シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

ニューヨーク 冬物語

驚愕、および戦慄、からの失禁、そして白目。

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2014年。アキヴァ・ゴールズマン監督。コリン・ファレルジェシカ・ブラウン・フィンドレイ、ラッセル・クロウジェニファー・コネリー

 

1900年代のニューヨーク、幼少期に両親と離れ離れになったピーターは、裏社会を牛耳る男の下で悪事を働く毎日を過ごしていた。そんなある日、美しい令嬢ベバリーと出会った彼は瞬く間に恋に落ちるが、不治の病に侵され余命わずかな彼女は亡くなってしまう。100年後、記憶を失ったピーターは生きる意味さえもわからず街をさまよっていた…。(Yahoo!映画より)

 

皆さま、元気ですか。

昨日YouTubeブラックビスケッツ「タイミング」を聴いて、懐かしさのあまり落涙しそうになりました。小学生のときに運動会のダンスで踊ったんですよ、この曲で! まぁ、ダンスのタイミングは合ってなかったんですけどね…っていう松本人志が言いそうな返しもしたことだし、そろそろ本題に移るとしましょう。

リクエスト回です。

先日、Gさんから「コリン・ファレルの映画やって」という子供みたいなリクエストを頂いたので、親切な私はそれにお応えしようと思います。なぜって親切だから。

というわけで本日はコリン・ファレル主演の『ニューヨーク 冬物語です。一足先に冬を独り占め!

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悪い映画なわけがない

この純愛映画の大作は、観る者が奇跡の存在を信じるには十分なだけの説得力がある。

世間の反応は軒並み酷評、製作費の半分しか回収できないなどなかなか派手なコケ方をした作品だが、コリン・ファレルを筆頭に、ラッセル・クロウジェニファー・コネリーウィリアム・ハート、それに何といってもウィル・スミスが出演しているのである。悪い映画なわけがない。

それに、本作が処女作となるアキヴァ・ゴールズマンという秋葉原にいそうな名前の男はバットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲』(97年)『プラクティカル・マジック』(98年)といった世紀の名作群の脚本を手掛けてきた天才脚本家である。

 

にも関わらず、俗世の愚民レビュアーどもは野暮なツッコミを入れて、この純愛超大作を愚弄するのである。死ねバカが!

たしかにあり得ない設定や展開だらけと言えなくもないが、もとより映画など「あり得ない事象」を前提としたハッタリの産物なのだ。

本作を楽しむには「2つの設定」に留意するだけでいい。

 

・人はいずれ星になるらしい。

・どんな人にも一度だけ奇跡が起こせるらしい。

 

この、腐りきったJ-POPのごとき綺麗事…ルールにさえ留意すれば、この映画はアナタに目くるめく愛と奇跡の感動ロマンスを約束してくれるだろう!


◆※ストーリー全部言います◆

物語は1895年に始まる。とある移民夫婦が入国審査で「あかん」と言われニューヨーク行きを拒否されたことから、せめて子供だけでもニューヨークに行かせようと、生まれたばかりの幼児を「それで大丈夫?」というような模型の船に載せて海に流す。

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さざ波一発でひっくり返りそうな船の模型。

 岸に流れ着く確率 ほぼ0パーセント。

にも関わらず奇跡的に岸に流れ着いた幼児は、奇跡的に親切な人に拾われてすくすくと育ち、ルパン顔負けの天才的な泥棒になった、奇跡的に。それが本作の主人公、コリン・ファレルである。

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以下はファレ坊と呼ぶ。

 

ファレ坊はラッセル・クロウ演じるギャングのボスを裏切ったことからラッセル一味に追われているが、捕まる寸前で目の前に現れた白馬にまたがって逃げおおせる。なぜかその白馬は翼を持っていて空を飛ぶことができるのだ。

街をほっつき歩いている途中、泥棒の血が騒いだファレ坊がテキトーな屋敷に忍び込むと、そこには結核で余命幾ばくもない令嬢ジェシカ・ブラウン・フィンドレイがいた。

金庫破り真っ最中のファレ坊と出くわしたジェシカ嬢はまったく動転した様子もなく、不法侵入したファレ坊にこんなことを言った。

「コーヒーでも召し上がる?」

わぁ、すごいなぁ。

私なんて昨夜、マンションの自部屋でレビューを書いてたら急にドアがガチャガチャ鳴ったので「あ、怖い」と思って慌てて包丁を手にしてドアスコープから外の様子を窺ったものだし(たぶん酔っ払った隣人が部屋を間違えただけ)、毎日帰宅して玄関の電気をつけるときに「部屋の中に誰かいたら嫌だな…」とありもしない想像をめぐらせるというのに、ジェシカ嬢は不法侵入者に驚きもせず「コーヒーでも召し上がる?」って。すごいなぁ。エレガンスだなぁ。ブレイブハートでもあるよなぁ。

コーヒーを飲みながらぐちゃぐちゃと談話するファレ坊とジェシカ嬢。

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ジェシカ嬢 「それはそうと、私は結核でもうすぐ死にます」

ファレ坊「そうですか。僕はボスに追われています」

ジェシカ嬢 「そうですか。これまで盗んだ物のなかで一番高価なものはなんですか」

ファレ坊「そうですね。目の前にあるけどまだ盗めていません

ジェシカ嬢 甘ぁ――――い。ってスピードワゴンみたいなことを思いました」

ファレ坊「そうですか」

 

すてきな会話である。ロマンチシズムの発露である。

一方その頃、さんざん苦労してファレ坊の居場所を突きとめたラッセル苦労は、ファレ坊ではなくジェシカ嬢の命を狙う。なぜか。実はラッセル苦労は人間ではなく悪魔で、世界征服するには愛や希望が邪魔だから人々の恋路をことごとく打ち砕くという気の遠くなるような作業に精を出していたからだ。

は?

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しかもラッセル苦労の上司は魔王サタン。それを演じているのが剽軽者オレ様俳優でお馴染みのウィル・スミス。

えっ…。

サタン・スミスはきったねえ地下に身を潜めており、部下のラッセル苦労に威厳を示すためか、自分で豆電球をつけたり消したりして不気味さを演出する。

どうでもいいけど電気代食うぞ、それ。

あといきなり歯を剥きだして威厳を示すなどもする。

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威厳たっぷりの魔王サタン。決してアゴが外れたわけではない。

 

愛するジェシカ嬢がラッセル苦労の魔の手にかかる寸前で白馬に乗って現れたファレ坊は、ジェシカ嬢を馬の後ろに乗せて大空を飛び、彼女の実家に遊びに行くことにした。シュールというより半狂乱に近い展開に、私の心はおおいに踊った。

結核ジェシカ嬢は熱が上がると死ぬるというので、あの手この手で体温を下げようと努めていて、真冬にも関わらずこんなチャレンジをする女性だ。

水風呂に入る

裸足で外出して足の裏を冷やす

毎晩屋上のテントで眠る 

そんなことすると逆に悪化して死期が早まるだけだが、ジェシカ嬢があまりに健気に身体を冷やすものだから、ファレ坊は「そんなことしたら死にますよ」とは言えず、むしろ彼女のチャレンジングな姿勢を高く評価した。

その夜、ファレ坊は「もう辛抱たまりません。あなたと性行為がしたいです」といってジェシカ嬢に夜這いをかけた。ジェシカ嬢は「そうですか」と言った。晴れて二人は「気持ちがいいです」とか「そうですか」などと言いながら実にすてきなセックスをおこなったが、そのせいで体温が上がってジェシカ嬢は死んでしまった。

そうですか…。

ヒロインが腹上死する映画というのもなかなか珍しい。しかもあんなに創意工夫を凝らして身体を冷やしていたのに、まさかセックスで体温が上がるとは思わぬ落とし穴である。よく出来たトリックだ。

ジェシカ嬢「身体は冷やせても、愛の炎までは冷やせませんわ…(そして死ぬ)

なにを言うとるんだ、この女は

うまい。とても感動した。これぞ純愛、これぞロマンチシズムの発露である。

自分の性欲のせいで愛する人を死なせてしまったファレ坊は、涙を流しながら「でも性欲は不可抗力だしなぁ」という言い訳じみた顔をする…。たしかに一理ある。ファレ坊は何も間違っていない。

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それから100年。

え? 100年?

そうですか、100年も経ちましたか…。なぜかまったく歳を取っていないファレ坊が浮浪者のようなナリでニューヨークを徘徊していると、彼の前に一人の少女とその母親が現れた。

少女は亡きジェシカ嬢と瓜二つで、その母親はジェニファー・コネリーだった。たまらん。いつも髪がすてきなジェニファー!

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こればかりはマジでたまらん。

 

どうやらその少女は癌でもうじき死ぬらしく、それを知ったファレ坊は「ジェシカ嬢を死なせてしまった罪悪感を薄めるために、せめてこの少女の命を救います!」と宣言して、まったく事情が呑み込めないママコネリーに「なにを言うとるんだ、この男は」という顔をされた。

そして、そんなファレ坊たちの前にラッセル苦労が立ちはだかる。

立ちはだかる意味がまるでわからないが、たぶん私の頭が悪すぎるからだろう。

100年間も世界征服できなかったラッセル苦労が、今さら「ファレ坊が癌の少女を救おうとする善行」を妨害したところで何の意味があるのか。それがどのように世界征服に結びつくのか。

そもそもラッセル苦労はこの100年間なにをしていたのだろう?

