シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

教授と美女

ホークス&ワイルダーの天才二人が『白雪姫』を好き勝手に翻案したらこうなった。

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1941年。ハワード・ホークス監督。バーバラ・スタンウィックゲイリー・クーパーダナ・アンドリュース

 

ニューヨークのトッテン財団では、8人の学者たちによる百科事典の編纂が大詰めを迎えていたが、文法学者のポッツ教授がある俗語を耳にしたことから、これまでの努力が世間から隔絶していたことに気づき、街へ調査に出かける。そこで出会ったナイトクラブの歌姫、オシェイに協力を求めるが…。(映画.comより)

 

おはようございます!

今月頭に「12月は観たい映画を観て 語りたいように語る」と宣言した通り、依然ワガママなラインナップでお送りさせて頂いております。

「また白黒映画かよー」とお思いの方、安心してくださいね。まだまだ控えておりますので。

地獄は続く!!!

キミがッ、泣くまで、古典映画レビューを、やめないッ!

というわけで本日は教授と美女という最新作をレビュー。うううう、あがるぅー!

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◆元祖サークルクラッシャー

「ずっと観たかった映画TOP50」の39位ぐらいに長年輝き続けた教授と美女をついに観ることができたぞー。

どうもありがとう(握手していく)。

どうもありがとう(握手していく)。

赤ちゃん教育(39年)ヒズ・ガール・フライデー(40年)に続くホークス流スクリューボール・コメディ第三弾。

原題の「Ball of Fire」の通り、バーバラ・スタンウィックが火の玉のような女を演じ、お相手役は謹厳実直なゲイリー・クーパー。心躍る配役だ。


ニューヨークの財団が所有する館にこもって百科事典の編纂をしている8人の学者のもとにバーバラ・スタンウィック演じるストリッパーが現れる。言語学者ゲイリー・クーパーが事典作りのためにスラングを習おうして館に招いたのだ。

ところが、すっかりバーバラを気に入った7人の老教授たちは彼女とともにコンガの踊りに明け暮れるなどして、遅々として編纂作業が捗らない(バカばっかりなのだ)。

良かれと思って招いた助っ人がサークルクラッシャーだったという罠。

頭を抱えたクーパーはバーバラに館から去ってほしいと伝えようとするが、彼女へのほのかな恋心がそれを邪魔する…。うーん、ロマンティー

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100点満点のウインクだで!


さぁ、ここまでなら平凡なロマンティック・コメディなのだが、本作が米映画評サイトの大本命「ロッテントマト」における平均点が依然100点を保持している理由はバーバラがプリテンダーであるという筋の面白さに尽きる。

プリテンダー…すなわち詐称者、ペテン師、なりすまし。

実はバーバラはダナ・アンドリュース演じるギャングの愛人。殺人への関与が疑われているダナ公が雲隠れしている間、バーバラの方も警察の取調べから逃れるために身を隠さねばならず、そのために百科事典の編纂を手伝うと言って安全な館に飛び込んだのである。

そんなこともつゆ知らず、8人の学者はバーバラと親しくなり、保身のために彼女が色仕掛けしたクーパーはすっかり夢中になって婚約指輪まで贈る始末。

ニュージャージーでほとぼりが冷めるのを待つダナ公は、バーバラの父親のふりをして館に電話をかけて「今すぐニュージャージーに来い」と本人に伝えるが、バーバラから受話器を奪ったクーパーが「娘さんを僕にください!」と言ったので、クーパーの誤解をうまく利用したダナ公は父親のふりをして「ではニュージャージーで結婚式を挙げるといい。すぐ来なさい」といって体よくクーパーたちを運び屋に仕立て、バーバラをニュージャージに来させようとした。

そして当のバーバラは、気のいい学者たちを騙していることに罪悪感を覚え、はじめて自分を愛してくれたクーパーにも特別な感情を抱き始めるのだが…。

憂鬱げなバーバラと喜びいっぱいの学者8人を乗せた車は、ギャングが待ち受けるニュージャージーへと向かうのでありました。

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バーバラ・スタンウィック(左)とゲイリー・クーパー(右)。


◆なりすまし型の開祖 ビリー・ワイルダー

本作はハワード・ホークスの作品だが、あまりホークスホークスしていない。

それもそのはず。なりすまし型ロマンティック・コメディの開祖とも言える本作で、その脚本を手掛けたのがビリー・ワイルダーなのだから。

さすがにビリー・ワイルダーは説明不要だろうが、一応説明しておくと、ワイルダーサンセット大通り(50年)『情婦』(57年)アパートの鍵貸します(60年)などを手掛けたアメリカ映画の巨人で、たとえば我が国においても三谷幸喜という三流監督がワイルダーの真似ばかりしていて…

やっぱりやめる。

さすがにワイルダーを説明するのは阿呆らしいや。やってられるか!

