まる。

何があったのかとジェニファーが訊ねてもキャシーは固く口を閉ざすばかりで、クリストファー・プラマー演じる警部にも悪態をつき、まるで埒があかない。

警部は女主人を殺害したのがキャシーだと睨んでいる。彼女には20年前に夫殺しの罪で不起訴になった過去があったからだ。

果たしてこの母親は恐ろしい殺人鬼なのか、はたまた…。

 

『黙秘』という邦題だが、キャシー・ベイツが黙秘するのはせいぜい最初の10分ほどであり、キャシーとジェニファーの親子が故郷の家で数日間ともに暮らすうちに、キャシーは事件の真相をひとりでベラベラと喋りはじめる。

ぜんぜん黙秘してなーい。むしろ「告白」では?

そんなわけで、キャシーの告白によって徐々に事件の全貌が明かされていくのだが、物語が進むにしたがって、これが単なる殺人事件ではなく、もっと重畳的で深みを持った作品であることが露呈していく、骨太のサスペンスだ。


②女たちのスローガン。

まず、回想シーンによって「2つの事件」が並行して語られていく…という珍しいプロットが見もの。

ひとつはキャシーにかけられた女主人殺害の容疑。もうひとつは20年前の夫殺しの容疑だ。

ここで語られるのは2つの事件そのものではなく、2つの事件の中心にいるキャシーという女の半生である。

過去のキャシーが女主人のもとで20年以上どれだけ手荒にこき使われてきたか。そして家に帰れば夫の家庭内暴力や娘に対する性的虐待がどれだけ彼女を苦しめてきたか。

まさに傷だらけの女の物語なのだ。

 

しかし泣き寝入りしている場合ではない。

劇中で「女はときに鬼にならなきゃならないのよ」という台詞が娘ジェニファーの口から出てくるのだが、おもしろいことにそのあとキャシーも同じ台詞を言う。さらには回想シーンの中で女主人まで口にするのだ。

つまりこの台詞は、女主人からキャシーへ、そしてキャシーから娘へと受け継がれた女たちのスローガンなのである。

 

また、ジャーナリストのジェニファーは特ダネを他の人間に書かせると言った上司に対して「私が女だから?」と抗弁し、キャシーもまた銀行員の不当な扱いに対して「私が女だから?」と睨みつけた。

そして、あれほど意地の悪かった女主人は、キャシーの夫が娘に性的虐待をしていることを知り、事故を装って夫を殺しなさいと提言し「事故は不幸な女の一番の味方なのよ」とキャシーにむけて言う。

まさにこの映画そのものが女たちのスローガンである。何かに苦しんでいるすべての女性へ贈る復讐のエールなのだ。

ブリジット・ジョーンズの日記(01年)とかプラダを着た悪魔(03年)みたいなハンパで甘っちょい映画に励まされてる暇があったら『黙秘』を観ろ!


③実質的にはキャシー・ベイツの一人三役!

この映画の魅力は、なんといっても主演のキャシー・ベイツだ。

彼女が演じているのは原作小説の題名にもなっているドロレス・クレイボーンというキャラクターだが、実質的には一人三役といっていい

彼女には3つの顔があるからだ。

 

一つめは、母親としてのキャシー・ベイツ

酒浸りのDV夫に対して気丈に振る舞う彼女だが、夫は陰でキャシーにDVを振るう反面、娘に対してだけは優しいので、何も知らない一人娘のジェニファーは夫にばかり懐いてしまう。

クズの夫は、キャシーが娘の学費としてコツコツ貯金していた金を勝手に使い込んでは「へっへっへ」などと邪悪な笑いを浮かべるようなマジキチ悪魔で、一度ぶち切れたキャシーが夫の頭に壺を叩きつけて血だらけにしたことがあったが、そうした背景を何も知らない娘はその現場だけを見て「ママがパパに壺ぶつけてる! ママ酷い!」と誤解。

キャシーの愛は娘には届かず、娘の愛はもっぱらクズの父親に注がれるという…。

母の報われなさたるや!

泣けてくるですよ。

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「今度私に手を出したら、どちらかが死ぬことになるわよ!」といってDV夫に斧を突きつけるキャシー。

 

二つめは、メイドとしてのキャシー・ベイツ

娘の学費のために女主人に毎日こき使われているキャシーの両手は、家事でガッサガサだ。

この女主人はディズニー映画に出てくるふざけきったババアみたいに意地が悪いのだが、キャシーの夫が娘に性的虐待していることを知ってからは女同士の奇妙な一体感によって結ばれる。

だがその一体感は決して絆や友情などといった湿っぽい関係性ではなく、あくまで「女同士」という共通点だけで結びついた寄る辺ない関係なのだが、このサバサバとした微妙な距離感がいい。「なんだ、この女主人も単なる嫌味ババアではないのね」というあたりが微かに見えたり見えなかったりする…という、この微かイズムが非常に文芸的でリアリティに溢れているのだ。

娘を自立させたあともキャシーが10年以上メイドを続けていたのは、なんだかんだで女主人に奇妙な情を感じていたからだろう。

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女主人を演じたジュディ・パーフィット

 

20年後の月日が流れて、女主人がキャシーに介護される歳になると、もはや二人の間に厳しい主従関係はない。偏屈ババアとヘルパーさんのような砕けた関係だ。

 

女主人「ウンコが出た。だけどオムツはもうイヤなのよ」

キャシー「何言ってんのよ、オムツを履き替えなきゃ。ウンコにまみれて死んでいくつもりなの?」

女主人「私のことをバカにしてるわね…!」

キャシー「いーや、バカなのは私の方だわよ。20年以上も安賃金でこき使われてきたんだから」

 

そして三つめが現在のキャシー・ベイツ

老いさらばえた現在のキャシー・ベイツは、すっかり疲れ果てている。

女主人殺害の容疑でプラマー警部からムチャクチャに怪しまれているが、「私は無実よ」と主張したうえで、ジェニファーに対して「でも有罪になろうが無罪だろうが、どっちでもいいのよ」と心情を吐露している。

再三に渡ってジェニファーから弁護士をつけるようアドバイスされているのに「いらん」の一点張り。まるで何かを罪滅ぼしするかのように、自ら有罪判決を臨んでいるような身振りだ。

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まさにキャシー・ポテンシャルが発揮された、キャシー・ベイツありきの映画化である。

どうやら私は彼女のオモシロに目を向け過ぎたあまり、「キャシー・ベイツは巧い」ということを忘れてしまっていたようだ。

本作は、そんなキャシーの女優としての凄さがよく出ている、実力キャシー勝ち映画の最高峰といえます。

 


④キャシー返し、キャシー七変化…。溢れ出るパワーワード

『黙秘』はよくある90年代サスペンスではなく、映像表現や説話技法などが驚くほど洒落ていて。

現代パートでの青味がかった色調は、この物語の季節が冬であることを表す映像季語として使われているだけでなく、今のキャシーの諦念や寂寥感、あるいは抗精神病薬に依存しているジェニファーの疲弊した人生を表象している。

また、現在パートから回想シーンへのトランジション(場面転換)がひとつのショットの中でシームレスにおこなわれたり、回想シーンの中に現在のキャラクターが登場したりなど、マジックリアリズムのような映像に心地よく幻惑される。

マジックリアリズムといえば、光学合成を使った空の見せ方もすごく幻想的で、50年代のテクニカラー(総天然色というやつです)を見ているよう。

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本作のキャシー・ベイツは不幸なおばさんを演じているので、残念ながらキャシー・スマイルに癒されることはないけど、減らず口に関してはどのキャシー映画よりも抜きんでているので、そういう意味ではしっかりとキャシー映画になっている。

警部「鑑識のためにあんたの髪がいるんだ」

キャシー「いいわよ。何本でもくれてやるわ。今週は美人コンテストには出ないから」

自虐なのか皮肉なのかよくわからないことを仏頂面で切り返す、このキャシー返し。最高!

 

現在パートと回想パートとでは本当に20年の歳月を感じるほど、キャシー・ベイツが老けたり若くなったりするというキャシー七変化も大いなる見所だ。

もちろんメイクと照明が裨益するところも大きいが、注意深く観ると表情の明るさ・暗さとか、身振りの大きい・小さいとか、さらに言えば声のトーンや瞬きの回数などに微妙な変化をつけることで、過去キャシー今キャシーを繊細に演じ分けていて。

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左:過去キャシー、右:今キャシー。

 

ハイ、今日だけで5つのキャシーワードが新規登録されましたね。おめでとうございます。ありがとうございます。ぜひ覚えて帰ってくださいね。

 

・キャシー・ポテンシャル

・キャシー返し

・キャシー七変化

・過去キャシー

・今キャシー


⑤ジェニファーとプラマーもまた良し。

そして脇を固めたジェニファー・ジェイソン・リークリストファー・プラマーも妙々たる光彩を放っている。

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役者紹介が遅れたが、キャシーの娘を演じたジェニファー・ジェイソン・リーヒッチャー(86年)『ルームメイト』(92年)マシニスト(04年)など、充分メジャーではあるけどあまり映画を観ない層にも伝わるほどの超有名な代表作はひとつも存在しないことでお馴染みの女優だ。

タランティーノヘイトフル・エイト(15年)で、カート・ラッセルに護送されてボッコボコに殴られてもゲラゲラ笑ってる女囚人を演じたあの人ですよ!

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キャシーを犯人と決めつける鬼警部を演じたクリストファー・プラマーは、50年代から活躍している大御所俳優である。

サウンド・オブ・ミュージック(65年)のトラップ大佐ですよ!

80歳の大台に乗った今なお、人生はビギナーズ(11年)で各賞の助演男優賞をゲットしたり、ドラゴン・タトゥーの女(11年)ゲティ家の身代金(17年)など、大物監督たちの話題作に多く起用されている。

ちなみに『サイレント・パートナー』(78年)という馬鹿サスペンスが実に最高なので、よかったら観てね(TSUTAYA発掘良品にしれっと置いてあります)。

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あ、言い忘れた。

キャシー・ベイツの独壇場ともいえる『黙秘』だが、やはりキャシーといえばあの映画…。

そう。もちろんミザリーオマージュにも満ちてるよ!