ちなみにサタン・スミスは相変わらず豆電球をつけたり消したりして威厳を演出していた。100年間もそれをやり続けていたのだろうか? 威厳誇示のためにこの100年でどれだけの電気代がかかったのだろう。ていうか悪魔って暇なの?

疑問は尽きないが、それもひとえに私がドブネズミにも劣るサノバビッチ頭脳しか持ち合わせていないからで、きっと頭脳明晰な知識層が観れば「あー、なるほどね」と合点がいく作りになっているのだろう。バカでごめんなさい。疑問を抱いた自分が恥ずかしいです。

 

物語はいよいよ終盤。

ファレ坊とラッセル苦労の最終決戦の舞台は腹上死したジェシカ嬢の実家の庭だった。「えい」、「えい」といって殴りっこに興じるファレ坊(38歳)とラッセル苦労(50歳)。

よく考えるとラッセル苦労は悪魔だというのに、凡人のファレ坊相手に素手で互角にシバき合っている。

凡人のファレ坊が強すぎるのか、悪魔のラッセル苦労が弱すぎるのか…。

もっとも、そんなことを言い始めると凡人のファレ坊が100年経っても年を取らないのは何故なのかという疑問も出てくるので、あまり考えないようにしよう。

大の大人二人が殴りっこしていると、腹上死して夜空の星と化したジェシカ嬢が空からピカピカ光るとい大技を繰り出してファレ坊を応援する。ジェシカ嬢の妨害フラッシュを浴びたラッセル苦労は「まぶしい、まぶしい!」なんつっていやんいやんしており、その隙にファレ坊は親の仇みたいにラッセル苦労をがしがし殴る。拳よ腫れよと言わんばかりにがしがし殴る。

星とタッグを組んで悪魔をやっつける。しかも純愛映画で…という前代未聞のシーンである。エキサイティングだなぁ!!

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悪魔と凡人のあつきたたかい。100年越しの因縁の対決を壮大なスケールで描きあげるスペクタクル・アクション!

 

その様子を遠目から見ていたママコネリーは「なにをやっとるんだ、この男たちは」という顔をして呆れ果てていた。たまらん。ジェニファー・コネリーの蔑むようなジト目がたまらん。

無事にラッセル苦労を殴り殺したあと、少女がガン限界で死んでしまったので、ファレ坊が「奇跡起きろ。ガンとか治れ」といってキスをして都合よく生き返らせたあと、「俺も星になるわ。ほなまた」といって白馬に跨った。

ママコネリーは「なにを言うとるんだ、この男は」という顔をして呆れ果てていた。たまらん。

白馬に跨ったファレ坊は「ハッハー」などと言いながら夜空を飛んで星になりました。愛するジェシカ嬢のもとに旅立ったのです。これが本当のコリン星。

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 おわり。

 

このように、観る者をドカ泣きさせる純愛超大作の金字塔なのである。それが『ニューヨーク 冬物語…。

身体は冷やせても、愛の炎までは冷やせやしない…。


◆だァらぁぁぁぁぁぁぁぁぁ◆

もう我慢の限界だぁぁぁぁ!

リクエスト回だから酷評するのは忍びないなぁ…と思ってたけど…関係あるかい!

さっきから下手に出てりゃあいい気になりやがって、このポンコツ映画。

白馬は飛ぶわ、悪魔は出るわ。

ヒロインは腹上死するわ、ウィル・スミスは豆電球つけたり消したりするわ!

100年経つわ!! 歳取らないわ!!

死んだ彼女が星となりて空から応援するわ!!!

主人公まで星になるわ!!!

 

もしこれがおふざけコンテストならぶっちぎりで優勝、賞品としてペディグリーチャム50缶とヴィックスヴェポラップ1個が贈呈されるかもしれないが、残念ながらこれはおふざけコンテストではない。映画である。

 

ムチャポコなのはシナリオだけではございません。2つの時代がまったく描き分けられてないのが致命的なのだ。なんで1900年代初頭なのに高層ビルがボンボン建ってるんだよ? それに100年前と100年後で画面の色調もキャラの服装も同じだから見分けがつかない(見分けるヒントはコリン・ファレルの髪型のみ)。

全編通して背景合成のスタジオ撮影まるだし、作り物の雪まるだし、ウィル・スミスまるだし。

ウィル・スミスがダメな俳優とは言いませんよ。でもこの映画にウィル・スミスを出したのは350%間違いです。

 

そもそも、この映画のキャストって監督アキヴァ・ゴールズマンとコネのある俳優ばかりなんだよね。

アキヴァが脚本を手掛けたビューティフル・マインド(01年)ラッセル・クロウジェニファー・コネリーの共演作だし、ラッセル・クロウに関してはシンデレラマン(05年)でも一緒に仕事をしている。
ウィル・スミスは『アイ,ロボット』(04年)アイ・アム・レジェンド(07年)ジェシカ嬢の父親を演じたウィリアム・ハート『ロスト・イン・スペース』(98年)…という具合に、これまでにアキヴァが脚本を手掛けた映画の出演者に「今度監督することになったから出てえやー。一生のお願い」などと拝み倒したコネ頼みのキャスト陣で。

私が推察するに、ワーナー・ブラザーズから「マーク・ヘルプリンの小説『ウィンターズ・テイル』をコリン・ファレル主演で映画化するから、あとは良きに計らえ」と言われたアキヴァ監督がコネというコネを総動員して豪華キャストを招いた結果、共同脚本家を雇う金がなくなって自分一人で脚本を書いたためにこんなムチャポコな映画になってしまったのでは。

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とはいえ、私は脚本を二の次三の次に置くタイプ、すなわちストーリーで映画を観ないので、たとえプロットがムチャポコに破綻してようがあまり気にしないし、なんだったら「ストーリーなど存在しない」という持論を打ち出して憚らない人間ですらある。

映画を映画たらしめるのはストーリーではなくショットである。つまり「何を語っているか?」という観念的な美ではなく「何を映しているか?」という物理的な美が優先する。だがそれを加味してもこの映画はひどい。

コリン・ファレルという色男をまったく色っぽく撮れていないという監督の罪過は、打ち首、股裂き、電気椅子に値するだろう。死刑執行のスイッチを押す権限があるなら躊躇なく押すよ。いちにのさんで押せと言われても2で押すよ。

コリン・ファレルといえば、私の実妹やGさんを始め、世界中に多くの女性ファンを持つハリウッドスター。その特徴は八の字型のゲジゲジ眉毛が発する独特の色気と哀愁であり、コリン・ファレルといえば眉毛、眉毛といえばコリン・ファレルといっても過言ではないぐらいの紛うことなき眉毛俳優だが、そんな眉毛ファレルの眉毛がまったく活かされていない(つまり貌が撮れていない)。
それどころか、頭にバナナの皮乗っけたみたいな奇怪な髪型で観る者の失笑まで誘うのである。

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なんじゃこの頭。コリン・ファレルをなめとんのか!

 

なぜこんなにバカ丸出しの映画になったのかと言えば、脚本が突飛すぎるからというより映像に説得力がないからだろう。空飛ぶ白馬に魔王サタン、大いに結構である。実際、ファンタジーとロマンスを絡めた映画なんていくらでもある。

だが本作がしたことと言えば、ファレ坊がバナナの皮みたいな長髪をぺろんぺろん揺らしながら、やけにノロノロ走る白馬で駆けつけて、刺し殺そうとしてグズグズしているラッセル苦労からヒロインを奪い去り、ちょっとモタつきながら馬の後ろに乗せる、しかも真っ昼間の通り沿いで…という、360°どこからどう見てもギャグでしかないマヌケなショットをあたかも「スピルバーグの活劇にも匹敵するっしょ?」みたいなドヤ感まるだしでフィルムに焼き付けるというアルティメットいちびりザッツオールである。

観ているこっちが赤面するほど「かぁ~~~~っこわるゥ~~…」というシーンのつるべ打ちに驚愕および戦慄からの失禁そして白目である。

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バナナの皮ペロンペロンさせながら白馬に乗ってヒロインのピンチに駆けつけるファレ坊(しかも街中で)。ただただ滑稽な画。

 

リクエストを頂いたGさんには深くお詫び申し上げます。

すまん、選ぶ作品間違えた。

これじゃないよな? こういうこっちゃないよな?

でもどうか私の怒りと困惑もわかってくださいね。「え…。これ、リクエスト回として成立すんの…? コリン・ファレルを語る前に映画自体が論ずるに値しない出来だけど…」って。

Gさんに怒られるのが怖いので、さっきから押入れに隠れて文章書いてます。おしっこ漏れてきた。 

 

ローズの秘密の頁

トラブルから生まれた半々型ルーニー映画。

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2016年。ジム・シェリダン監督。ルーニー・マーラヴァネッサ・レッドグレイヴエリック・バナ

 

アイルランド西部。精神科医のスティーヴン・グリーンは、取り壊されることになった聖マラキ病院の患者たちが転院するのに伴い、彼らの再診を行う。そこで自分が生んだ赤ん坊を殺したとして、約40年収容されているローズ・F・クリアを診ることになる。自身の姓はマクナルティだと訴え、殺害を否認し続ける彼女にほかの精神障害とは異質のものを感じたグリーンは、彼女が聖書の中に日記を書いていたことを知り…。(Yahoo!映画より)

 

はーい、おはよー。

ミーはこないだ久しぶりにレコード店に行って、ナイト・レンジャーの5thアルバム『マン・イン・モーション』と、ホワイトスネイクの10thアルバム『グッド・トゥ・ビー・バッド』を購買したので、最近はそればっかり聴いてます。どちらもハードロックバンドです。

ナイト・レンジャーとホワイトスネイクは元々好きなのだけど、今回私が買い求めたのは全盛期を過ぎたあとのアルバムなので長らく食指が動かなかったのです。

そういう経験ってない?