 

だがこれだけは言っておかねばなりません。
ビリー・ワイルダーなりすまし型の名人である。

マフィアに追われる男2人が女の恰好をして女性楽団員になりすますお熱いのがお好き(59年)や、娼婦の恋人に売春をさせたくないヒモ男が自ら客になりすます『あなただけ今晩は』(63年)、イギリス軍の敗残兵がホテルに辿り着いて前日に死んだ給仕になりすましたものの実は給士はドイツ軍のスパイだった『熱砂の秘密』(43年)、そして本作…など、今でこそ腐るほどあるなりすまし型のフォーマットを築いた人物である。

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女装したジャック・レモントニー・カーティスウクレレ弾きのマリリン・モンローに恋しちゃうお熱いのがお好き。今でも十分通用する笑いのセンスと小粋な物語!


もともとワイルダーは脚本家上がりなので、彼が監督なり脚本を手掛けた作品はとにかく筋がおもしろく、多くの映画好きが求める「伏線」だとか「移入」だとか「洗練された台詞や笑い」に満ちている。

本作にしても111分というそう長くはない尺のなかで二転三転と話が転がっていき、ついには老学者たちがライフルをぶっ放すという予想だにしない事態にまで発展するのである。

ワイルダーの書く本はいわゆる綺麗でそつのないプロットではなく、領空侵犯ギリギリのトリッキーな変態プロットを、しかし軽妙洒脱に飛行させて然るべき滑走路に着陸させるのだ。観終えたあとに「粋!」と叫ばなかった映画がほぼ無いと言っていいほど、ワイルダーのプロットは粋の極み。

ワイルダーの脚本が素晴らしすぎて参るダーというギャグを開発したが、すでに誰かが言っている可能性が高いので胸の内に秘めておく(言ってしまっているわけだが)。

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駄作知らずの名匠、ビリー・ワイルダー

 

◆『マイ・フェア・レディ』に真っ向から対立する言語学者

大筋を思い返してもらえれば納得して頂けると思うが、本作は『白雪姫』の翻案。

舞台はニューヨークだが深い森に囲まれた館で、7人の老教授がバーバラを迎え入れる。7人の小人が7通りの性格を持っているように、老教授たちも数学や生物学といったように7通りの専門家なのだが、8人目の教授であるクーパーだけは歳が若く、背も高い。つまり王子様の素質を持った人物である…というのが本作のアレンジ。

また、「姫」であるバーバラがギャングの愛人でしかもストリッパーというあたりもアレンジが利いていておもしろい。

『白雪姫』の純潔さ、ゼロ!

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ディズニーに怒られるやつ。

 

もうひとつ面白いのは、たとえば言語学教授のレックス・ハリソンが花売りのオードリー・ヘップバーンの下品な言葉遣いを矯正するマイ・フェア・レディ(64年)が「女は女らしく」というジェンダーに従順であったのに対して、本作のクーパーもまた言語学者だが、無教養なバーバラから下品な言葉遣いを教えてもらう…というふうに主従関係が逆転している。マイ・フェア・レディ(嫌いな映画です)のように、はしたない女性を否定・矯正するのではなく「それも個性じゃん」といって受け入れる…というあたりが何とも気持ちよいのよねぇぇぇぇ。

個人的な話になるが、語彙収集と日本語研究を趣味に持ち、言葉というものに並々ならぬ関心を示している私にとって、まさにこの映画は我が意を得たりというか、言葉に対する基本姿勢がぴったり重なるのである。

私はマイ・フェア・レディのレックス・ハリソンのように言葉をぞんざいに扱う人を軽蔑してしまうのだけど、一方で本作のクーパーのように「くだらない俗語を知ることも大事」とも考えています。まじめな話の最中におかしな俗語や方言を紛れ込ませることのおもしろさ、あるいはわざと言葉を誤用することで自らが反面教師になるという道化精神…。

言葉の可能性は無限にあるし、その影響力は計り知れない。だって裁判みたいに言葉ひとつで人の生き死が決まることだってあるからね。


一方で、言葉を重んじる人間は「言葉の限界」も痛感している。

言葉をこねくり回すことで物事の本質から遠ざかってしまったり、文化・言語的な無理解とか、物理的な暴力の前では言葉などクソの役にも立たないのだ。

だからバーバラは分厚い本を積み上げて それを台がわりにしてクーパーとキスするのだし、クーパーは「言葉はいずれ死ぬものです」という名ゼリフを残すのだ。

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背が届かないバーバラは本のうえに立ってキスをする。


◆テーマやメッセージの物質化。そして廃棄◆

最後の章でようやくホークス論が展開できそうだ。ここまで読んでくださった方は、せっかくなのでどうか最後までお付き合いくださいね。

先ほど「あまりホークスホークスしていない」と言ったが、とはいえホークス。腐ってもホークス。私がこの世で最も敬愛する監督 ホークス。注意深く観ると至るところにホークスの足跡が残っています。