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 DV夫に斧を向けるキャシー。やってることほぼ『ミザリー』やないか。

 

オリエント急行殺人事件

 オールスター映画として物足りない。

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2017年。ケネス・ブラナー監督。ケネス・ブラナージョニー・デップミシェル・ファイファー

 

トルコ発フランス行きの寝台列車オリエント急行で、富豪ラチェットが刺殺された。教授、執事、伯爵、伯爵夫人、秘書、家庭教師、宣教師、未亡人、セールスマン、メイド、医者、公爵夫人という目的地以外は共通点のない乗客たちと車掌をあわせた13人が、殺人事件の容疑者となってしまう。そして、この列車に乗り合わせていた世界一の探偵エルキュール・ポアロは、列車内という動く密室で起こった事件の解決に挑む。(映画.com より)

 

どうもこんにちは。

エレファントカシマシの新譜をひねもす聴きまくっている私が、今日を闊達に生きています。ハロー人生。

一度エレカシについて徹底的に語ってみたいけど、映画ブログで映画以外の話をするのはちょっとしたルール違反みたいな雰囲気があるので、私はエレカシの話ができないわけです(まぁ、過去に一度思いきりルールを破ってるんだけどね)。

なまじ『シネマ一刀両断』なんてブログ名にしてしまったばかりに、このような自縄自縛、自家中毒、自分で作ったコンセプトが枷となる、コンセプトの裏切り…みたいな因果な状態に陥っているわけで、私は『シネマ一刀両断』なんてブログ名を思いついた2018年1月14日の自分を呪う。

こんなことになるなら『シネマを皮切りにいろんなものを一刀両断』みたいなブログ名にすればよかった。多ジャンルについて語れる土壌を確保すればよかった。

 

というわけで、エレカシの話がしたい…という気持ちを引きずったまま映画評に入っていきます。

今回俎上に載せたるはオリエント急行殺人事件

この映画にまったくノレなかった理由について推理してみます。

 

もくじ

 

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①誰もが結末を知ってる古典ミステリーを映画化する法。

否が応でもシドニー・ルメットが手掛けた74年版との比較論になってしまいます。

もともとアガサ・クリスティの原作小説オリエント急行の殺人』(34年)はあまりに有名すぎるため、シドニー・ルメットはこれを映画化する際に「でもなぁ…、原作から40年も経っている有名ミステリーを今さら映画にしたところで、大部分の観客は筋を知ってるしなぁ…」とウジウジ悩んだ結果、ひとつの結論に辿り着いた。

「お祭り映画にすりゃいんじゃね!」

まさにポアロのごときひらめき。

そんなわけでオリエント急行殺人事件(74年)空前絶後のオールスター映画として作られた。

アルバート・フィニー

アンソニー・パーキンス

ショーン・コネリー

ヴァネッサ・レッドグレイヴ

ローレン・バコール

イングリッド・バーグマン

ジャクリーン・ビセット

一言でいえば猛烈『荒野の七人』(60年)オーシャンズ11(01年)よりも遥かに豪華なメンツです。

この神算鬼謀の奇策によって、原作を知らない人はもちろん筋で楽しめるし、すでに原作を知ってて「ハイハイ、犯人は〇〇でしょ」と余裕ぶっこいてる奴は空前絶後の豪華キャストを見てひっくり返る…という盤石の二段構えで大ヒットを記録。今なおオールスター映画の代表格に挙げられる名作となった。

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シドニー・ルメットによる74年版。かったるいけど楽しい映画です。

 

これを踏まえて、最初の映画化からさらに40年が経った今回の現代版『オリエント急行殺人事件厳しく論じていきます。

 

②監督としてのケネス・ブラナーは凡才。

監督はケネス・ブラナーポアロ役として主演も兼任している。

ケネス・ブラナーといえば『から騒ぎ』(93年)ハムレット(96年)など、シェイクスピアの映画化とあらば真っ先に飛びついて監督・主演をせねば気が済まないシェイクスピア俳優として有名。

シェイクスピア以外にもマイティ・ソー(11年)『シンデレラ』(15年)といった近年の話題作も監督しているコテコテのイギリス人俳優だ。

ちなみに私は、俳優としてはともかく、監督としてはあまり評価していません。ごく普通のことをごく普通にしか撮れないごく普通の監督だと思っています。

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たとえば本作でも、ケネス・ブラナー演じるポアロエルサレムでの難事件を鮮やかに解決する…という導入部によって「ポアロが世界一の名探偵である」という大前提を観客と共有する掴みのシーンがあるのだが、推理もアクションもいまいちパッとしなくて特にポアロの凄味を感じないという…。

「大丈夫か、この映画。開幕早々に躓いてない…?」と不安になったよ、私は。

そのあと、トルコ発の列車に乗り込むシークエンスを使って各キャラクターを紹介していく…という流れは、74年版を律儀に踏襲。ここでも顔が撮れてないから登場人物が把握しづらい…とか言いたいことは色々あるけど、もういいよいいよ!

さて、ついにオリエント急行が発車すると、トルコからフランスまでを結ぶ旅路の景色が興覚めするぐらいゴリゴリのCGで。

でも、いいよいいよもう!

一応、車窓から見える景色は昔ながらのスクリーン・プロセス(背景合成)だしね。

 

密室劇は映画に適さない。

ただ、「いいよいいよ」では済まされないことが2つある。

ひとつはアップショット主体の是非

本作は列車という密閉空間が舞台のミステリーなので、その性質上、人物のアップショットが主体となる。狭い列車のセットで撮影されているので、カメラの機動力や自由度が大幅に奪われてしまうため、会話する人物の顔をただ大映しにする…という単純な画面構成に陥りやすいのだ。この時点でかなりツラい…。

もともと密室劇というのは映画に適さない。舞台劇を映画化した作品にひとつとして傑作など存在しないように。

とはいえ、列車を舞台にした映画でも、列車=横に長いという特性を活かした北国の帝王(73年)とか『スノーピアサー』(13年)のような傑作は存在する。カメラの可動域が極端に制限されているからこそ、列車=横長という特徴的な空間を活かした画面設計によって自由度の低さを逆手に取っているのだ。

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列車映画の二大傑作。

 

ところが本作はミステリーで、言わば会話劇がメイン。つまり人物Aと人物Bが会話している「アップショットの切り返し」が延々と繰り返されるのだ。

もちろん、画面は単調になる。

巧い監督であれば、構図を工夫したりカット割りに変化をつけたり…、それこそ74年版のようにイングリッド・バーグマンが訛りで喋り続けるさまをひたすら長回しで捉えた鬼気迫るロングテイクで観客を退屈させないように工夫するが、ケネス・ブラナーはただただ人物Aと人物Bの顔をお行儀よく交互に切り返しているだけで面白味に欠けることおびただしい。

しかもアップショットが主体の映画なのに、ペネロペ・クルスミシェル・ファイファーといった女優陣の顔(の撮り方)がとにかく汚い。

もともとケネス・ブラナーは女優が撮れない人とは言え、これはあまりに酷い…。特にペネロペ・クルス。いったい何をどうしたらペネロペをここまで不細工に撮れるのだと逆に感心してしまう。

 

そもそも論だけど、「密室劇のミステリーを映画化する」ということ自体が無理筋なのではないかしら。たぶん誰が撮っても傑作にはならないよ、これ。

したがって本作の単調さはケネス・ブラナー一人の責任ではない。誰が悪いとかではないオリエント急行殺人事件はそもそも映画に向かない題材なのだから。もともと小説という媒体によってしか輝き得ないように巧妙に作られた作品なのだ。

そういう意味では、奇しくもアガサ・クリスティが完全無欠の小説家であることを遡及的に証明してしまった作品と言えるかもしれない。

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 たまに外の空気を吸ってくれるのが救い。

 

④この映画に足りない俳優は〇〇だ!

そしてもうひとつ、「いいよいいよ」では済まされない案件がある。

オールスター映画として物足りないというキャスティングへの不満です。

そりゃあ、たしかに豪華だよ。

ケネス・ブラナーを筆頭に、ジョニー・デップミシェル・ファイファーペネロペ・クルスジュディ・デンチウィレム・デフォーなど…。

普通の映画なら「ありがとぉー! ありがとぉー!」と鼻息荒くして謝意を伝える…みたいな豪華キャストである。

でもさぁ…、あの『オリエント急行殺人事件』のリメイクでっせ?

「74年版なんざ軽く超えてやるよ」ぐらいの気迫があまり伝わってこなかったのが残念すぎて。

初めて本作のキャストを知ったとき、「え、ショボくない? いや、充分豪華だけど…オリエント急行殺人事件』のリメイクにしてはショボくない?と感じてしまったことをここに告白しておきます。

ケネス・ブラナーを含む製作側も74年版に倣って「オールスター」という点を大いに意識したキャスティングであることは間違いないし、おそらくは企画段階で交渉に失敗した大物俳優も何人かいて、いろーんな大人の事情が絡み合った結果このキャストに落ち着いた…という具合なのだろうが、それにしてもオリエント急行殺人事件』のリメイクにしてはあまりに中途半端な豪華さで。

それにミシェル・ファイファーウィレム・デフォーなど、俳優陣の見せ方が拍子抜けするほど薄味で、オールスター映画の醍醐味でもある食い合う感じが全然ないあたりもつまらない。

だいたい、なんでデイジー・リドリーがいるんだよスター・ウォーズ/フォースの覚醒』でヒロインに抜擢されたぽっと出の若手女優)

 

謎はすべて解けました。

この映画に足りないのはジュード・ロウです。

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大御所でいえばアンソニー・ホプキンス、中堅ではイーサン・ホーク、若手だとエディ・レッドメインがいても面白そうだけど、「誰か足りないなぁ…」と考えたときに、それはただ一人、ジュード・ロウなんですよ。

もう鑑賞中ずっと「なぜジュード・ロウを呼び損ねたのだろう」と、キャスティングディレクターのセンスのなさに辟易していたよ、私は!

もしも本作が74年版なんてぶっ飛ばすほどの豪快なオールスター映画だったら、ケネス・ブラナーの退屈な映画術など気にはならなかったでしょう。

あぁ、惜しいなぁ、悔しいなぁ…。

誰かジュード・ロウ呼んでこいよ!

 

ジョニー・デップ不在の存在感。

そんな中、かすかな救いともいえる美点は黒人俳優の起用

これは現代だからこそ実現した、古典ミステリーの傑作を現代風にアレンジすることの意味が感じられる素晴らしいキャスティングだ。

だいたいこの小説って、色んな国籍の乗客がいるのに有色人種が一人もいないんだよね(時代背景を考慮するとやむなし…なのだが)。その点では74年版よりもすばらしい、ウィー・アー・ザ・トレインだよ。

 

次に褒めたいのは、ジョニー・デップの存在。

というか、ジョニー・デップの使い方がまさに理想的。

私は、ティム・バートンのオモチャにされてバカ殿みたいに白塗りしているジョニー・デップや、某海賊映画でのジョニー・デップが嫌いだ。いわゆる道化路線というか。

昔はかなり聡明な性格俳優だったのに、チャーリーとチョコレート工場(05年)から行きすぎた個性派俳優になったことで、この人の根底にあるアーティスティックな感性や色気が却って損なわれているんじゃないか、と。

だからこそ、脱・道化計画 第一弾のブラック・スキャンダル(15年)では、ジョニー・デップの「本当はこういう映画が作りたい」という魂の叫びが炸裂していて、本当に素晴らしかった。進んでジョニデファンを突き放すロック精神というか。

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ブラック・スキャンダルで不細工なマフィアを演じたジョニデ。ファンに対して「嫌え! ドン引きしろ!」と言っているかのような自己破滅的な玉砕精神がベリークールであるよなぁ。

 

そして本作での役は、まさにブラック・スキャンダルの変奏。

オールキャストを銘打つオリエント急行殺人事件において、ジョニー・デップを容疑者ではなく被害者(悪役)に置いた…という見事な采配にはただただ感服するばかり(ブラック・スキャンダルの経験が活きたのでしょう)。

ちょうどこういうジョニー・デップが見たかった、という完璧なタイミングでのこの配役。イイ!