特定のミュージシャンを気に入ったとき、1stアルバムから順番に聴いていくという方法と有名なアルバムから順番に聴いていくという二通りのやり方があって、それが一番ベターだと思うのね。少なくとも私は最新アルバムから過去に遡って聴いていくという時間逆行者みたいな振舞いはあまりしません。特に歴史の長いバンドほど…最新アルバムって出涸らしですからね。

特にハードロックの場合は耐用年数(バンドの寿命)が非常に短いので、初期の作品に名盤が集中しがち。キャリア後期…つまり最新作になるにつれて技術は衰えアイデアも枯渇し、往年の名曲をマイナーチェンジしただけのセルフ二番煎じみたいなアルバムが多くなってしまうのです。

だからナイト・レンジャーやホワイトスネイクのような大好きなバンドでも、過去のアルバムばかり繰り返し聴いて、最近のアルバムにはあまり興味が湧かない…というこの心理。わかりますか。

ミーは書いてて楽しいけど多分読者はシラけてるような前置きになっていることを自覚しつつあるのでこの辺でやめておきましょう。

本日はプチルーニー祭りの第二回、いわば最終回ということでローズの秘密の頁を取り上げたいと思っていルーニー

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◆トラブルの産物◆

当初主演に選ばれたのはジェシカ・チャステイン。ほかにも、とりあえず出しておけば画面が格調高くなることでお馴染みのジェレミー・アイアンズや、ベルベット・ゴールドマイン(98年)でなんちゃってデヴィッド・ボウイを演じたジョナサン・リース=マイヤーズの出演が決定していたが、なんと俳優陣だけでなく監督まで降板するというトラブルが発生。もはやストライキである。

どうにか代役を立てることには成功したが、製作が約一年も遅れたというトラブルの産物、それがローズの秘密の頁である。

 

主演はルーニー・マーラヴァネッサ・レッドグレイヴ

私はルーニー・マーラの応援団長である。10年代前半はドラゴン・タトゥーの女(11年)サイド・エフェクト(13年)『キャロル』(15年)といった傑作群で好調にキャリアを築いていたが、下げチン俳優のホアキン・フェニックスと交際してからというもの、いい感じのオファーがとんと来なくなって自己満低予算映画に活躍の場を移す。

さっさと別れろ!

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ヴァネッサ・レッドグレイヴは、私がよくマギー・スミスと混同してしまうベテラン女優である。

歳を取ってからもさまざまな映画に脇役として出演しているが、やはり70年代の肉体の悪魔(71年)『オリエント急行殺人事件』(74年)『ジュリア』(77年)などを代表作に挙げたい。あと、こないだTSUTAYA発掘良品で『裸足のイサドラ』(68年)が復刻したので観なければならない。

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本作は、我が子を殺した疑いで精神病院に40年以上も収容されているヴァネッサが昔を回想しながら子殺しの真相を語りだす…という大筋である。ヴァネッサの若かりし頃を演じているのがルーニーというわけだ。

ヴァネッサの昔話を聞く精神科医役にはエリック・バナが起用されている。

エリック・バナ…、もはや懐かしい響きである。大大大失敗作の『ハルク』(03年)や、スピルバーグミュンヘン(05年)などでゼロ年代にそこそこ活躍していたが、10年代の夜明けとともに消えていった朝露のような男だ。

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◆半々嫌いにはキツい映画◆

まずはじめに好みの話をさせてもらうなら、二つの時代を行ったり来たりする映画があまり好きではない。現在シーケンスと過去シーケンスをちょうど半々ずつ描いたような作品のことだ(近作だと僕だけがいない街など)。時間と空間が散逸してしまうし、主演の出番も分散してしまうので、なんとなく作品世界としての統一感を欠くような気持ち悪さを覚えてしまうのだ。

そうした映画は「デュエット曲」を私に思わせる。たとえば先日、エレカシ宮本浩次椎名林檎がコラボした「獣ゆく細道」というデュエット曲が公開された。むちゃむちゃ格好いい曲なのだが、ことに私はエレカシのビッグファンなので、もしも宮本一人で歌った「獣ゆく細道」があるとすれば私はそっちを聴くだろう。

何事によらず半々というものが好きになれないのだ。

ピザにしてもそうでハーフ&ハーフはイヤだし、マンガやアニメに出てくる二人で一人みたいな一心同体キャラもイヤだ北斗の拳のライガ&フウガとか)

双子のタレントも嫌いだ。

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まぁ、我儘を言ってもしょうがない。

だがそんな私の好みを差し引いても、なお本作には不満が残る。

まずもって、ヴァネッサ・レッドグレイヴルーニー・マーラが同一人物とは思えない。「顔が似てない」といった表面的な話ではなく、いわば女優としての世界観がまるっきり異なるのだ。ヴァネッサとルーニーでは、色も匂いもまるで違う。したがって「このお婆ちゃんも若かりし頃はこんなに美しかったのかー」なんて二人の女優を地続きで捉えることができない。

通常、そういう場合は所作や言葉遣いを同調させることで同一人物感を出すというのが演出の定石。たとえば髪を触る癖があるとか、お気に入りの言い回しがあるとか、まばたきや歩き方に特徴があるとか。

なんもねえ。

だから同一人物とは思えず、過去から現在に至る40年越しの想いがまるで繋がっていないのである。おそらくヴァネッサとルーニーとの間で役の擦り合わせが出来ていなかったのだろう(たぶん製作の遅れが原因)。

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夜なべしてルーニースペシャルフォトを作りました。堪能すルーニー

 

◆戦闘機流のア・イ・シ・テ・ル◆

過去のシーケンスでは、第二次大戦でアイルランドの保守的な田舎町に疎開してきたルーニーが町の男たちに色情症扱いされて精神病院にぶち込まれるまでの不幸続きを描いているのだが、各描写がいちいち呑み込みづらい。

美女ゆえにモテまくりのルーニーは、テオ・ジェームズ演じる牧師や、ジャック・レイナー演じる酒場の男、さらにはIRAアイルランド共和軍の一員に言い寄られて、山本リンダ「こまっちゃうナ」を歌わずにはいられないほど困惑してしまう。

そんな折、酒場のジャックが「パイロットになるんだ!」といってイギリス空軍に入隊。戦闘機でルーニーの頭上スレスレを飛び抜けて(危ねぇだろバカ!)、大空できりもみ回転して「これが戦闘機流のア・イ・シ・テ・ルのサインじゃあー」などと昭和まるだしのアプローチをしたが、それを見たルーニーは「へー」なんつってドライな反応(ルーニー・マーラって無表情だしね)。

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戦闘機でルーニーの頭上すれすれを飛ぶジャック。1メートルずれてたらルーニーの首が飛んでいたギリギリのラブゲーム。

 

ところが、あんなにイキって「ア・イ・シ・テ・ル」とかやってたジャックが一瞬で撃墜される。

ジャック(笑)

しかもその戦闘機はルーニーの家の真ん前に墜落し、すぐ近くの木にジャックが引っかかって生死の境を彷徨っていた。あんなにイキって「ア・イ・シ・テ・ル」とかやってたジャックが。

ルーニー「あ、ジャックが木にぶら下がってる!」

もう意味がわからなすぎて。

まずもってジャックは誰に撃墜されたのか。ドイツ爆撃機アイルランド誤爆したことはあっても、その上空で撃墜されるほどドイツ軍が侵攻していたなんて話は聞いたことねえぞ。

そしてルーニーの家の前に墜落するという奇跡。

話が出来すぎなんだよ!

ジャックを家に連れて介抱したルーニー「私もア・イ・シ・テ・ル!」と言ってジャックと結ばれ、子を授かる。ルーニーはいつジャックのことが好きになったのだろう?

ジャックがイキって「ア・イ・シ・テ・ル」ってやってたときも、おまえ、「へー」つってドライな反応してたやないか!

もう何が何だかさっぱりわかりません。

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いつの間にか結ばれてア・イ・シ・テ・ルのキス。はいはい美談美談。やっとけやっとけ。


◆せっかくの美味しい設定を…◆

一方の現在シーケンスでは、年老いルーニー、つまりヴァネッサが精神科医のエリックに40年前の過去をベラベラ喋りまくる。

戦闘機流のアイシテルをされて死にかけたこと、ジャックと愛し合って身ごもったこと、ジャックがIRAの連中に殺されて生まれたばかりの子供まで取り上げられたこと、その黒幕がジャックを選んだことに嫉妬した牧師だったこと。そして牧師の陰謀で精神病院に入れられて現在に至ること…。

この40年間、ヴァネッサは精神病院で拷問を受け続けたことで、幻覚と幻聴、それに記憶障害まで起こすほど精神が壊れてしまっている。邪悪な院長は「あの婆さんの言うことを真に受けてはいけないよ。妄想症だから」とエリックに言う。

であるならば、ヴァネッサの昔話が嘘かもしれないというミスリードで話を盛り上げるのが定石でしょうにィィィィィィィィィィィィィィィィ。

せっかく「言ってることが嘘か本当か分からないようなキャラクター」という美味しい設定にも関わらず、劇中で語られるヴァネッサの昔話はすべて真実なのだ。

真実しか語らないなら「言ってることが嘘か本当か分からないようなキャラクター」という設定自体がいらないわけで、ひいてはヴァネッサを記憶障害や妄想症へと至らしめた「精神病院での拷問」というプロットまで不要になってしまう。つまり本作の存在理由の半分近くが失われてしまうのだ。

 

また、ヴァネッサの生き別れた息子は誰なのか? という超どうでもいいドンデン返しが用意されているが、たぶんこれを読んでいる人なら大体察しがつくよね(わざと察しがつくように書いてますから。消去法で男性キャラを絞っていけばいいだけです!)

映像や演出面でも別段気の利いたことをしているわけではないので、映画が進むに従って徐々にボーっと見るようになってしまう。最初の1分で「この娘の限界はこの程度か」と見限ったものの一応最後までオーディションに付き合うアイドルプロデューサーのように。

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ヴァネッサ婆さんの話を聞き続けるお医者先生エリック。

 

◆とはいえ話◆

とはいえルーニー・マーラである。

はっきり言って本作でのルーニーの演技プランは間違っている。ヴァネッサの若かりし頃を演じるのであればもっとヴァネッサ・レッドグレイヴという女優を研究して彼女が演じる「現在のヒロイン」に合わせるべきだろう。

ダメだぞ、ルーニー

いけないぞ、ルーニー

とぉはぁいぃえぇぇぇぇ!!!

ルーニー・マーラルーニー・マーラとして絶対視した場合に限り、本作におけるルーニー・マーラは非常にマーラマーラしている。わかりますか、このリロン。

相対的に見るとまるでダメだが、絶対的に見るとまるっきりルーニー! まるっきり最高!ということである。リロンわかる?

ルーニーのパッキパキに見開いた眼は怖さと紙一重の美しさを体現しているし、なんといっても現代より前時代を舞台にした作品でこそよく映える女優だ『キャロル』は50年代、『セインツ 約束の果て』は70年代)。また、シーンによって細やかに変化するヘアスタイルも髪型評論家としては見逃せまい。

そんなわけで、「とはいえルーニー・マーラは最高」という非常に歯切れの悪い結論に軟着陸して候。

きりもみ回転していたのはジャックの戦闘機ではなく私のルーニー愛でした。

いま、大空に描くよ。ア・イ・シ・テ・ルのサイン!

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あーあ、評論として墜落してるな、こりゃ…。

木にぶら下がってきます。

 

 

タナーホール 胸騒ぎの誘惑

ルーニー&ラーソンの共演作なのに缶コーヒが全部かっさらって行きよったでぇ。

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2009年。フランチェスカ・グレゴリーニ、タチアナ・ボン・ファーステンバーグ監督。ルーニー・マーラジョージア・キング、ブリー・ラーソン、エイミー・ファーガソン

 

フェルナンダは、ニューイングランドにある全寮制の女子校タナー・ホールで最終学年を迎える。彼女は仲のいいケイトやルーカスタらと楽しく過ごしていたが、幼なじみのトラブルメーカー・ヴィクトリアが入寮してくる。ヴィクトリアの奔放な行動に刺激され、フェルナンダたちの生活も変わりはじめ…。

 

おはようございます、おまえたち。めっきり寒くなってきたように感ずるわぁ。

今月の27日に、先月のスットコドッコイ台風で繰り越しになった餃子パーティーを開催する予定なので、この日は確実に更新をお休みします。

とはいえ、またくだらないハプニングが起きて予定が先延ばしになるかもしれないけど、たとえそうなっても27日は更新しません。意地でも更新しない。テコでも更新しない。むかつくから。「また予定が飛んじゃって時間ができたので更新します」とか神に誓ってしません。そんなことをするぐらいなら死んだ方がマシだ。

 

というわけで今回は『タナーホール 胸騒ぎの誘惑』 という、大好きなルーニー・マーラ主演の映画です。ちなみに次回もルーニー・マーラの主演作を取り上げます。プチルーニー祭りを楽しんでいってください!

まぁ、貶してるんですね。

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いちばん背が低いのがルーニーやで!


◆あたかもいない、みたいなダマしはやめろ◆

ルーニー・マーラブリー・ラーソンが女子高生を演じた女子寮青春映画と聞いて「そんなわけアルカイダ」と思った。ルーニー・マーラは33歳だし、ブリー・ラーソンは29歳。日本の映画やドラマならまだしも、アラサーに女子高生を演じさせるほどアメリカ映画はトチ狂ってはいまい。

映画は全寮制の女子校へと向かうルーニー・マーラの横顔に始まるが、あり得ないほど顔が若い。それもそのはずで、本作は2009年の作品だったのである。

そう、これはルーニー・マーラドラゴン・タトゥーの女(11年)でタトゥタトゥしたり、ブリー・ラーソン『ショート・ターム』(13年)タムタムする前の無名時代に出演したインディーズ映画なのだ。

そんな本作が今年7月にようやく日本公開されてDVDになった。その間じつに丸10年である。おっそ。いわばとうに死んでしまった作家の初期作を「生誕100周年を記念して今だから言うけど、実はこんな作品もありまんねん」つって今さら発表されたときのような複雑な心境だ。

嬉しいけどもっとはよ出せや、という。

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ルーニー・マーラ(右)とブリー・ラーソン(左)。

 

また、日本版のポスターやスチールを見る限りではルーニー&ラーソン演じる親友二人組の映画のように思うが、実際は女子4人組の話である。

ちなみにこちらが日本版ポスター。

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「ポスターに4人全員映すより売れっ子2人だけに絞った方が訴求力あるでー」という配給会社のカスどもの邪悪な思惑によってルーニー&ラーソン以外の残り2人があたかもいないみたいな売り出し方がされたのだ。

ダマしはやめろ。

無名とはいえエイミー・ファーガソンジョージア・キングもメインキャストなのだからしっかり映していけって話だよ。あたかもいないみたいな扱いはやめろ。

 

ちなみにエイミー・ファーガソンという女優はケイレブ・ランドリー・ジョーンズと瓜二つで、そのケイレブ坊は現在のマコーレー・カルキンに似ているため、鑑賞中に「誰これ。ケイレブ坊? カルキン坊? でも女子校の話だから女優だよね。だとしたら誰?」と軽度のパニックを起こしてしまった。失礼な話である。

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エイミー・ファーガソン(左)とケイレブ・ランドリー・ジョーンズ(右)。似てない? 


◆事情は事情、蛮行は蛮行!◆

さてそんな本作。

夏休みが終わって高校の寮に戻ってきたルーニーを、親友のラーソンとファーガソンが発狂しながら出迎えてくれた。この3人は異常に仲のいい発狂トリオだったが、彼女たちの寮にジョージア・キングという缶コーヒーみたいな名前の女が転入してくる。

缶コーヒーはルーニーの幼馴染みなのですぐに発狂トリオと打ち解けた。ところが幼馴染みのルーニーだけが缶コーヒーの本性を知っていたのだ。腹黒い性悪女ということを…。まさにブラック缶コーヒーだったのである。

 

まるでソフィア・コッポラみたいな映画だ。

全編に渡って青春を謳歌する少女たちの躍動感のみが無反省に刻まれている。走るJK、踊るJK、騒ぐJK、恋するJK…。

そうした少女たちの一挙手一投足をいかに瑞々しく切り取るかという篠山紀信じみた動機だけが先走った少女フェチ映画なので、当然シナリオには何の魅力もなく音楽の使い方もデタラメ。レズビアンを公言している監督フランチェスカ・グレゴリーニリンゴ・スターの義理の娘!)タチアナ・フォン・ファステンバーグを表現へと駆り立てるのは「映画」ではなく「少女」なのだろう。

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共同監督にして公私に渡るパートナー。

 

悪戯心から男性教師を誘惑するラーソン、絵を描くことが好きで面倒見のいいファーガソン、そして既婚のおっさんに恋してしまうルーニーのささやかな日常は、邪悪な缶コーヒーを輪の中に入れてしまったことで少しずつ毒に侵されていく。

校長各位をダマして門の鍵をゲットした缶コーヒーは、甘言を弄してルーニーたちを誘い、夜中に学校を抜け出して夜遊びに興じるのだ(のちにバレてどえらい目に遭う)。

これだけならまだいいが、缶コーヒーはルーニーと既婚親父の関係をめちゃめちゃに妨害し、実はレズビアンだったファーガソンの純情を弄ぶ。それでいて傍目には善人に映るような裏工作にも抜かりがないので、ほかの教師や生徒らは缶コーヒーのことをグッドなJKと信じて疑わないのである。こんなに邪悪な顔をしているのに。

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見るからに歪んだ心を持っていそうな缶コーヒー。アゴがすでに歪んでるからね。

 

だが、缶コーヒーがこんな人間になってしまったことには一応の理由がある。どうやら毒親に罵倒やネグレクトを受けて育ったことですっかり魂が穢れちまったんだと。

ルーニーは真夜中のシャワールームで缶コーヒーが泣いている姿を目撃して「こいつもこいつで色々と苦労してるのね…」などと同情を寄せる。

あぁ、出た…。

嫌いなんですよ、このパターン。

「最低なキャラだけどこの人なりに事情がある」とか「元を辿れば親のせい」というエクスキューズで観客の同情心をあおって蛮行の数々を帳消しにする…みたいなゴリ押しのフォロー。

さんざん他人を傷つけた蛮行に事情もヘチマもあるかい!