食堂車でケネス・ブラナーと向かい合って話す不穏なシーンは、間違いなく『ヒート』(95年)に着想を得てますね。素晴らしい緊張感だ。

登場シーンこそ少ないが、もしこの映画にジョニー・デップがいなければ本当に救いようのない出来になっていた…と言っても過言ではないほど、ジョニー・デップ不在の存在感が映画の全域を終始支配している。

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また、オリエント急行での事件を解決したポアロが、今度はエジプトに旅立つところで映画は終わる…という幕引きはなかなか洒落ている。

アガサファン、もしくは映画ファンならここで「あっ。このあと『ナイル殺人事件(78年)に続くのね!」といってニヤリとできる、ちょっとしたファンサービスになっていて。

時おりこういう茶目っ気が出ているから、どうも嫌いになりきれない作品だ。

憎みきれないろくでなし映画の急先鋒といえる。

 

フェリシーと夢のトウシューズ

 萌えと胸アツが詰まった疑似『ロッキー』映画!

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2016年。エリック・サマー、エリック・ワリン監督。アニメーション作品。

 

19世紀末のフランス。踊ることが大好きなフェリシーはバレリーナとしてパリ・オペラ座の舞台に立つことを夢見ていた。施設に暮らすフェリシーは親友のヴィクターに誘われ、施設を抜け出して憧れのパリを目指す。パリに到着し、ヴィクターとはぐれてしまったフェリシーがパリの街で偶然に見つけたのが憧れのミラノ座だった。バレエを習ったこともないフェリシーが、元バレリーナで今はオペラ座の掃除婦のオデットと出会い、情熱と勇気を胸に夢の舞台を目指す。(映画.com より)

 

久しぶりにCGアニメーションを観ました。

最後に観たCGアニメーション作品ってなんだろう。思い出せないな。よそにある私のレビューアーカイブを辿っていけば調べられるけど、そんな無意味なことはしないよ。

今まで黙ってたけど、私はCGアニメーションがまあまあ好きなんですよ。愛好家と呼べるほど観てるわけではないけど、その辺のガキになら勝てます。

 

「やい、ガキ。どっちがCGアニメーションについて詳しいか、お兄ちゃんと勝負しようぜ」

ガキ「え、なんなの急に。ていうか誰…」

「それではクイズを出題します。デン! Mr.インクレディブル(04年)レミーのおいしいレストラン』(07年)で知られるブラッド・バードの初監督作はなんでしょうか? また同氏が初めて手掛けた実写映画は何でしょうか?」

ガキ「わかんない…」

「ばーかばーかばーか!!」

 

…みたいな熱き戦いを繰り広げていきたいですよね(正解はアイアン・ジャイアントが初監督作で、ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコルが初実写監督作)

 

CGアニメーションといえば、長らくディズニーピクサードリームワークス三頭政治が続いていたが、2010年代からは『怪盗グルー』シリーズのイルミネーションエンター・テインメントが空前のミニオン・フィーバーを巻き起こしてイケイケドンドンである。

だけど私は、いちばん贔屓にしているピクサーが近年不調続きで、注目株のイルミネーションには怪盗グルーのミニオン大脱走(17年)で大いに失望させられ、ドリームワークスにはもともとあまり興味がないため「結局ディズニーかよ」と白けてしまい、近頃はすっかりCGアニメーションから遠ざかっておりました。

ちょっと前までのCGアニメーションがおもしろかったのは、天下のディズニーを引きずり下ろすためにピクサーやドリームワークスが旗を揚げてディズニー帝国に挑みかかったり、新勢力のイルミネーションが不意に現れてパワーバランスを覆したり…といった戦国感なんですよ。まさにCGアニメ戦国時代だ。

だけど今は、世の中的にも「やっぱりディズニーだよね」というところに着地しかかっていて、CGアニメシーンがいまいち盛り上がっていない。

そこで本作。

『フェリシーと夢のトウシューズは、CGアニメの焼野原の上を美しく舞い踊る!

トウシュ――――ズ!!

 

 もくじ

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アニメーションのノウハウを持たないまま作られた傑作。

もしダンサーの読者がいたら非常に申し訳ないが、私はダンスに対する理解がない。踊ることの意味がいまいちよく分からないのだ。したがってバレエを見て美しいと感じたこともない。

この先、一万回生まれ変わったとしてもダンサーにだけはならないだろう。

そんな私でも思わず「トウシュ――――ズ!!」と叫んでしまったのが『フェリシーと夢のトウシューズだ(もちろんこの映画に「トウシュ――――ズ!!」と叫ぶシーンなどない)。

 

まず、製作したのがどこぞのアニメ会社ではなくゴーモンだということに驚かされる。

おっそろしい名前だよな。ゴーモンて。仕事のできない社員は確実に拷問されてるだろうね。「良い映画を作るためなら社員を拷問することも厭わないですよ」という意味でゴーモンと名づけられたのだろう。

ゴーモンといえば『レオン』(94年)最強のふたり(11年)などを手掛けた、フランスにある世界最古の映画会社だ(1895年設立)

この話のポイントはゴーモンはアニメ会社ではないということだ。

おまけに、本作を手掛けた監督、プロデューサー、アニメーション・ディレクターたちも本来は実写映画に携わっており、製作者の中にアニメ畑の人間が一人として存在しないのだ。

つまり本作はアニメーションのノウハウを持たないまま作られた、ということになる。

にも関わらず、『フェリシーと夢のトウシューズは紛れもない傑作である。

どういうこと?

ゴーモンにアニメ部門なんて存在しないし、製作側もいわばアニメ素人。それなのに、なぜこれほどまでの傑作を生みだせたのか? ちょっとしたミステリーだよ!

 

②ドキドキ☆ワクワクのパリ旅行!

19世紀末のフランス。物語はブルターニュ地方の児童施設から脱走を企てようとする少年と少女が、鬼の形相で追いかけてくる事務員のオヤジを振り切って荷物列車に飛び乗るところから始まる。

少女の名前はフェリシー(声:エル・ファニング)で、オペラ座の舞台に立つことを夢見てパリ行きに憧れている踊りきちがいの孤児である。

そんなフェリシーと幼馴染みのヴィクター(声:デイン・デハーン)は偉大な発明家を志す少年だ。口臭がキツかったり所かまわず放屁をするなどしてフェリシーからは蔑まれている。エチケットをわきまえない汚らしいガキだ。

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踊りきちがいのフェリシーと放屁小僧のヴィクター。

 

都合がいいにも程があるが、二人が飛び乗った荷物列車はたまたまパリ行きだった。

夜が明けてパリに到着した二人は、セーヌ川に架かるイエナ橋の上で立ち往生する。ちなみに時代設定が19世紀末なので、イエナ橋から一望できるエッフェル塔はまだ建築中である。

「着いたはええけど、どないすんねん、こっから先…」と早速路頭に迷っていると、大量の鳩につつかれたヴィクターが橋から落下。はっ、まぬけな野郎だ。

運よく通りがかりの船の上に落ちたことで死は免れたが、船とともにセーヌ河の流れに運び去られてしまう。

「明日、同じ時間にここで会おう!」とわけのわからないことを言い残して…。

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 建築中のエッフェル塔。アニメとは言え…、否、アニメだからこそ不思議なノスタルジーに胸が締め付けられる、美しいシーンだ。

 

さて、ひとりぼっちになったフェリシーが半ベソかきながら夜のパリを彷徨していると、ひときわ強い輝きを放つ光を見つける。

都合がいいにも程があるが、たまたま目的地だったオペラ座に辿り着くのだ。

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そこで出会ったオペラ座の掃除係オデット(声:カーリー・レイ・ジェプセン)にしつこく付きまとったフェリシーは、「ダンサーになりたいからお姉さんのコネでどうにかして。ついでに寝るところがないから無料で泊めてね」とムチャクチャなことを要求する。

オデットはル・オー夫人という邪悪なババアの家で住み込みの家政婦として働いており、フェリシーもまたル・オー夫人邸の住み込みの掃除係として働くことになった。

ところが、ル・オー夫人の娘でバレエに打ち込んでいるカミーユと大喧嘩したフェリシーは、オペラ座から届いたカミーユ宛の招待状をル・オー夫人に渡さず、自分がカミーユになりすましてオペラ座に入学することを思いつく…。

 

③フェリシーは外道。

自分の夢を叶えるためにカミーユ宛の招待状を使ってオペラ座に入学する…という外道のようなフェリシーの振舞いは批判されるべきかもしれない。でも可愛いから許す。

とにかくフェリシーが尋常ではなく可愛いのだ。

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いわゆるアニメ的な記号表現には堕さず、中間色豊かに表情をつけていくことでフェリシーというキャラクターの内面までもが肉付けされていて、とってもチャーミングだ。

何よりバレエを扱った作品だけに細緻を極めた身体表現がすばらしい。バレエシーンだけでなく、たとえば日常のちょっとした所作ひとつ取っても、各キャラクターによって動き方が違うのだ。

ことにフェリシーに関しては、一挙手一投足の中に「萌え」がある。動きが可愛いこと。それこそが萌えの入り口だ。

なんというか…、「フェリシー萌え」という新たなる地平?

そういうのが見えてくると思います。ええ。

 

飛ぶ、回る、走る…といった身体表現は気持ちよくデフォルメされており、それによってバレエの芸術性をエンターテイメントに置き換えて「べつにバレエに精通してなくても楽しめますよ!」という間口の広さを確保しているあたりも親切だ。

とあるレビュアーは慣性の法則を無視していてリアリティがない。こんな動きができるわけない」なぜか物理学の観点から批評を加えている

ええ、ええ。ご尤も。リアリティがないですね。こんな動きができるわけないですね。

だからこそのアニメなんですよ?

「ない」を見せてくれるのがアニメの醍醐味だというのに。やれやれ…。

 

④至る所に『ロッキー』の命脈が!

また、この作品にはありとあらゆる成長物語の要素が詰め込まれている。

たとえばバレエ未経験のフェリシーが、元バレエダンサーのオデットに教えを乞うて修行に励むシーケンスではベスト・キッド(84年)『セッション』(14年)なんかを彷彿したり。

その修行シーンというのも「足元に水溜りを作り、木の枝につけた鈴を垂直にジャンプして手で鳴らしたあと、水溜りが跳ねないように着地する」など、バレエならではの特訓が視覚的なおもしろさを作り上げているのね。

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そしてカミーユとのライバル関係。

招待状なりすまし作戦が露呈したうえに、カミーユとのバレエ対決の前日にイケメンダンサーと遊びほうけたことで戦いに敗れたフェリシーは、一度ブルターニュの児童施設に強制送還されてしまうが、再びオペラ座に舞い戻ってカミーユにリベンジマッチを申し込む。

ロッキー3(82年)だよ!

チャンピオンベルトを手にしたことで自堕落な天狗になったロッキーがハングリー精神剥き出しのクラバーに惨敗を喫してしまうが再び闘争心を取り戻してクラバーにリベンジマッチを申し込む…ことでお馴染みのロッキー3だよ!

 

そして、オー夫人のスパルタのもと最新器具でトレーニングするカミーユと、オデットが発案した掃除の動きを活用したトレーニングメニューをこなすフェリシーの対比。

『ロッキー4/炎の友情』(85年)だよ!

大自然の中で丸太を担いでトレーニングするロッキーと科学の粋を集めた最新技術を駆使してトレーニングするドラゴを「自然vs科学」という対比でカットバックする名シーン…でお馴染みの『ロッキー4/炎の友情』だよ!

もう激アツ!!