たしかに缶コーヒーをこんな人間にしたのは毒親かもしれないが、蛮行の数々は缶コーヒーの意思でやったことだから、それとこれとは話が別。ましてや罪が帳消しになるわけもない。事情は事情、蛮行は蛮行である。

腹立つ。もう金輪際 缶コーヒーなんか飲むか!

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缶コーヒーのせいでほかの三人が割を食う。


ヴァージン・スーサイズとかが好きな人は観ればいいと思う◆

事程左様に、ルーニー&ラーソンよりも缶コーヒーが目立ってしょうがないという缶コーヒー中心の女子寮映画なのである。全部かっさらって行きよったでぇ。

ラーソンはシャレでたぶらかした男性教師をその気にさせてしまって辞職まで追い込むわ、ルーニーは初恋相手の既婚親父からヤリ逃げされるわ…と、けっこうブラックな映画です。缶コーヒーだけに。

 

映画的にもちょっとどうかなぁ。舞台がほぼ学内にも関わらずメイン4人以外の生徒がほとんど映らないという不思議な過疎現象が気になる。彼女たちが普段なにを考えてどんな一日を送っているのかということも描かれなければ、制服や小物といった美術にも特にこだわりを感じないのでオシャレ映画にもなっていないという。

ニューイングランドの寂寥感はよく出ているが、もともとニューイングランドアメリカ最古の地域なので誰が撮ってもサマになるという映画向きの土地である。誰でもおいしく作れるカップヌードルのように。

というか、この映画のニューイングランドの景色よりもグーグルで画像検索したニューイングランドの方がすてきだったりするわけだ。

 

ならば、かろうじて本作を擁護しうる要素がどこにあるのかと言えば、そりゃあやっぱり透徹した眼差しで女優陣を切り取ることに関してだけは他の追随をぜんぜん許さねーといった少女フェチ映画としての甘美さザッツオールである。ソフィア・コッポラヴァージン・スーサイズ(99年)とかが好きな人に見せてあげるとバク転するほど喜ぶかもしれない。

それにルーニー・マーラブリー・ラーソンの共演という、ただただ私が得をするだけのキャスティングも非常にありがたい。もしかしたらこの映画は私のことを狙い撃ちしているのかもしれません。わざわざ私のために作ってくれたのかも。どうもアリス。

ルーニー・マーラの儚くも奥ゆかしい翳りと、ブリー・ラーソンの輝かしい笑顔によろめき通しの95分でした。

惜しむらくは缶コーヒーが邪魔すぎる(最後まで邪魔だった)

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画面奥から、エイミー・ファーガソンブリー・ラーソンルーニーマーラ、そして缶コーヒー(ブラック)

 

 

レッドタートル ある島の物語

アニメ剥き出し、亀映画。

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2016年。マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督。アニメーション作品。

 

嵐で荒れ狂う海に放り出された男が、九死に一生を得て無人島に漂着する。男は島からの脱出を試みるが、不思議な力で何度も島に引き戻されてしまう。そんな絶望状況の中、男の前にひとりの女が現れ…。

 

どうもおはようございます。本日はsさんから頂いたリクエストにお応えしてレッドタートル ある島の物語を取り上げたいと思います。

過去に書いた評をまるっとコピペして申し訳程度に加筆修正しただけなので『シネ刀』でのマイルドな文体に比べて若干尖ってるうえに、文章的にも少し読みにくいかもしれません。サービス精神とか一個もないですから。

「それでもいいから載せろ。このハッピーへっぴり腰」と言われたので命令に従いました。sさんを怒らせると怖いからね。DVDケースの角で後頭部をカツカツ叩いてきますから。「カツカツやめて」と言っても、ずっとカツカツしてきますから。日がな一日。


ジブリファンの神経を逆撫でするようなこともチラチラ書いてるので叱られるかもしれないけど、まぁいいでしょう。レッツゴー!

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ジブリジブリファンの断絶◆

先に断っておくと、私は映画だけでなくアニメも観ているとは言え、決してアニメ好きと言えるような人間ではない。いわばアニメシーンを冷めた視点で観察している覆面調査員なのだ。

したがって、私にとってアニメとは「萌え」や「燃え」を提供してくれる世界に誇る日本のカルチャーではなく、あくまでカルチュラル・スタディーズ(文化研究)の対象なのである。

どうですか。すこぶる面倒臭いでしょう?

そんな面倒臭い私が昔からずーっと感じているのはジブリジブリファンは噛み合っていないということ。なんというか、曰く形容しがたい断絶を感ずるのである。

たとえば新世紀エヴァンゲリオン庵野秀明エヴァファンは、お互いについて深く理解し合っていると思う。さながら熟年夫婦のような阿吽の呼吸。

 

ところがジブリは市民権を得すぎたせいか、まったくといっていいほど理解されていない。宮崎駿が映画に込めた意味、あるいは高畑勲がすばらしく狂った人間であることについて、ジブリファンのみならず映画評論家でさえほとんど何も語らない(語れない?)。

そんな暖簾に腕押し状態に苛立ちを感じた宮崎駿は、分かりやすく呑み込みづらい『崖の上のポニョ(08年)で日本国民をアジったわけだが、返ってきた反応は「ポニョかわいい」とか相変わらずそんなレベル。

ついにぶち切れた宮崎駿ガキに媚びつつも意味深なファンタジーという従来のジブリ方程式を放棄し、「やってられるか」という引退宣言とともに風立ちぬ(13年)を作った。これは宮崎駿が誰に遠慮することもなく「俺の趣味」と「俺の性癖」を思う存分に詰め込んだ作品である。そういう意味で風立ちぬとは宮崎駿の『俺立ちぬ』なのだ。

そして、現時点でスタジオジブリ最後の作品になっているレッドタートル ある島の物語が2016年に公開された。

なんというか、行くとこまで行ったという作品である。

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ジブリ百パーセント◆

さて。スタジオジブリから出た久しぶりの傑作がオランダ人のマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィットというもはや覚える気さえ起きないような名前の男の手から生み出されたことについて、日本のアニメーション作家が何ら嫉妬も焦りも感じず、また日本のアニメファンが何の危機感も覚えていないとすれば、いよいよ動脈硬化した和製アニメに見切りをつけねばならないかもしれない。


いや、先に見切りをつけたのは鈴木敏夫である。

2006年のゲド戦記以降、ジブリが躍起になった後継者育成計画が結果として巨大な負債を生んでしまったことで、あれほど親族内継承に固執していたジブリは海外のアニメーション作家に望みを託した。というか救いを乞うた。

おもしろいのは、「望み」というのが興行的成功ではなく批評的成功に向けられていることだ。

海外アニメ特有の日本人が敬遠しがちな絵柄、寓意的で淡々とした内容、全編セリフなし、わずか81分というミニマムなサイズ…といった作品の諸要素。それに公開日のタイミングを考えても、ジブリ史上最もヒットポテンシャルとは無縁の反コマーシャルな作品として屹立する本作の裏には、いよいよジブリが日本の観客を見放したという好戦的な意趣返しが装填されている。


確かにこの内容では想像力が欠如したジブリファン(日本国民の約90%)の理解など望むべくもない。実際、本作は見向きもされずに散々な興行結果に終わった(もちろん鈴木敏夫にとっては想定内)。

とは言え、これがジブリが求道したアニメの在り方だというのなら、私は最大の讃辞を以て歓待するものよ!

「アップショットの連発」と「声優第一主義」に堕落した和製アニメを尻目に、ほとんど全編通してロングショットとセリフなしのストーリーテリングが浮遊的とさえ言えるアニメ体験を強要する本作には、かろうじて遠目から目視できる人物の身体運動を通してその場の状況や感情を豊かに表現し、天候や時間帯によって表情を変える孤島の大自然を切っ先のよいタッチで画面に乗せてゆく…という美技が冴える。

絵の精度やアニメーションとしての弾力。横移動を多用した構図と人物の動線。それらが濃密に、あるいは有機的にアニメーションと結びついていて、そうしたアニメの息遣いが非常に心地よい。きわめて純度の高いアニメ作品だと思う。

声優の人気が高まるにつれて必然的にセリフ量も増えてしまう…というのが和製アニメを堕落させた遠因のひとつだが(和製アニメがクールジャパンたりえた遠因のひとつでもあるのだが)、本作のようにセリフなしという制約を設けることで、かくもアニメは自由になれるのだと感心する。

レッドタートル』はいっさいの装飾や武装を捨てた剥き出しのアニメだ。

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ネット上では、カメの正体やその行動原理をめぐる考察が出回っている。男は何者で、島やカメは何の象徴なのか。

私の場合は、男を宮崎駿(に限らず、広く表現者と言ってもいい)に置き換えるとすべての辻褄が合い、筋が通りました。

「何しろ絵柄がムリ」、「こんなのジブリじゃないやい!」、「何しろマジきしょい」と不平不満を垂れて手前勝手な保守的感性の中で昔のジブリを理想化するあの頃はよかった病の馬鹿ピーマンたちは、くだらないことをガタガタ言う前にまず観てください。

『トトロ』しか観ないようなハッピーな親子とか、深夜アニメしか観ないようなハッピーな萌え豚にはあまり響かないだろうが、ただ絵が動いていることに対して原初的な快楽を感じられる人にとっては極上の一品になるかもしれないし、ならないかもしれないのだ。

 

それでなくとも、この作品はジブリ百パーセントである。あまりにシンプルな物語の内奥に潜む「豊かな寓意」に心地よく振り回される…という楽しみ方こそがジブリの精髄なのだから。

…でも、だからこそ、日本、フランス、ベルギーの三ヶ国合作で、オランダ人のアニメーション作家がこれジブリ百パーセント)を作った…という事実がむず痒くもあり。

本来なら宮崎五郎米林宏昌がこれをやらねばならなかったのだが。

 


追記
べつにアニメ好きでもジブリ好きでもない私は、近年ようやく宮崎駿のすごさに気づき始めたかもしんない。

子どもの頃から当たり前のように天空の城ラピュタ(86年)魔女の宅急便(89年)を観てきたが、その「当たり前」をやろうとして五郎とか米林がバタバタ討ち死にしてるんだから!

 

スタジオジブリの30年間は数々の名作を生みだしたが、それと同じだけ死屍累々も築いた。まぁ、当たり前の話だが。血を流さずして表現などあり得ない。

 

八月の濡れた砂

「気だるげな空気を演出すること」と「気だるげに撮ること」は違うからね?

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1971年。藤田敏八監督。広瀬昌助、村野武範テレサ野田、藤田みどり

 

藤田敏八監督が、若者の持つけだるい感性をスピード、セックス、バイオレンスによって描いた異色青春ドラマ。ギラつく真夏の湘南、高校生・清は不良学生に暴行を受けた少女・早苗を目撃し、やがて彼女とつるむようになるが…。(Amazonより)

 

みんな、おはよぉぉぉぉ。みんな、おはよぉぉぉぉぉぉぉぉ。

クソ昔の日本映画ばかり取り上げてみんなを苦しめる作戦だったけど、かえって私が苦しくなってきました。

日本映画特集、飽きてきた。

端的に言って。

もうええっすわぁ。堪りませんわ。

だって、何日目やのん、これ。今日で6日目でっせ? もうええっすわぁー。そろそろしつこいわぁ。どの映画もおかめ納豆みたいな女優ばっかりだし(志麻ちゃんは別)

そろそろ西洋の風に当たらせてぇなぁ。頼んますわぁ。

とはいえアクセス数はまあまあ好調なんですよ。みんな凄いと思うわ。古い日本映画なんて、たぶん多くの人にとってはまったく興味ないだろうに、わざわざ(いちいち)目を通してくれて。

偉いなぁ。凄いなぁ。グローリーだよ。チャンピオンだよ!

何に勝って何を手にしたのかは分からないけどチャンピオンだよ!

 というわけで明日からは海外映画も取り上げつつ、なし崩し的に通常営業に戻していくという感じで参ります。

本日取り上げたるは八月の濡れた砂です。特にどうってこともない映画なので読まなくていいですよ。

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◆50年代イタリア映画のような青春無軌道映画◆

1971年。斜陽化した日活が経営を立て直すために日活ロマンポルノという新体制でエロを全面に押し出した。本作八月の濡れた砂はロマンポルノに移行する前の日活最後の作品である。

監督は修羅雪姫(73年)『スローなブギにしてくれ』(81年)藤田敏八。日活ロマンポルノを手掛ける傍ら、沢田研二山口百恵のアイドル映画も監督するというわりと節操ない人

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『キル・ビル』(03年)に影響を与えた修羅雪姫梶芽衣子(左)と『スローなブギにしてくれ』浅野温子(右)。

 

さて、本作は真夏の湘南を舞台にしらけ世代の気だるく無軌道な青春を描いたインモラル・ムービーである。

将来の夢も生きるよすがもない広瀬昌助は、高校を退学処分になった悪友・村野武範とつるみ始めて自己破滅的な夏を謳歌する。悪いやつらに輪姦されて海辺に捨てられた少女・テレサ野田と出会った広瀬は、彼女の姉の藤田みどりが生意気だから犯そうとする。村野はよく喧嘩をして空き地でヤクザにしこたまど突かれた。

やくざに負けた村野は「チクショー」と思って、母の再婚相手からクルーザーとショットガンを奪い、広瀬とテレサとみどりを乗せて大海原へ。

「海賊王に俺なっちゃう」

ところが、ふざけて撃ったショットガンが船体に穴を開け、あっという間に船内は浸水。若者たちは「どうしたもんかなー」と途方に暮れ、やがて死を覚悟した。おわり。

 

実に人を食った映画である。

内容などあってなきが如し。これぞ無軌道。これぞ無作法。正真正銘のインモラル・ムービーだ。

藤田敏八は映画を撮るのではなく時代を撮る監督だ。70年代の匂いを真空パックした本作は、もっぱら「夏」とか「湘南」といった季語的映像だけで紡がれた感覚派の作品と言えるだろう。

おそらく本作がベースにしているのは1950年代のイタリア映画。50年代のイタリア映画には『青春群像』(53年)『狂った夜』(59年) のように、若者たちの無軌道な生活を描いた頽廃的な作品群が跋扈していたのだ。ある種のピカレスク・ロマンと言っていいかもしれない。不道徳かつ無反省。そして、あたかもそれがモラトリアムの美徳であり、若者の特権だとでも言うかのように開き直る、救いがたきヤングたち…。

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レイプ被害に遭って海辺ですんすん泣くテレサ野田

 

断崖から海に飛び込むさまが自殺願望を表象していたり、こじらせ童貞・広瀬昌助と不思議な姉妹の関係性が村上春樹の小説におけるポストモダンな人的ネットワークを連想させたりと、70年代という混沌の中で変容していくもの(生き方、人付き合い、生活環境etc)をサラッと掬い取っていて、良い意味で引っかかるところが多い作品だ。

広瀬と村野が招かれた姉妹の家には偶然にも泥棒がいて、そのあと取り押さえた泥棒の処遇をめぐって4人が議論するシーンが少しおもしろい。姉のみどりが「今回だけは許します」といって縄をほどいてやると、泥棒はみどりを突き飛ばし「ばか」と言って逃げていく。

なんとも無情。かくも70年代とは義理や人情が失われ、正直者が馬鹿を見る時代なのか。

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本作で女優デビューしたあと歌手デビューも果たし、しまいにはロックバンドを結成したテレサ野田


◆そのまんまなんだよ!◆

おっと、先にこれを言わねばならなかった。

駄作です。

鑑賞中、私は3回居眠りして1回熟睡した。とても気持ちよかった。翌日改めて観返したが、そこではっきりと結論した。こりゃ駄作だ。

これは本作に限らず無軌道な若者を描いた映画にありがちなのだが、気だるげな空気を演出すること気だるげに撮ることを履き違えた作品が多い。とにかく多い。

こないだ酷評した『ソルジャー・ボーイ』(72年)などまさにそうだが、無気力・無軌道な若者の青春を描くために無気力・無軌道にカメラを回しただけ…という、端的に間違った態度で作られた映画が多いのである。

たとえば、やる気が感じられないオフビートな映画。

たとえば、何も考えてないような勢い重視のロック・ミュージック。

あるいは、行き当たりばったりの漫才。

言うまでもないが、そういうものはすべて計算尽くの創意によって作られている。

観客に「やる気が感じられない」と思ってもらえるようにやる気を出して作ったのがオフビートな映画であり、リスナーに「勢いだけで何も考えてない」と思ってもらえるように色んなことを考えながら作ったのが勢い重視のロック・ミュージックであり、行き当たりばったりの面白さを表現するために用意周到な台本で臨むのが漫才なのだ。

テレビのお馬鹿タレントは馬鹿を装っているし、天然キャラで通っている人は天然を演じている

ホンモノの馬鹿が馬鹿なことをしたら、そりゃただの馬鹿だ。

要するに、気だるげな物語だからといって気だるげに撮った本作はただの馬鹿だ。

そのまんまなんだよ!

無味乾燥なんだよ!

 

本作は、人生に何の価値も見いだせずに日々ダラダラしている若者たちが自己破滅に向かっていくさまをダラダラした画運びで見せている。「ただ撮った」というような何の情感も興趣もない退屈なショット、何の狙いも拘りもない弛緩したカット、べつに湘南でなくともいいような杜撰なロケーション。

無論、海風になびく女優陣の髪がモラトリアムの免罪符になることも、破滅に向かってかっ飛ばしたバイクの排気音が主人公の心の叫びを代弁するといった「映画的な瞬間」もここにはない。

なびく髪はただなびく髪として、排気音はただ排気音として、それ以上に何ら意味を持つこともなくフィルムへと還元され、われわれの目耳に届けられるだけである。

そのまんまなんだよ!

無味乾燥なんだよ!