 

この二人が、誰もいない大ホールの舞台で技を見せつけ合って喧嘩という名のバレエ・バトルをするのだが、やおら舞台から降りて客席のシートの上をピョンピョン飛びながら人が行き交う大広間に出て、大階段から飛び降りる!

まさにアニメーションならではの映像快楽だ。

舞台→客席→広間→階段…と、勝負がヒートアップするに従い、四段階に渡って徐々に空間を広げていくことで観る者を加速度的に興奮させているわけだ。

これは巧い。そしてアツい!

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⑤個性的な脇役ども。

イエナ橋ではぐれたヴィクターも忘れてはならない。秘かにフェリシーに片想いしながらも、発明家としての我が道を突き進むナイスキッズだ。

「汚らしいガキ」とか「まぬけな野郎」とか言ってすみませんでした。

ヴィクターが発明した鳩ウイングはクライマックスでしっかり活かされるし、フェリシーをたぶらかすイケメンダンサーと恋の鞘当てを演じる姿も愛らしい。

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完全にアベンジャーズのファルコンです。このクソガキ! マーベルをパクったな!?

 

そしてオデットとフェリシーを苛め抜くル・オー夫人のトチ狂いっぷりが最高。

フェリシーが娘のカミーユを下して主役を勝ち取ったことで妬み嫉みの化身となったル・オー夫人は、大型ハンマーを振り回してフェリシーを叩き殺そうとするのだ。

このババア!

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ル・オー夫人とカミーユの親子。

 

フェリシーをプリマへと導いた師匠・オデットのキャラクターもよかった。

無感情で子供嫌いのオデットは、まさに俺。

始めのうちはハグしてきたフェリシーに「アすみませんやめてください本当マジで気持ち悪いんで…」と拒絶しまくっていたが、修行を通じて少しずつフェリシーを実の娘のように想いはじめ、あの忌わしい強制送還事件を経てオペラ座に復帰したフェリシーと二度目のハグ!

一度目の「アすみませんやめてください」のハグがあったからこそ、二度目のハグには胸を打たれる。このさり気ない反復技法が実に憎い。

美しき師弟関係とはまさにこのこと。

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「拭き掃除は足を使いなさい」。オデットが子供虐待をする風景。

 

⑥欠点を補って余りあるほどの萌えと胸アツ!

ダメ出ししているレビュアーもお見受けするが、まぁ確かに89分の作品なので安直な作劇や都合のいい設定だらけですよ。はっきり言って。

フェリシーのバレエが上達することにロジックがなく「もともと天才でした」っていう才能ありきの話だし、やたらと大事にしている「形見のオルゴール」もまったく活かされないので小道具として機能していない。

 

だいたい、バレエのバの字も知らないようなフェリシーが、あれよあれよという間に熟練した生徒たちを追い抜いて主役の座を射止める…とかさ。さすがに「はぁ?」だよ。それ、ずっと地道に努力してきたほかの生徒たちに対して失礼な展開じゃない?

何年も厳しい練習に耐えて本気でバレエと向き合っている人たちにしたら「バレエ、ナメんな」ってことになるよね。

主役の座を射止めるからには、そこに至るまでにフェリシーが味わった苦労や挫折といったバレエの厳しさをもっと見せるべきでしょう(『カーズ』のようにな!)。

 

また、フェリシーのキャラクター造形が弱いあたりも大きなネックで。

そもそもフェリシーはダンスが好きなのであって、バレエに固執しているわけではない。「バレエだろうが何だろうが、踊れりゃいい。とにかく私を躍らせろ!」っていうスタンスの娘なの。

実際、居酒屋に潜り込んだフェリシーは、テーブルの上でハンガリアン・ダンスとか踊ってんだよ。

だから、フェリシーのバレエに対する愛がなかなか伝わってこない。「ダンスとバレエを混同してないか、おまえ?」っていうさ。だとしたら、本気でバレエと向き合っている人たちに対して余計に失礼だよね。

 

あと、これまた某レビュアーがバレリーナなのに、落ちたら怪我しそうな高いところで踊ろうとするのが理解できません」と仰っていたが、笑ってしまうほどごもっとも。

オペラ座の大階段からアイキャンフライも十分危険なのに(大事な公演会の日だというのに足でも挫いたらどうするんだ?)、しょっちゅう高い屋根の上で踊ってんですよ、この娘。

足滑らせたら死ぬからね。

「挫く」とかじゃなくて「死ぬ」からね。

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命懸けの大ジャンプ。

 

事程左様に全身弱点だらけの底抜けバケツみたいな出来ではあるが、それを補って余りあるほどの「萌え」と「胸アツ」が詰まった作品なので、私はなんやかんやで擁護する所存だ。

返す返すも、製作側がアニメーションのノウハウを持っていないにも関わらず、これほど心を動かす作品に仕上げたことが驚きなのですよ。

あと、何度でも言うが、フェリシーが可愛い。前髪の分け目がいい。

ちなみに吹替えでフェリシーの声を務めているのは土屋太鳳…という情報をつけ加えておく。

どうでもよ~。

映画男優十選

4月末に『古典女優十選』『現代女優十選』をやったきり、人々から、そして筆者自身からもすっかり忘れ去られた『映画男優十選』。なんと可哀想な『映画男優十選』

だが、映画男優たちがないがしろにされるのは仕方のないことなのだ。

これは私が男だから言うわけではなく、映画とは本来女優ありきである。

その理由を説明すると例によって長くなるので別の機会に譲るが、とにかく映画の世界においては男優よりも女優の方が遥かに優位で神聖なものだ(フェミニズムとか関係なく)。

だが、あえて今宵、野郎どもの宴を始めようと思う。『映画男優十選』の開幕だっ。

『古典女優十選』『現代女優十選』ではなるべく客観的な評価も加味してランキングを作ったつもりだが、今回はもう完全なる趣味です。

 

※うら若き女性読者の方にあらかじめ断っておくと、いわゆるイケメン俳優は一人もランクインしてません。苦しめ!

 

 

第10位 ケヴィン・ベーコン
1958年生まれ、アメリカ出身。

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骸骨が好きなので骸骨に似ているケヴィン・ベーコンは文句なしに第10位と、こうなるわけだ。また、私の好物はアスパラベーコンだが、ケヴィンを巻いたベーコンも大好きだ。

ケヴィン・ベーコンといえば90年代アメリカ映画を観てきた人にとっては馴染みのベーコンである。

ブレークのきっかけになった青春ベーコン・ミュージカルフットルース』(84年)を皮切りに、JFK(91年)『告発』(95年)アポロ13(95年)など数々のハリウッド・メジャー大作で大活躍したスターだが、ベーコンの旨味はそこではない。

ケヴィン・ベーコンの精髄はワイルドシングス(98年)『インビジブル』(00年)のようなB級スケベ映画で発揮する怪しい役だ。通称スケベーコン。

ちなみに両方の映画でフリチン姿を披露している。

個人的には、殺人犯のベーコンが善良なメリル・ストリープ一家とボートで川下りする『激流』(94年)を推したい。

 

そして、この世にはベーコン指数を計るケヴィン・ベーコン・ゲーム」なるものが存在することを、おまえたちはご存じでしょうか。

 「ケヴィン・ベーコン・ゲーム」とは、ケヴィン・ベーコンと共演した俳優を「1」、その俳優と共演した俳優を「2」とした場合、ほとんどの俳優が「3」以内におさまるという謎の現象である。

海外の俳優だけでなく、日本の俳優も間接的にケヴィン・ベーコンと繋がっている。

たとえば木村拓哉は、アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン(08年)イライアス・コティーズと共演しており、そのイライアス・コティーズ『ノボケイン/局部麻酔の罠』(01年)でベーコンと共演しているので「2」。

ほかにも、ベーコンとの共演関係を辿っていくと、3手以内には蛭子能収ジャイアント馬場にまで行き着くのである。

事程左様に、映画界の中心にはケヴィン・ベーコンがいるのだ!

映画の中心でベーコンを叫ぶ。

 


第9位 マイケル・ケイン
1933年生まれ、イギリス出身。

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氷のように冷たい青眼を持つ、絵に描いたような英国紳士。

やはりマイケル・ケインといえば神をも謀殺しそうな知性を讃える冷酷な眼だ。チェスとかむちゃむちゃ強そう。

ビルの縁にしがみついて落ちそうになっている人の手を平気で踏んづけるような冷血漢をイメージしがちだが、実際の彼はウィットに富んだユーモアの持ち主で、お人好しの好々爺から救いようのない助平まで幅広い役を演じている。

 

来たオファーをすべて引き受ける主義なので、フィルモグラフィは膨大を極める。

代表作はアルフィー(66年)『探偵スルース』(72年)鷲は舞いおりた(76年)殺しのドレス(80年)『デストラップ・死の罠』(82年)『ウォルター少年と、夏の休日』(03年)などなど…、枚挙に暇がナイケル・ケイン

すまん、コレが言いたかっただけだ。

80歳を超えた現在でもグランド・イリュージョン(13年)キングスマン(14年)など話題の大作に出続けている。どこからくるんだ、そのバイタリティ。

クリストファー・ノーランの常連俳優としても知られ、バットマン三部作やインセプション(10年)などノーラン作品に6回も出演しているので、若い映画ファンの間でもよく知られている名優。

 

 

第8位 ロバート・デュバル
1931年生まれ、アメリカ出身。

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「さっきからジジイばっかりじゃねえか」と怒らないでほしい。

ロバート・デュバルは半世紀以上に渡ってハリウッドを支える空前絶後のバイプレーヤー(脇役俳優)だ。

主演以上の存在感を醸し、滋味深い名言を残す。どんなポンコツ映画でもデュバルが出ているだけでプラス20点が約束されるという陰の得点王である。

 

デュバルといえば、ゴッドファーザー(72年)のファミリー専属弁護士トム・ヘイゲン役や、地獄の黙示録(79年)のキルゴア中佐役が有名。デビュー作は人種問題の教科書とも評されたアラバマ物語(62年)

フェノミナン』(96年)ディープ・インパクト(98年)ジョンQ -最後の決断-』(02年)など、90年代~ゼロ年代中期まではロバート・デュバルを脇に据えとけば間違いない」というデュバル依存の風潮があった。

ちなみに『ウォルター少年と、夏の休日』(03年)では、マイケル・ケインとダブル主演を飾っているので私しか得しない映画。

 


第7位 ウィレム・デフォー
1955年生まれ、アメリカ出身。

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デフォー説法『ハンター』(11年)評で既にやったが、怠惰な人類のために今一度言っておく。

「そんなわけがない」と思うだろうが、すべての人間はデフォーの映画を観るために生まれてきた。

そして映画もまたデフォーを映すために発明されたものだ。

異論はあるだろうが、事実は事実だから仕方がない。

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マリリン・モンローになりきるデフォー。すばらしい、完全に見分けがつかない。

 

また、人が死んだあとに天国に行くか地獄に行くかもデフォーが決める。神とか閻魔なんてセコい野郎には何の決定権もない。奴らはデフォーのパシリに過ぎない。

だから当然、明日の天気もデフォーが決める。

世界の株価も、人類の出生率も、小堺一機がやっているごきげんようのサイコロの目も、すべてデフォーが決めることだ。

この世に存在する偶然も必然も、すべてデフォーの手中にある。

いまさら言うまでもないが、異星人が侵略してこないのは地球にデフォーがいるからだ。

世界はおろか、宇宙すらデフォーの従順なしもべなのだ。

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女装するデフォー。どこからどう見てもイイ女だ。

 

すでに全人類が全作品を7000回以上観返しているだろうからわざわざ代表作を挙げるのもアホらしいが、一応挙げておく。

戦場で置いていかれ映画プラトーン(86年)は言うに及ばず、デフォーがKKKの猛烈な黒人差別にドン引きするミシシッピー・バーニング(88年)ヒルが好きすぎるあまりヒル風呂に浸かって自分の血を吸わせるヒル映画スピード2(97年)、事件現場で音楽ばっかり聴いてる『処刑人』(99年)、トチ狂った妻に性器をブッ潰されるアンチクライスト(09年)、そしてもちろん風呂映画の金字塔『ハンター』だ!