もっとも、「それが藤田流」と言われれば「それが藤田流か!」としか言えないのだが、ちょっとこれはあまりにお粗末でした。

関係ないけど、海で遊んでるような連中が嫌いです。泳いだり、ナンパしたり、ビーチボールを変なとこに飛ばしたり。そういう奴らはだいたいバカみたいなサングラスをかけて車内でEDMとかレゲエを聴いたりしているのだ。

サメに食われろ!

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こういう連中はいつの時代にもいるのか。いらいらする。

日本春歌考

 ずっと「ヨサホイ節」歌ってるホイホイ映画の金字塔。

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1967年。大島渚監督。荒木一郎、岩淵孝次、田島和子、小山明子伊丹一三

 

豊秋は大学受験のために上京してきた高校生四人組の一人だ。彼は試験場で出会った女生徒の名前を知ろうとするが失敗。その帰り道、高校の恩師である大竹が女と歩いているのを見かける。豊秋たちはクラスメートの女生徒たちとともに大竹を訪ね、そのまま居酒屋へ。そこで大竹は唐突に春歌を歌い始めた。(Yahoo!映画より)

 

昨日の朝、Twitterでフォローしている渋谷あきこ様という方からダイレクトメッセージを頂きました。「ふかずめさん、はじめまして。」なんて来るから「はじめまして!!! ふかめです!」といって挨拶がてら訂正させて頂いたあと、「いつも読んでます」、「実にアリス」みたいなやり取りをしました。有難いことです。朝っぱらからダイレクトメッセージを頂いて。何らかの冥利に尽きます。

あきこ様とやり取りさせて頂いたことで、改めて思ったことが2つほどあります。

 

ひとつは「ふかづめ」という名前。覚えにくいというか、表記しづらいよな

はじめてKONMA08さんとやり取りさせて頂いたときも、KONMAさんは毎回「ふかずめさん、ふかずめさん」と仰ってて、内心わたしは「『す』に点々やのうて『つ』に点々や」と思ってて、ついに痺れを切らせて「ふかめです!」 と半ギレで訂正したところ、KONMAさん、「お~ん。ほっほ~」などとわけのわからぬ反応。ほんまに分かっとんのかい、このおっさん。

でも、確かにややこしいよね…。もう「ふかずめ」でも「ふかづめ」でもどっちでもいいよ。なんだったら「ぬかづけ」と呼んでくださいよ。僕自身、人の名前をよく間違えるし。未だにヒダマルさんのことを火だるまさんと思い込んでるし。

 

で、ふたつ目は…

えー

ふたつ目、忘れてもうた。

もういいっす。思い出したら次回言います。

それではレビューに参るとしませう。本日は『日本春歌考』で御座いますよ。

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渚にまつわるエトセトラ

大島渚といえば札付きの学生運動家あがりの怒れる監督だ。

京都府学連委員長として政治の季節をワーッと駆け抜けた大島は、京都大学卒業後に松竹にワーッと入社し、怒れる若者の姿をヌーヴェルヴァーグのようなタッチでワーッと映画にした。『日本の夜と霧』(60年)安保闘争を描き、『東京戦争戦後秘話』(70年)では行き詰まりを見せた全共闘運動の寒々しさを実験的な手法で表現したのだ。

 

カタい話はよそう。

一般的に大島渚といえば「パーティー会場で野坂昭如に右フックを喰らってマイクで殴り返した人」であり、戦場のメリークリスマス(83年)の撮影中になかなか思うような動きをしてくれないトカゲに業を煮やして「おまえ、事務所はどこだ!」と怒鳴った人である。

あるいは新世紀エヴァンゲリオンに登場する渚カヲルの名前の由来としても知られている。

ちなみに、劇場版新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に(97年)のラストシーンは、本作『日本春歌考』のラストシーンをなぞったもの。どちらも男が女の首を絞め、女が謎めいた言葉を発して唐突に映画が終わるのだ。

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大島渚といえばランキングTOP3。


◆「ヨサホイ節」とは政治に対するカウンターである

本作は、春歌「ヨサホイ節」が全編で歌われる民謡ミュージカルという、かなり奇妙な前衛映画である。

大学受験のために上京してきた4人のノンポリ男子高校生が、試験場で見かけた受験番号469の女学生を性的空想の対象にするところから物語は始まる。男4人組は同じ学校の女子3人とともに教師の伊丹十三*1に連れられて居酒屋に赴くが、そこで教師は急に「ヨサホイ節」を歌い始めるのだ。

 

一つ出たホイのヨサホイのホイ ひとり娘とやる時にゃホイ 親の許しを得にゃならぬ ホイホイ♪

二つ出たホイのヨサホイのホイ ふたり娘とやる時にゃホイ 姉の方からせにゃならぬ ホイホイ♪

三つ出たホイのヨサホイのホイ みにくい娘とやる時にゃホイ バケツかぶせてせにゃならぬ ホイホイ♪

 

このような破廉恥でどうしようもない歌がひたすら続く。

この教師は生徒の前で春歌を歌ったりビールを飲ませるという実にデタラメな男なのだが女生徒たちからは大層モテており、悶々とした性的フラストレーションを抱える男4人組はこの教師を憎みながらも「ヨサホイ節」に取り憑かれていく。

「あの教師は嫌いやけど『ヨサホイ節』はええ曲やないか」

教師に教えてもらった「ヨサホイ節」が瞬く間に彼らのマイ・フェイバリット・ソングになったのだ。

居酒屋を出た一行は旅館に泊まるが、泥酔した教師がストーブをつけたまま眠ってしまい、男子学生のひとり荒木一郎がそれに気づきながらも見殺しにしたせいで、教師は一酸化炭素中毒で死んでしまう。

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ファーストシーンから思っていたが、このタイミングで言おう…。

なんの映画やねん、これ。

男子学生4人組が「ヨサホイ節」にどハマりして教師を間接的に殺す(←今ここ)。

狂ったように「ヨサホイ節」を歌いまくる4人は、自分たちでアレンジを加えたり歌詞を変えるなどして徐々に曲の精度を高めていく。まるでCD音源ではそれほどでもないがライブで繰り返し演奏する中で少しずつ磨かれて味わいが増す曲のように。エアロスミス「Dream On」とか。

どんな映画やねん。

 

この映画をミュージカルと称したのは、劇中でさまざまな人間たちがさまざまな曲を歌うからだ。右翼の歌う軍歌、左翼の歌う労働歌、新左翼の歌う革命歌、ヒッピーかぶれが歌うフォークソングアメリカンポップス…。

そうした政治的文脈の中で歌われる曲に対抗するように、4人は「ヨサホイ節」というナンセンスな春歌によって政治的言論空間を茶化すのである。

実際、教師が居酒屋で「ヨサホイ節」を歌っている後ろでは右翼たちが軍歌を合唱していたし、荒木少年が死んだ教師の通夜で左翼が熱唱する労働歌を邪魔するように「ヨサホイ節」を大声で歌ったことで取っ組み合いの喧嘩に発展する。

本作で扱われる「ヨサホイ節」とは政治的無関心の象徴であり、空虚なノンポリ学生たちのテーマソングなのである。

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駅の階段で煙草を吹かすノンポリ学生4人組。どうしようもないやっちゃ。


◆アングラ節全開◆

4人は試験場で見かけた受験番号469の女学生を空想の中で輪姦する。

このシーケンスがとても不思議な撮り方をされていて、4人全員が空想のイメージを共有しているのだ。1人が教壇の上で469を犯している最中、残りの3人がその様子を眺めながらブツブツと雑談に耽り、行為を終えて戻ってきた男が次の男と交代して、また3人で雑談に耽る…という空想。

まるで複数の人間が同じ夢を見ているような状態で、個人作業であるはずの「妄想」が奇妙なネットワークを形成してシェアされる…というクローネンバーグのごときシュルレアリスティックな映像世界が展開されるのである。もうわけわかんねぇ。

 

そしてクライマックスでは、憧れの469と初めて顔を合わせた4人が「僕たちは空想の中でキミを犯した」なんて言わなくていいことを言うと、あろうことか469は「現実世界でも同じことができるかな?」と言って、4人を大学の試験場に連れていき教壇の上で裸になる。

思いがけず空想が実現してしまったことにたじろいだ4人は、しかし「ヨサホイ節」で己を鼓舞しながら順番に469を犯そうとした。だが、荒木少年が興奮しすぎて469の首をグイグイ絞めはじめ、仲間たちが「いや…趣旨違う、趣旨違う」なんて止めに入る間もなく、469はまったく聞き取れないほどの小声で謎の言葉を言い残して死んだ…。

もう一度言っておこう。

なんの映画やねん、だからこれ。

とりあえずこのラストシーンが新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君にに影響を与えた…ということはよく分かったが、このラストシーン自体の意味はさっぱり分からない。

ラストシーンだけでなく政治と性欲の二段構えという構成にも違和感を覚える。

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受験番号469を演じた田島和子がめっぽう美しい。

 

まぁ、それもそのはず。本作では心理の解釈を拒否するかのような無表情、あるいは無芝居が貫かれており、キャラクターの思考とか映画のテーマがまったく読み取れないように被覆されているのだ。

そもそも主演の荒木一郎の本職がミュージシャンであるように、大島渚の作品では演技経験のない素人や他業種の人間ばかりが起用される『戦メリ』ビートたけし坂本龍一デヴィッド・ボウイなど)

映像面も観念的なイメージのつるべ打ちで、観る者を煙に巻くアングラ演劇のような世界が広がっている。ソリッドな政治思想を持つ大島渚にしてはえらく夢遊病的な液状の作品なのである。

10年前に観ていたら確実にトラウマになっていたであろう青春アングラミュージカル。

とりあえず、耳に残った「ヨサホイ節」を忘れるためにハードロックを聴いてきます。

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*1:伊丹十三…俳優業もこなす映画監督。公使に渡るパートナーの宮本信子暴力団と戦うマルサの女(87年)ミンボーの女(92年)は大ヒットしたが、逆恨みした暴力団から報復を受けた。それでも映画を撮り続け、1997年に謎の死を遂げている。暴力団や宗教団体を敵に回すようなタブー上等のエンターテイメント作品を数多く手掛けた時代の告発者。

祇園の姉妹

当時の女性にはレリゴーする自由かてありゃしまへんのや!

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1936年。溝口健二監督。山田五十鈴、梅村蓉子。

 

義理人情に厚く男に従順な芸者・梅吉の元に、かつての贔屓客・古沢が破産して転がり込んでくる。しかし、打算的で気の強い妹・おもちゃは無一文の古沢のことが気に入らず、古沢を追い出してしまう。その後も何人もの男たちを手玉に取って金を搾り取ろうとするおもちゃだったが…。(Yahoo!映画より)

 

読者に対する嫌がらせ企画という狙いも含んだ日本映画特集、四日目で御座います。そろそろ厭になってきた読者も多いのでは!

しかしこの特集を初めてからというもの、なぜかアクセス数がぐんぐんに伸びているのである。どないなっとんねん。想定外の出来事ばかり起きやがって。伸びてほしいときにちくとも伸びずに、こんなどうでもいい特集のときだけここぞとばかりに伸びやがって。もちろん有難いことではあるけれど。

さて、この三日間で取り上げた三作品はいずれも戦後日本映画だったが、本日取り上げる祇園の姉妹は1936年の作品。戦前も戦前である。よってフィルムはボロボロ、音声ガサガサ。作り手ほぼ全滅。リアルタイムで観た人もだいたい死んでる。

だけどお気に入りの作品なのでちょっと語ってみたいと思います。よろしゅう頼んます。

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◆フィルム紛失を免れた貴重な一作◆

封建社会に抑圧された女性の生き様を、京都・祇園の色街を舞台に描き出した溝口健二の初期作。

一般に溝口といえばキャリア後期(50年代)の西鶴一代女(52年)雨月物語(53年)の人気が高いが、女性映画の名手として天下にその名を知らしめた転機となったのが中期、すなわち本作が作られた頃合である。

1936年の作品なのでフィルムはボロボロ、音も悪い。おまけに溝口映画はほぼ全編ロングショットの長回しだというのに、フィルムが劣化しすぎて役者の所作や着物の柄がもうひとつ楽しめない。それでも初めてこの作品を観たときの衝撃は、いま観返してもなんら減じることがないのである。

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ゴダールトリュフォーベルトルッチパゾリーニなどヨーロッパの巨匠たちにも多大な影響を与えた溝口健二

 

溝口映画のカメラマンは、30年代の作品を多く手掛けた三木稔と、50年代の傑作群を一手に引き受けた宮川一夫の2人が有名だが、その他にも大勢のカメラマンと組みながら唯一無二の映像世界を築き上げている。

おもしろいのは、これほどカメラマンを取っ替え引っ替えしながらも、あの長回し主義と極端に少ないクローズアップは強情なまでに押し通されており、どの時代の溝口映画にもある種の一貫性がみとめられる点だ(たとえば小津ならキャリア前期のカメラマン・茂原英朗と後期のカメラマン・厚田雄春とで映像文法そのものが根本から異なる)。

 

さて。祇園の姉妹を演じるのは山田五十鈴梅村蓉子だ。

山田五十鈴といえば現代劇より時代劇でこそ輝く昭和の大女優。

黒澤明蜘蛛巣城(57年)『用心棒』(61年)が有名だが、60歳を越えて銀幕を去ってからはテレビドラマに活躍の場を移し、『必殺仕事人』で三味線をべんべら弾くババアなどを熱演。約70年間に渡って活躍し続けた女優である。まさに仕事人。

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一方の梅村蓉子は『紙人形春の囁き』(26年)『唐人お吉』(30年)といった溝口作品で人気を得た女優だが、戦前の作品の多くが紛失しているため、溝口・梅村の戦前作品はほとんど観ることができない。物理的な意味で。

しかも1944年、つまりあと1年で戦争が終わるというタイミングで亡くなったため(40歳没)、梅村蓉子は当時の観客の記憶のなかでのみ生き続ける、文字通り「伝説の女優」になってしまったのだ(当時の観客も今や80歳以上なのであと10年も経てば伝説となり、20年も経てば全滅するだろう)

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※これより先はスーパー京都弁モードでお送りします。

いてもうたるで!


花柳界の闇を描いて祇園サイドにキレられた傑作

ほな、やりまひょか。

祇園の姉妹ゆうんは、当時の日本の空気を溝口的嗅覚で切り取って花柳界の内幕に落とし込んだ映画やけど、百花繚乱の芸妓ワールドとはいきまへん。

あては京都に住んでんねんけど、先斗町なんか歩いとりますと、よう外国人観光客が「ゲイシャ! ビュリホー!」ゆうたり、修学旅行生らが「舞妓ちゃん! かいらしなぁ!」ゆうて、えろぉ騒いだはるけど、本作はそないな輩に対して「騒ぐなカス」言うてるようなシビアな作品やねん。

「芸妓の上っ面だけ見て『かいらしい』だの『憧れる』だの言うんやあらへん!」ちゅうこっとす。

封建社会と折り合いをつけて賢う生きる古風な姉・梅吉(梅村蓉子)と、黙って男の言いなりになる生き方をよしとしいひん妹・おもちゃ(山田五十鈴)の対照的な性格の違いを浮かび上がらせることで、昭和初期における女性がかくも窮屈であること、ことに花柳界にあっては一層それが顕著やゆうことを、溝口はんは酷薄ともいえるリアリズムで活写しはったんどす。

 

そやかて、やっぱし、したたかな処世術で男たちを出し抜くおもちゃはえろぉ魅力的なんどすえ。

金持ちの旦那や呉服屋の番頭をたぶらかして贅沢三昧の暮らしを送るおもちゃの行動原理には、なんちゅうか、小悪魔じみた打算ちゅうよりも男に対する復讐が通底しとるんどす。梅吉と祇園を漫ろ歩くときかて、まるで芸妓としての矜持をわざと冒涜するように一人だけハイカラな洋服に身を包むねん。

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こういうこっちゃ!

 

せやけど、さんざん利用して赤っ恥をかかせた呉服屋の番頭から「このアマ!」ゆうて鉄拳制裁受けて大ケガ負うたおもちゃは、男尊女卑の不条理を涙ながらに嘆いて、芸妓ちゅう難儀な商売を腹の底から呪うんや。

要するに花柳界の華やかさやのうて残酷な現実を描いた映画なんや。

この痛ましいシーンを最後にいきなり映画が終わってまうことで、ルサンチマンの捌け口を失うた観客は「すっきりせえへーん」ゆうて文句垂れて、祇園花柳界「芸妓の映画っちゅうさかい撮影協力したったのに…ディスっとるやないか!」ゆうて、たいそう怒りはったらしいんどす。

せやけど、この残酷なリアリズムこそが溝口流なんや!

そこに文句言わはるのは、ちょっとかなんわぁ。堪忍したってぇなぁ。

 

今でこそアナと雪の女王(13年)が支持と共感を集めるようなリッパな時代やけど、この当時に男はんに一矢報いる痛快女性讃歌なんて淡き夢や。嘘っぱちや。

梅吉とおもちゃにはレリゴーする自由かてありゃしまへんのや!

ありのままの姿を見せたところで「生意気や」ゆうてシバき回されるだけなんどす…。そやさかい、自由のあらへん女たちの行き詰まりを雁字搦めのままに終わらせることで女をより深う表現する…っちゅう溝口はんの薄情な美学が儚い朝露のように輝くのや!

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男はんにしたたか殴られて大怪我を負ったおもちゃ。

 

「あてら芸者なんて、男はんに銭で買われて慰めものにされるだけなんやわ」

「おもちゃ」っちゅう自虐的な源氏名は、ともしたら自己破滅的な哀しみすら湛えたあるわ。男のおもちゃにされる自分自身をニヒルに嗤ろとんのかもしれへんなぁ…。

 

追記

「こないな古い映画は観いひん!」ゆう人には『舞妓はレディ』(14年)がおすすめどすえ。『おまはんの名は。』(16年)ゆうアニメ映画で声優やらはった上白石萌音だかカミキリムシ萌音だかの主演作やさかい、観たってや。えらいかいらしいで。

そらそうと、サラブレッド京都民とは思えへんぐらいハンパな京都弁になってしもて、えらいすんまへんなぁ。最後まで付き合うてくれておおきに。次回は口語文に戻るさかい堪忍しとくれやすな。

ほな、さいなら。

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ひゃあ、かいらしなぁ!