中でも『ハンター』だけは観なければならない。これを観ずして風呂には浸かれまい。わかるか。

風呂に浸かる以上は『ハンター』を観ることだ。

まぁ、私は年中シャワー派なのだが。

デフォーと風呂がコラボした奇跡の傑作『ハンター』

 

これ観て今すぐ風呂沸かせ!

 


第6位 クリストファー・ウォーケン
1943年生まれ、アメリカ出身。

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一言でいえば怪人系

ウド・キアウィレム・デフォースティーヴ・ブシェミらを含む「奇怪な顔面の会」の会長を務めている。

いつも生気がなく、動く死人のごとき亡霊的な冷たさでスクリーンを凍てつかせる。真夜中に枕元に立ってたら「お迎え来たなー」と思うレベルの死神俳優。

ウォーケンといえばディア・ハンター(78年)だ。ベトナム戦争で気がおかしくなり、ロシアンルーレットに取り憑かれた狂気の男を演じてアカデミー助演男優賞をぶんどった。

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若いころは奇妙な美しさがあったよね。

 

そのほかにも天国の門(80年)デッドゾーン(83年)キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン(02年)『ミッドナイト・ガイズ』(12年)などを代表作に持つが、基本的に出演作にはあまり恵まれない。

だが映画の出来がどうであれ、あの奇妙な蝋人形フェイスを見ているだけで、人は日々の苦しみや悲しみから解き放たれ、恍惚のウォーケン・ワールドへといざなわれるのだ。 

 

 

第5位 松田優作
1949年生まれ、ジャポン出身。

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40歳で没した、伝説のなんじゃこりゃ俳優といえる。

ちなみに北斗の拳ケンシロウのモデル(厳密にはケンシロウのモデルは4人いる。松田優作ブルース・リー『マッドマックス』メル・ギブソンと『コブラ』のシルベスター・スタローンだ。モデル多過ぎ!)

 

男臭い劇画顔だが、鈴木清順陽炎座(81年)を観て、その特異なプロポーションに度肝を抜いた。異常に手足が細長いのだ。エヴァンゲリオンかと思った。

優作を見ていると、容姿端麗の俳優がいかに無価値であるかを思い知る。それほどまでにイビツで異物な役者が優作なのだ。

この世には美人や男前など掃いて捨てるほどいる。表面的な「美」など駅のホームに転がっているコーヒーの空き缶みたいなもんだ。早い話がゴミだ。

だが優作のような男は二人といない。替えが利かない人間だけが役者になるべきだと思う。

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優作の恐ろしさは、彼が不気味な家庭教師を演じた家族ゲーム(83年)に顕著だろう。教え子(男の子)の頬にいきなりチューをしたかと思えばビンタをかまし、その子の両親から夕食に呼ばれると、なぜか父親にマヨネーズにかけたり食卓をひっくり返して大暴れする。動機は不明。

ちなみに野獣死すべし(80年)では役作りのために奥歯を4本ぶっこ抜いた。

マイケル・ダグラスアンディ・ガルシアと共演したハリウッドデビュー作ブラック・レイン(89年)では狂気的なヤクザを演じたことがアメリカ本国でもたいへんな話題になりロバート・デ・ニーロとの共演予定まであったが、同年、優作は死んでしまった。

また、薬師丸ひろ子と共演した映画探偵物語(83年)と、ソフト帽とサングラスでスクーターを乗り回すテレビドラマ探偵物語(79年)が同じタイトルなのでクソややこしい。

40歳で死んだ優作…。

彼がやり残したことは、松田さん家の龍平くん翔太くんへと受け継がれている。

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龍平くん(兄・画像右)と翔太くん(弟・画像左)。

 


第4位 ウィリアム・ホールデン
1918年~1981年、アメリカ出身。

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ハンフリー・ボガートとかケーリー・グラントとか好きな古典男優は大勢いるけど、あえてクラシック枠をひとつに絞るならウィリアム・ホールデンと、こうなるわけだ。

「1950年代を通じて興行的に最も信頼できるスター」と言われている、ハリウッド黄金期の4番バッターだ。

『サンセット大通り』(50年)は言うに及ばず、『第十七捕虜収容所』(53年)麗しのサブリナ(54年)など、巨匠ビリー・ワイルダーの作品に高確率で出没することでも有名。

熟年期のワイルドバンチ(69年)や、晩年期のタワーリング・インフェルノ(74年)も忘れてはならないよ。

 

ウィリアム・ホールデンの卓抜した能力は、二枚目から三枚目まで、そしてフィルム・ノワールからコメディまでと、どんな映画にも過不足なくおさまる、その適応力の高さにあると言えます。

まぁ、現代では当たり前の感覚だし、「俳優なんだからいろんな役を演じ分けるのは当然でしょ」と思うだろうが、古典映画にはスターシステムというのがあってだな…。ニヒルな二枚目はどの映画でもニヒルな二枚目を演じなければならなかったのだ(ププッピドゥなマリリン・モンローは、大体どの映画でもププッピドゥなマリリン・モンローだったように)。

そんな当時の状況において、ウィリアム・ホールデンの適応力はかなり稀有な特性だったと言えるのではないか。絶対言える。

その秘密は、顔にライトを当てると善人に、影を落とすと悪人に見えるという特殊な顔の造形にある。

知的にも見えるしバカにも見えるという印象の無さは、個性を重視したがる70年代以降の映画界からは消え去ってしまったレガシーだ。

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 麗しのサブリナにてオードリーと。

 

 

第3位 シルベスター・スタローン
1946年生まれ、アメリカ出身。

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「あなたは犬派? それとも猫派?」というくだらない質問があるように、筋肉映画シーンでも「スタローン派か? シュワちゃんか?」という時代があった。この二人は永遠のライバルだ。

金持ちのボンボンとして何不自由なく育ったシュワちゃんがセレブ猫なら、生まれながらに顔面麻痺&言語障害のハンデを抱えてスラム街での極貧時代を生き抜いたスタローンは野良犬だ。

だからこそ、負け犬のワンスアゲインを描いた『ロッキー』(76年)はしたたか胸を打つのだ!

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盟友アポロと海で戯れるロッキー。

ロッキー「腕を広げて飛行機ごっこをしようよ!」

アポロ「こんな感じ? キーン、キンキンキーン!」

楽しそうで何よりだ。

 

今思えばニヒルでひねくれた自我が形成される前に、テレビの洋画劇場で80~90年代のアメリカ映画を浴びるほど観ていてよかったと心から思う。

この頃のアメリカ映画というのは、ある年齢を超えるとめっきり観なくなってしまうのだ。世界には想像を絶する映画が数多く存在することを知ってしまうと、とてもじゃないがこの頃のアメリカ映画など馬鹿馬鹿しくて観てられない。

だから、物心がつく前にスタローンやジャッキー・チェンを観てこなかった人は恐らく一生観ることはないだろうし、仮に大人になってから観たとしても興奮の純度は大きく損なわれるだろう。

ましてや、物心がついたころの私は文化・芸術・哲学をこよなく愛するハイパーインドア人間としての人生を歩むことになったので、人の首をボキボキ折って回る映画とか銃を乱射しながら単身敵地に乗り込んで筋肉だけでどうにかする類の映画からは最もかけ離れたタイプだ。

だからこそ、物心がつく前にスタローンに出会えてよかった。

私の視野を広げてくれたスタローンに第3位という名誉を贈ります(上から目線でごめんなさいね)

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北斗の拳ケンシロウもファッションを真似たコブラ』(86年)

 

もう少し語っちゃうよ。スタローンはただの筋肉スターではない。筋肉監督でもあるのだ!

ここで『ロッキー』ファンにクイズです。

『ロッキー』シリーズのうち、スタローンが監督した作品はどれでしょう?

チクタクチクタ、キムタクキムタク…。

ハイ時間切れ。ハイ死亡。

正解はロッキー2(79年)ロッキー3(82年)『ロッキー4/炎の友情』(86年)ロッキー・ザ・ファイナル(06年)でした♪

って、ほとんどやないけ。

1作目と5作目だけはベスト・キッド(84年)で知られるジョン・G・アヴィルドセンというおっさんが撮っているが、ほかは全てスタローンが監督・主演を兼任しているのだ。

そう言われても、パッと見、見分けがつかないでしょう?

ロバート・デ・ニーロケビン・コスナージョージ・クルーニーなど、監督業もこなすハリウッドスターは大勢いるが、えてして彼らの撮った作品を予備知識なしで私が観た場合、「あ、プロじゃないな。これを撮った人は、たぶん本職は俳優か脚本家だろう」ということぐらいは大体わかる。

だがスタローンだけは分からない。

プロのアヴィルドセンが撮った作品と見分けがつかないのだ。

『エクスペンダブルズ』シリーズも然り。たとえばスタローンをほぼ知らない自称映画通に『エクスペンダブルズ』全3作品を一気に見せて「この中に1本だけ俳優(スタローン)が撮った映画があります。それはどれでしょう?」というクイズを出しても「いや、全然わからない…」と降参するか、3分の1に懸けて当てずっぽうで答えるのが関の山だろう。

つまりスタローンはハリウッドで活躍する職業監督と比べてもまったく遜色のない手腕を持っている。

スタローンが手掛けたランボー/最後の戦場』(08年)なんて筋肉映画を超えた傑作だよ!

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ちなみに、スタローンといえばロッキーランボー

時代のアイコンにまでなったキャラクターを2つ持っているのは、この世でスタローンとハリソン・フォードだけだ(ハリソン・フォードハン・ソロインディアナジョーンズ)。

 


第2位 ポール・ニューマン

1925年生まれ、アメリカ出身。

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私はポール・ニューマンが大好きだ。

ポール・ニューマンが好きすぎて、美大時代には明日に向って撃て!』(69年)の映画コラムを書いたこともある(教授どもからは不評だった)。

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60年代から70年代にかけては「ポール・ニューマンスティーブ・マックイーンか?」という時代があった。この二人は永遠のライバルだ。北斗の拳で言ったらトキとラオウだよ。

ポール・ニューマンは繊細な文系だから女性ファンが多く、マックイーンは男臭い体育会系だから男性ファンが多い(そういう意味でもトキとラオウの喩えはなかなか良い線いってると思う)

私は完全にトキ派。つまりポール派の人間だ。

ちなみにこの二人は大の車好きとしても有名。

ピクサーアニメ『カーズ』(06年)の主人公ライトニング・マックィーンの名前はスティーブ・マックイーンに由来しているし(マックイーン自身もレーサーだった)、ドック・ハドソン役にはポール・ニューマンが声を当てている(ポール自身もレーサーだった)。

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左:ポール・ニューマン

右:スティーブ・マックイーン

 

…そんな話はどうでもいいんだよ!

ポール・ニューマンといえば数々の傑作・名作を残してきた大スターだ。

ビリヤードブームの先駆けでもあるハスラー(61年)、ゆで卵ブームの火付け役『暴力脱獄』(67年)、ニューシネマブームの嚆矢明日に向って撃て!』、どんでん返しブームの急先鋒『スティング』(71年)…。

そしてマックイーンとダブル主演を果たした消防士ブームの草分けタワーリング・インフェルノ(74年)

その後も、アイスホッケーブームの生みの親『スラップ・ショット』(77年)や、裁判ブームの始祖『評決』(82年)など、とにかくめったやたらにブームを先取りする男である。

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明日に向って撃て!』。画像左はロバート・レッドフォード

 

ポール・ニューマンには不思議な魅力がある。

二枚目でもなければ三枚目でもない。そもそも「格好良い」とか「格好悪い」みたいな二元論では括れない俳優なのだ。

知的に振る舞っていたかと思うと急に子供っぽくなったり、毅然としていたかと思うとヘラヘラし出したり、寡黙になったり饒舌になったり…。

ひとつの役の中でミラーボールのように表情を変えて人間の多面性を表現していく。
したがって、誰かの性格や人柄を規定するための「優しい」とか「神経質な」みたいな形容詞が、ポール・ニューマンの前ではかくも鮮やかに無効化されてしまうのだ。

 

大なり小なり、人は誰しもロールプレイング(役割演技)の中で生きている。

「今はかなり落ち込んでて冗談を言う気分にはなれないけど、周囲からはいつも明るい剽軽者と思われているから頑張って普段通りにおどけよう。イェイ」つって場を盛り上げたり、「私は天然キャラと思われてるから、本当は一般教養ぐらいあるけどわざと頓珍漢な返事をしてみようかしら」なんつって、半ば無意識裡に己の役割(俗にいうキャラ)を演じようとして、そして勝手に疲れている。ご苦労さん。

私に言わせればただのアホだ。

ポールに言わせてもただのアホだと思う。

勝手に役割を課せられた気になって、勝手にその役割の中に自分を押し込んで息苦しくなって「これは本当の自分じゃない!」とか言って現代社会のせいにしたりする。

アホか。

「社会や人間関係において、自分には○○という役割がある…」

それ自体が思い上がりである。

役なんてねえよ。役すら与えられてねえよ、俺たちには。

「必死で役を演じなきゃ」とか言ってるけど、オレもオマエもただのエキストラだよ!

人生という名の映画においてな!

だから「演じる」とか大層なことを言うんじゃない。

私の中には色々な私がいるし、オマエの中にも色々なオマエがいると思います。人情味のある私もいれば、薄情な私もいる。素直なオマエがいれば、頑固なオマエもいるだろう。それを「誠実ですね」とか「礼儀正しい人ですね」みたいなひとつの形容詞でひっくるめようなんざ土台無理な話だ。

私自身、ひとつの文章の中で一人称がコロコロ変わるのだ。私、俺、僕、おいら、小生、吾輩、拙者、ミー、しまいにはとか。

誰かの性格や人柄を規定するための形容詞を無効化していくポール・ニューマンのように、自分の中には色んな自分がいるんだから勿体ぶらずに出していけって話だよ。

たったひとつの形容詞ごときに規定されてたまるか。人間なめんな。一色じゃねえぞ、こら。

 

お酒に酔った勢いでだいぶ脱線してしまった。「オマエ」とか言ってごめんなさい。

何が言いたいかというと、ポール・ニューマン48色の色鉛筆なので、その多色感を見習っていろんな色を出していきたいなーっていうお話でした。

人間、一色じゃねえぞコラ!

 

 

第1位 アル・パチーノ

1940年生まれ、アメリカ出身。

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第1位に輝いたのはアル・パチーノさんでした!

どうも、おめパチーノ。

私は堂々とアル・パチーノを贔屓するし、暇さえあればアル・パチーノのインタビュー本を読んでもいる。ロバート・デ・ニーロ派との宗教紛争も日々絶えない。

そして、アル・パチーノのすべての出演作にアルパチ補正をかける所存だ。

アルパチ補正…別名「ミラクル・アルパチ・アイ」とも言う。作品の出来に問わず、スクリーンの中にアル・パチーノがいてアル・パチーノがアルパチアルパチしている限りにおいてその作品は無条件で最高であるとする危険な鑑賞法のこと。

 

ゴッドファーザー(71年)スケアクロウ(73年)狼たちの午後(75年)スカーフェイス(83年)『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』(92年)『ヒート』(95年)…。

多分だけど、アルパチがいなければ映画好きになんてならなかった。

私が映画を観続けている理由は、いま挙げたアルパチの代表作を超えうる映画に出会いたいから…かもしれない。きっとアルパチ自身も「超えられるもんなら超えてみろよ」という心算で映画界を見守っているのだろう。

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ゴッドファーザーのアルパチは絵画のように美しかった。

 

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コッポラ監督を中心にゴッドファーザーの主要キャストが約40年ぶりに集結! 死んでしまった仲間も大勢いるが…。

 

一昔前の映画ファンの間で「ポール・ニューマンスティーブ・マックイーンか?」という二者択一があったように、現代では「ロバート・デ・ニーロアル・パチーノか?」という二者択一がある。この二人は永遠のライバルだ。

ロックで言ったらビートルズローリング・ストーンズだよ。

エリートタイプのデ・ニーロがビートルズなら、泥臭い不良タイプのアルパチはローリング・ストーンズだ。

たしかにアルパチはデ・ニーロに比べて出演作にムラがあるし、万人に愛されるタイプではない。受賞歴や代表作の数でも見劣りする。

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 もちろん右がロバート・デ・ニーロ。ていうかこの画像、クソ格好いいな。

 

だがな!

 

アル・パチーノには「何が何でも生き抜いてやるぞー。ヘイヘイホー!」みたいなゴキブリのごとき生への執着がある。それがあまりに凄まじくて、どの映画を観ても圧倒されてしまうのだ。

厭世主義の私は「基本的にすべての人間はさもしいブタである」と思っているので、生に執着する人…、たとえば長生きしようと健康に気を遣ったり、非常事態に他人を押しのけて自分だけ助かろうとする人に対して「浅ましいなー。往生際が悪いなー」と思ってしまう。そこまでして生きたいかなぁ? って。

でもアルパチは「何が何でも生き抜いてやるぞー」というスローガンを掲げて、小柄ながらも画面の中を縦横無尽に暴れ回り、恐るべき生命力を発散するのだ。

ほとばしる命の血潮。乱れ舞う野心の火花!

ギョロ目を滑らせながら夜の世界を漫ろ歩くアルパチは、まさにひとり不夜城といっていい。

ひとり不夜城がどういうことなのかは俺にはわからんが。

アルパチは私に対して、たとえブザマでも生に執着することを教えてくれた。私はアルパチと出会って、恥や遠慮を捨てたのだ。

The World is Yours(世界はあなたのもの)だよスカーフェイスより)。

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スカーフェイス伝説のラストシーン。自宅の豪邸で射殺されたアルパチの後ろにThe World is Yours」と書かれたオブジェが強烈な皮肉になっている。

 

アルパチとジョン・カザール演じるゲイカップルが銀行強盗を企てる狼たちの午後はこの世で2番目に好きな映画だ。

初めて観たのは中学生の頃だと思う。それまでは浮世の多くの民と同じく「秀逸なストーリー」と「感動」が用意された映画が良い映画の条件だと信じて疑わなかったが、そういう見方がこの上なく狭くて一面的な認識に過ぎないことをこの作品は教えてくれた。

ライフルを忍ばせた長方形の箱を抱えて銀行に入っていったアルパチが、やおら箱からライフルを取り出して銀行員に銃口を向ける。その間わずか1.5秒

このたかだか1.5秒のショットに、私の映画観は根底から覆された。

ハンマーで脳天をブン殴られたような衝撃だった。

そのとき私は、映画という未知なる怪物の正体を2パーセントだけ理解した気がした。

「あ! 映画って…。なるほどな。コレかと。

 

箱からライフルを取り出す。ただそれだけなのに、野蛮なまでに美しい

その所作には犯人側の焦りや苛立ちがすべて表現されていて、やがて訪れる破滅的な結末まで示唆されている。そして「激情」という抽象概念が恐ろしいほど緻密に視覚化されているのだ。

音楽でいえば最初の一音が鳴った瞬間。文学でいえば最初の一文を読んだ瞬間…。そうした瞬間に触れただけで「あ、これはとんでもない傑作だ」という予感に胸をざわつかせることが稀にある。

それと同じように、狼たちの午後は箱からライフルを取り出すまでの1.5秒。この一瞬こそがすべてだ。

この1.5秒を観てしまうと、2時間もかけて人を感動させる映画がとてつもなく悠長に思えてくる。観る者の魂をブッ貫くことなんて1.5秒あれば十分であることを、アルパチは身をもって証明してみせたのだから。

未だに私はこの1.5秒見たさに、折に触れて狼たちの午後を観返してしまう。生まれて初めて「ショット」というものに触れた瞬間がこの映画なのだ。

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狼たちの午後アル・パチーノ。髪型評論の観点から見ても好きパチーノ


「説教俳優としてのアル・パチーノ」というテーマでもお話ししたいが、1万字を超えたのでそろそろ読者様に見放されそう…という強迫観念のもと、宴もたけなわですがこれにて『映画男優十選』はお開きにしたいと思います。

惜しくもTOP10に漏れたのはダスティン・ホフマンさん、ユアン・マクレガーさんなどでした。ハイざんねん。

 

バーフバリ 王の凱旋

 私の心の中のイヤリングがチリンチリン鳴って仕方ないんだわ。

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2017年。S・S・ラージャマウリ監督。プラバース、アヌシュカ・シェッティ、ラーナー・ダッグバーティ。

 

蛮族カーラケーヤとの戦争に勝利してマヒシュマティ王国の王に指名されたアマレンドラ・バーフバリは、クンタラ王国の王女デーヴァセーナと恋に落ちる。しかし王位継承争いに敗れた従兄弟バラーラデーヴァは邪悪な策略で彼の王座を奪い、バーフバリだけでなく生まれたばかりの息子の命まで奪おうとする。25年後、自らが伝説の王バーフバリの息子であることを知った若者シヴドゥは、マヘンドラ・バーフバリとして暴君バラーラデーヴァに戦いを挑む。(映画.com より)

 

前作『バーフバリ 伝説誕生』評を読んでくれた皆さん、まことにアリス!

バカみたいにPV数が伸びたわりにはいまいちスターが付かなかったことから、きっと多くの『バーフバリ』ファンの神経を逆撫でしたであろうことが推測されます。

こちらとしては絶賛派の人たちの意見が聞きたかったので、あえて挑発するような文章を仕掛けてみたのだけど、今回は不発に終わってしまいました。

 

また、コメント欄やブックマークコメントですてきなご意見を頂いた方々にも感謝申し上げます。

私は筋金入りの議論好きなので(口論や口喧嘩が好きという意味ではなく、多様な意見を自由に言い合える言論空間を尊重するという意味です)、その取っ掛かりとして「申し訳ないとは思いつつも人を挑発することでその人のボルテージを高めて色んな意見を引き出す」という、あまり性格のよろしくない技を得意としていて、実際映画好きが一生され続ける質問TOP10ではそれが上手くハマったんだけど、前回の『バーフバリ 伝説誕生』評では思いきり空振りしてしまいました。

いやー、さすが皆さん、大人であるよなぁ。

『バーフバリ』絶賛派だけど、言ってることはよくわかる」とか「続編を観ても飄然としていられるかな…?」といった50代のジェントルマンのごとき成熟したコメントを頂きました。

ファンの「荒くれ」を焚きつけるつもりだったのに、逆に私の方がいなされている…という。

これはこれでチョー恥ずかしいんですけど!

 

そんなわけで、二部作の後編にして最終章『バーフバリ 王の凱旋』評。

参ります。

 

もくじ

 

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①ついに感覚が麻痺しました。

前作『バーフバリ 伝説誕生』(15年)は映画としてのガサツさが目についてあまり楽しめず、数少ない『バーフバリ』イマイチ派の肩を持つようなスタンスで評を書いたが、ついにイマイチ派の人たちを見放さねばならないときがやってきました。

まさにカッタッパのごとき裏切り。

というか「イマイチ派の人たち」が実在するのかどうかすら分からないのだが。

 

まず前作を観たことで耐性が身についたというか…、感覚が麻痺しました

前作からの改良点といえばスロー濫用が幾分マシになったというぐらいで、基本的には相変わらず語りは鈍重だし、ショットもガサツ、そして前作から輪をかけて長尺化している。

つまり本作の欠点は前作の欠点とほぼ同じなので、その都度いちいち同じ疑問を呈したり同じ瑕疵を論っても仕方がない…という、言い換えれば論理的に批判が封殺されている状態で。まさに暖簾に腕押し。

しかも「続編は一作目を超えられない」という映画界のジンクスを打ち破り、前作に比べて映像のダイナミズム、切れ味のいい演出、スペクタクルな物語と、すべてがグレードアップしている。そうなるともう無敵でしょう。

決して減点はされず、ひたすら加点方式でポイントをがんがん稼ぎまくる…というチートみたいなシステムが確立しているのだから。これは端的に奇策といっていい。そして穿った見方をすると、このバーフバリ・システムこそがファンを狂熱させる呼び水になっているのでしょう。

いやぁ、こりゃ参った。

内容がどうこう言う以前に映画としてのフォーマットが独創的で、インド映画の…というよりは『バーフバリ』という映画の美学が叩きつけられている。

「バーフバリですが、何か?」だよ。あのドヤ顔で。

もちろん「映画の美学」など突き詰めていけば「ハッタリ」と同義なのだが、ハッタリを愛する身としては称揚しないわけには参りません。

何度でも言うが、映画に必要なのはハッタリだ。

 

②全編クライマックス化。

さて、完結編となる本作は、前作の回想シーケンスの続きから始まる。

伝説の英雄・父バーフバリが王位継承争いに巻き込まれ、母親や従兄弟の権謀術数にかかって暗殺されるまでを描く。

その後、現代シーケンスに戻り、息子バーフバリが父を殺した従兄弟に仕掛けた弔い合戦の決着をもって物語は終わる。

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この続編の最大の魅力は、一作目を超える「バカ格好いい」アクションシーンがパッツパツに搭載されていながら、一作目では踏み込めなかったキャラクター造形をその中に深く描き込んだという点に尽きるでしょう。

前作の唐突な回想シーンではいまいちピンとこなかった「いかに父バーフバリが人民に慕われる大人物だったか」を、満艦飾のアクションやコメディに乗せながら優雅に語ってゆく身振り。

また、母親との愛憎劇や従兄弟との確執がより一層ヘヴィネスに紐解かれ、欲望、忠義、誤解、憎悪といったドロッドロの人間関係が大河ドラマのようにうねっていき、絢爛豪華なマヒシュマティ王国の腐敗した内部事情が徐々に露呈していく…というディープな人間模様。

前作が「歴史アクション映画」だとすれば、本作は「歴史アクションの中で語られていく、きわめて純度の高いヒューマンドラマ」である。

 

そしてそのヒューマンドラマが、つるべ打ちと言っていいアクションシーンの中に混ざり合って、驚くべき痛快さで語られていく。

なんというか…、3時間ずっとドンパチしてる『ゴッドファーザー(72年)というか。

いや…、やっぱ嘘。この喩えは忘れてくれ。ポピュラー・ミュージックに喩えましょうね。

最初から最後までずっと大サビ

それでいて、イントロのトキメキ感、Aメロ・Bメロの期待感、ギターソロの箸休め感、Dメロの高揚感、アウトロの余韻…といったさまざまな情感をくまなく網羅している。

ごく控えめに言ってこれはすごい。最初から最後までずっと大サビなのに、サビ以外の情感まで細やかに表現されているからだ。

インド映画における「ナヴァラサ」が限りなく自然な形で表出している…という意味では現時点でのインド映画の最高峰に位置づけられるかもしれない(インド映画をそれほど観てないので断言こそ避けるが)。

表面的に見ると「うっふゥー、高まるゥゥゥゥ!」みたいな全編クライマックス状態だが、各シーンを個別で見るときちんとヒューマンドラマになっているし、物語も絶えず動き続けているという理知的な作りで。 

 一作目に比べて「これ、同じ製作陣が作ったの?」と思うぐらい大化けてしています。

 

③チリンチリーン…。それは恋の音色!

アクションシーンに関しては、「ヤシの木を使った人間樽」とか「象と協力して弓矢を放つ」など、いよいよエスカレートしたバカ格好いいシーンが映画後半を賑やかせるが、当ブログでやってることは一応「映画評論」なので映画論に立脚して褒めるとすれば、やはりクンタラ王国の城内での迎撃戦」に言及せねばならんでしょう。

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 象と協力して弓矢を放つバーフバリ。「なんだかよく分かんねえけど、その手があったか!」と思わされる、強烈なシーン。

 

クンタラ王国の姫・デーヴァセーナに一目惚れした父バーフバリが、彼女の城を襲う敵兵たちを迎撃する中盤のシーン。

デーヴァセーナはメリダとおそろしの森(12年)におけるメリダみたいに勝ち気なお姫様で弓矢の名手でもあるが、複数の矢を同時に放つ技ができなくて毎日練習している。

ところが、城内に侵入した敵兵を弓矢1本撃ちで地道に迎撃するデーヴァセーナの背中にピタリと身を寄せた父バーフバリが「こうすると3本撃ちができるよ」とレクチャーすると、瞬く間にデーヴァセーナは3本撃ちを体得する(バーフバリの教え方がよかったのだろう)。

ビュンビュンと3本撃ちする父バーフバリとデーヴァセーナ。合計6本の矢が間髪入れずに放たれるので、前方から押し寄せる敵兵は面白いようにバタバタと倒れていく。

織田信長の鉄砲隊かよ。

たった2人で弓兵6人分の仕事ぶりがまともに格好いい!

ここは「バカ格好いい」ではなく、まともに格好いい!

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「こうすると3本撃ちができるよ!」

 

そして、デーヴァセーナの背後に迫る敵兵に気づいた父バーフバリは、突如、彼女の顔にめがけて矢を3本撃ちする。その矢は彼女の顔をギリギリのところでかすめて背後の敵兵3人を見事に捉えた。

3本の矢がデーヴァセーナの顔をスレスレのところで追い抜く瞬間、耳たぶのイヤリングをかすった1本の矢がチリーン…という美しい音色を響かせた。

もちろんこの音色は、デーヴァセーナが父バーフバリにトキめいたことを祝福する音だ。

いわば「キュン♡」だよ。

「キュン♡」としてのチリーンだよ!

かくして、城内での迎撃戦を勝利に導いた二人は深い愛情で結ばれるのだ。 

 

ロマンスさえもハイスピードなアクションシーンの中で簡潔に語りきってしまう…というね。最大の褒め言葉を贈ると、このシーンはビリー・ワイルダー級にすごいことをしている。

もうこれを観てしまった観客にとって「キュンキュンする」という言葉は死語!

これからは「チリンチリンする」と言いましょう。

 

④当時の人々がベン・ハーを観て腰を抜かした感覚が現代で味わえることの悦び。

というわけで、すっかり『バーフバリ 王の凱旋』にチリンチリンしてしまった私。

私の心の中のイヤリングがチリンチリン鳴って仕方ないんだわ。

圧倒的なダイナミズムと、圧倒的なおもしろさ。そして前作に比定して圧倒的に巧い。

当時の人々がベン・ハー(59年)を観て腰を抜かした感覚が、2010年代の現代で味わえることの悦びに感謝。思わず業務スーパーで買ってきたカレーのルーを一気飲みしてしまった私がここにいるよね。

 

爆アガり&爆笑必至の歴史スペクタクル…だけではなく、怪物的に急成長しているインド映画の「今」を見る…という意味でも必見の超大作歴史スペクタクルだ。

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なお、前作の評とは文章の温度がまるで違うことは私が一番よく分かってるから!

 別人が書いたのかよ!

 

バーフバリ 伝説誕生

これを観て熱狂しないという、鉄の心を持つラストワン。それが私。

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2015年。S・S・ラージャマウリ監督。プラバース、 ラーナー・ダッグバーティ、タマンナー。

 

巨大な滝の下で育った青年シヴドゥは、滝の上の世界に興味を持ち、ある日滝の上へとたどり着く。そこでシヴドゥは美しい女戦士アヴァンティカと出会い、恋に落ちる。彼女の一族が暴君バラーラデーヴァの統治する王国との戦いを続けていることを知ったシヴドゥは、戦士となって王国へと乗り込んで行く。そこでシヴドゥは、25年もの間幽閉されている実の母の存在と、自分がこの国の王子バーフバリであることを知る。(映画.com より)

 

『バーフバリ』二部作を2日に渡って取り上げます。

いっやー、久しぶりにインド映画を観たなぁ。インド映画って大体150分~180分と尺が長いうえに作りが大雑把というか、はっきり言って韓国と同じく映画のノウハウを持たない国なので、正直なところ若干ナメている節がある。誰の中に? 私の中にね。

たしかに、インド映画にはさまざまな娯楽が詰まっているから即物的なおもしろさは約束されているが、あまり映画理論に基づいていないので良くも悪くもデタラメなおもしろさだ。まるでマイケル・ベイ映画のようだ。

ちなみにインド映画にはナヴァラサと呼ばれる「9つの人間感情」をすべてブッ込む、という基本理念がある。

笑い、驚き、恋愛、悲しみ、勇敢、恐怖、嫌悪、怒り、静寂。

これらすべてをひとつの映画の中で表現しなきゃならないわけ。だから平気で上映時間が3時間を超えたりするのだ。『バーフバリ』なんて二部作合わせて約5時間半だからね。

ある程度まとまった睡眠時間だよ!

 

もくじ

 

滝壺に落ちたくないから…。

先日、知人から「おまえは『バーフバリ』を観ましたか?」と訊かれたので「観てません」と答えた。

知人曰く、もはや『バーフバリ』を観たほとんどの人間は信仰の域にまで達して大絶賛しているので、ぜひ私に冷静な批評を頼みたい…とのこと。

 

SNSやレビューサイトを覗くと、なるほど、どいつもこいつも「バーフバリ! バーフバリ!」と連呼するばかりで完全に自分を見失っている。ここまで映画ファンを狂わせたのはマッドマックス 怒りのデス・ロード(15年)ぶりだ。

おまけに、暇さえあれば映画評を読み漁っている私が知りうる限り『バーフバリ』を酷評しているレビュアーは全体の1%にも満たない。

これは異常事態である。

いったい何が人をそこまで『バーフバリ』に狂わせるのか…。この目で確かめなければなるまい。

あと、『バーフバリ』を観ていない人間は滝壺に落ちて死ぬらしいし。

そんなわけで、死ぬのは構わないが滝壺には落ちたくないので『バーフバリ』を鑑賞した。

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我ながらさすがと言うべきか、思いきり平常心です。

100人中99人がドハマりして大熱狂して自分を見失うような映画を観ても、うんともすんとも言わない、鉄の心を持つラストワン。それが私(どうぞよろしく)。

面白おかしく突っ込みながら楽しいレビューを書ければいいのだけど(また、そういう記事を書いた方がウケがいいことも分かっているのだけど)、今回はそういうことはしません。なぜなら思いきり平常心だからです。平常心なのに熱狂したフリをして面白おかしいレビューなんて書けるか!

したがって今回の批評は「『バーフバリ』を観たけどイマイチだったな。でも正直に感想を言うと『バーフバリ』絶賛派に集団リンチされそうだな…」と感じている超少数派の人たちの孤独な魂に寄り添う内容となっています。

『バーフバリ』イマイチ派の皆さん、援護射撃します!

まぁ、そんな人がいればの話だけど。

とはいえ良かったところは素直に褒めるけどね。

 

②血沸き、肉躍り、口元緩む。

『バーフバリ 伝説誕生』は、古代王国の王位継承争いの顛末をインド映画最高額の製作費で描いたスペクタクル超大作である。

圧倒的なエンターテイメント性突っ込みどころ満載のバカ描写が大ウケして、観た人間は漏れなく過度な興奮状態に陥り、気が違ったように「バーフバリ! バーフバリ!」と連呼する…という症状が報告されている。

個人的におもしろいなと感じたのは「この作品がまともに評論されていない」こと。支持派も否定派も論理的な批評を放棄していて、もう感情論だけでまくし立てているという、この…バーフバリ磁場?

裏を返せば、観た者を失語状態に陥らせるほどのキチガイじみた熱量がある作品、とも言えるわけだが。


たしかに、すこぶる楽しい映画だったね。

血沸き、肉躍り、口元緩む…みたいな。

べつに私は『バーフバリ』に対してゴリゴリの否定派というわけではないので、良いところは素直に褒めますがな。

主人公のバーフバリに漂う「オモシロ感」が徐々に「カッコイイ」に変わっていく…という色彩豊かなキャラクター描写が第一の魅力。とにかくこのバーフバリという男、「人格分裂してんのか?」と思うぐらい、各シーンごとにさまざまな表情を見せてくれるのだ。

同じくアクションシーンも、キメキメの殺陣で見栄を切るシーンがある一方で、プロペラカッターを装着したチャリオットで敵兵を惨殺していく大バカ極まる荒唐無稽シーンがあったりと、真面目(オンビート)とオフザケ(オフビート)が常に細かく切り替えられているので、観る者は「格好良さにシビれながらもバカ描写に突っ込み続ける」という、受動的でありながら能動的でもある映画体験に理性のフューズが飛んでしまうのだろう。

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プロペラカッター付きチャリオットを優雅に乗り回す! 時代考証もヘチマもないバカ炸裂のシーン。

 

インド映画なので当然ミュージカルもある。

『バーフバリ』名シーンランキングの五本指には入るであろう、バーフバリが一目惚れしたヒロインを踊りに合わせて脱衣&化粧し、一曲踊りきった頃にはすっかり両想いになっているというミュージカルシーン。

あれよあれよという間にヒロインが脱衣&化粧されるシーンの面白さばかり話題になっているけど、ここでは「ミュージカルに説話機能を担わせる」というなかなか凄いことをしていて。ヒロインと結ばれるまでのプロセスを一曲のミュージカルの中だけで小気味よく語りきっているのだ。説話的にはこの上なく経済的で、おまけに笑いまで誘発するという一挙両得の超合理的な語りだ。

 

あと、アクションシーン全体に漂うピタゴラスイッチね。

アクションが単発として終わるのではなく前後のアクションと細かく連動しているので、ひとつのアクションシーンの中にもちょっとしたストーリーがあるというか。

また、キャラクターたちは大真面目にやっているのに傍から見るとなんだか笑ってしまうというバカ格好いいを極めたビジュアルの数々も。

特に日本では「シリアスな笑い」に対して感度の高い人が多いので、尚のこと『バーフバリ』の熱に浮かされやすいのでしょうね。

 

最後に、「ほとんどの『バーフバリ』ファンには理解されないだろうけど私が最も気に入っているちょっぴりマニアックな美点」を激賞しておきます。

それはズームイン

フルショットで切り取られた人物の顔をギュン!とズームインする箇所がいくつかあるのだけど、これがまた死ぬほどダサくて最高なんだよ。

70年代のカンフー映画ではよく使われていて、いまや過去の遺物と化した映像技法である。これは、上手くピントを合わせないのがポイント。通称「香港ズーム」

今なおコレをやっているのはタランティーノぐらいだが、まさか『バーフバリ』で見れるとは!

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全編プロモーションビデオ化。

ここからは手放しで絶賛できない理由をあげつらっていきます。

 

私が冒頭5分で「ああ、これはキツい…」と思ったのは、スローモーションの濫用による全編プロモーションビデオ化

正直、『300 〈スリーハンドレッド〉』(06年)ジャスティス・リーグ(17年)ザック・スナイダーよりも酷い。

この世には、96分ほぼスローモーションのバイオハザードV リトリビューション(12年)という限りなく映画に似たプロモーションビデオが存在するのだが、『バーフバリ』を手掛けたS・S・ラージャマウリは、このバイオハザードシリーズのポール・W・S・アンダーソンの邪悪な精神をガッツリと受け継いでいる。

もちろん映画監督としてはS・S・ラージャマウリの方がはるかに腕はあるし、バイオハザード『300 〈スリーハンドレッド〉』などという産業廃棄物に比べれば『バーフバリ』は宇宙最高峰の傑作ということになるのだが、系統的にはこの二人のようなショットをビジュアルとして捉える一派に属するでしょう。

彼らの特徴は、(1)スロー大好き、(2)背景合成大好き、(3)質感や重力を無視したがる…など。

 

あと、先ほどミュージカルシーンにおける合理的なストーリーテリングを褒めたけど、全体的にはかなり鈍重で中弛みしているので、いくつかあるスマートな語り口が見事に殺されているのが惜しい。

クライマックスに時間を割くのは構わないとして、第一幕の「セクシー美女の幻影を追いかけて滝を登りきる」までのまあ長いこと!

その間、ハナシ一個も進んでないからね!

ていうか何なんだよ、「セクシー美女の幻影を追いかけて滝を登りきる」って!

ちなみに、われわれが観た海外配給版の上映時間は138分。それでも充分長いけど、オリジナルは159分マイケル・ベイ・タイムだよ!

ポスプロの段階で各シーケンスをタイトに詰めて、スローモーションの使いどころを見切っていれば、もっと鋭利で力強い映画になったと思うんだよな(詰め込んでなんぼのインド映画は概して上映時間が長いので、指摘するだけ野暮かもしれないが)。

ポスプロ…「ポストプロダクション」の略称。撮影後におこなわれる編集作業のこと。フィルムを切ったり繋げたりして映画の呼吸やリズムを作る超重要な仕事です。

 

さらに言えば、回想シーケンスの配置(入り方と終わり方)が唐突すぎて時制が混乱するし、映画としてかなり観づらくて不細工なルックに…というウイークポイントも抱えている。

おまけに回想シーケンスが1時間近くあり、回想の中で出てくるバーフバリの父親がハーブバリ役と同じ役者が一人二役で演じているのでクソややこしい。

要するに、回想パートと現代パートのメリハリがない。

たとえば映画全体を二部構成にして「ハイ、ここからは回想パートですよ!」と明確に章分けした方がよかったのでは。それこそ本作が影響を受けたであろうベン・ハー(59年)のように。

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その他、細々とした瑕疵は6つぐらいあるけど、もういいです。細々とした瑕疵をあげつらうほどこの作品に悪感情は持っていないので。

ただ、「イマイチだったなー」と感じた人の気持ちは大いにわかる。「なぜこんなものに映画ファンがこぞって熱狂しているのか?」という疑問は、心配すんな、俺も持ってる。

 

だいたい出たけど残尿感。

総括すると、『バーフバリ 伝説誕生』は、おもしろいかつまらないかで言えば断然おもしろい。でも上手いかヘタかで言えば断然ヘタ。

そしてヘタな部分がおもしろい部分の足を引っ張っていて「アガりたいのに、どうもアガりきれんなぁ…」というノイズになっている。

だいたい出たけど残尿感だよ。

当方、「アガる映画」は大好きだけど、ただアガる要素をドカ盛りされただけでは満足できなくて、アガる映画を上手に見せてくれないと心の底から喜べないタチだ。これぞ、うるさ型。

たとえば、大好きなバンドのコンサートに行って自分が一番好きな曲をやってくれたら大いに気分はアガるけど、肝心の演奏がムチャクチャだったら怒りさえ沸くよね、なまじ一番好きな曲だけに。「アガりたいのにアガりきれなーい」っていうか。だいたい出たけど残尿感だよ、だから。

したがって私はマーティン・スコセッシタクシードライバー(76年)に対しても「最高の映画になったはずなのに、どうしてこんな風に撮っちゃったんだ…」という愛と怒りのハーフ&ハーフみたいなもどかしい思いを抱えてござる。

 

だから、こういうお祭り映画にケチをつけねばならないとき、私は自分がシネフィルになったことをたまに後悔するときがある。そして我が身に染みついた批評癖に因果を感じてしまう。純粋に「バーフバリ! バーフバリ!」と叫べない自分に。

はっきり言って、映画通もしくはシネフィル(映画キチガイ)なんてロクな人間ではないし、そもそも映画なんてめったやたらに観るものではない。年に12本ぐらい観るのがいちばん幸せなんだよ。

「最近映画にハマってるんですぅ~」という人あらば、いつも私はグダッとした身振りでこう返している。

「映画なんか観るな」と。

映画好きの成れの果て。それは映画の裏側に頓着するあまりホラー映画に怖がれなくなることであり、技術的な瑕疵が気になって『バーフバリ』で自分を見失えなくなることだ。

菊地成孔の言葉を借りるなら「私は幸福な観客ではない」だよ。畜生めが!

 

さて、次回は『バーフバリ 王の凱旋』(17年)を取り上げます。

果たして私は「バーフバリ! バーフバリ!」と叫ぶのか…!?

これほど続きが気にならない次回予告もまたとないが、次回も読んでくだされば嬉しい嬉しい!