学者にとっての大事な本がキスのための台になってしまう。

まさにこれがホークスタッチなのだ。

キスのための道具にされてしまった哀れな専門書とか純文学の書物は、いわば学者にとっての矜持であり、知識であり、学問そのもの。いわばこの映画の主題を可視化したメタファーなのだが、そんな大事なものをホークスは何食わぬ顔で運動のための道具として消費してしまう。

 

映画後半には、館に押し入ったギャングが教授たちを銃で脅す…という緊迫したシーケンスがある。

ギャングの一人が壁にかけられた巨大な肖像画の真下にある椅子に座ってくつろいでいると、何かに気づいた生物学教授のS・Z・サカールが手元の顕微鏡をいじりながらダモクレスの剣について講釈を垂れる。

もちろんギャングは教養がないのでチンプンカンプンなのだが、周囲の教授たちは「ダモクレスの剣」が天井から糸で釣られた剣がダモクレスの命を奪いかけた…という古代ギリシャの故事であることを即座に理解する。

かくしてクーパーが学問漫談で時間稼ぎをしているあいだに、天窓から差した陽射しを顕微鏡で反射させて肖像画を吊っている紐を焼き切り、ギャングの頭上から肖像画を落として見事に気絶させたのである。

「彼らに事典を作らせた財的支援者の肖像画」と「研究のための顕微鏡」がギャングをやっつけるダモクレスの剣と化し、クーパーの言語学講義はそのための時間稼ぎとして利用される。

ホークス作品にあって観念的な主題」は「即物的な道具」として消費される。

どれだけ立派なテーマだろうが、大層なメッセージだろうが、すべてはとして可視化され、厳然たる運動力学のなかに組み込まれ、然るべき役目を果たして廃棄されるのだ。

ホークスは、テーマとかメッセージのような目に見えないもの(映画ならざるもの)に形を与えて映画に変えてしまう錬金術師だ。映画においてテーマやメッセージなど何の役にも立たないことを知っているからこそ、それを物質化して実際的な役割を与える…。

ハワード・ホークス映画というものを真に理解している数少ない作家の一人である。

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権威や学問といった高尚な主題群がコントのための道具として使い捨てにされる。これほど痛快なものはない。


本作にはたったひとつだけ息を呑むショットがあるので、その話を最後に。

ネジが緩んでドアのルームナンバーの数字がひっくり返ったことで、学者仲間が宿泊する9号室と間違えてバーバラのいる6号室に入ってしまったクーパーが、暗闇のベッドにいるバーバラを学者仲間と思い込んだまま彼女への愛を告白するという小粋なシーン。

ここではクーパーの告白を黙って聞き続けるバーバラの眼だけが暗闇に浮かぶ…という強烈なショットが無言のうちに二人のロマンスを結実させる。

およそロマンティックなシーンにはふさわしくない…、どちらかと言えばサスペンスに近いこのショットは、しかし思いがけず愛の告白を聞くことになったバーバラの心の震えを的確に表現していて、思わず観ているこちらも西野カナばりに震えてしまうのだ。

ちなみにこのショットは眼以外の顔の部分を黒く塗るというアイデアによって実現したもの。

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ロマンスとサスペンスの結婚。

撮影はグレッグ・トーランドという大家だが、彼については同年に手掛けた市民ケーン(41年)のカメラマンであるという一言に留めておけば十分だろう。

お茶目なバーバラと青臭いクーパーはもとよりジジイ7人もすこぶる可愛い、爆裂キュートな作品。

ワイルダーの脚本とトーランドの撮影、そしてそれをまとめ上げるホークス…という各部門の巨人が集結した最強の布陣でお送りする教授と美女。いまだに思い出し笑いと思い出し感心が止まらない、夢見心地の大傑作でございました。

観れて本当によかった。おれはなんて幸せな奴なんだ。

 

フェリーニに恋して

フェリーニごっこに終始。フェデリストなめんなよ!

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2016年。タロン・レクストン監督。クセニア・ソロ、マリア・ベロメアリー・リン・ライスカブ

 

男の子とキスをしたこともなく、働いたことも友人をもったこともない20歳のルーシーは、唯一の理解者である母のクレアに守られ、世間を知らずに育ってきた。ある時、母が末期ガンに侵されていることを知り、自立を決意したルーシーだったが、なかなかうまくはいかない。そんな折、きらびやかで怪しげな劇場でフェリーニの映画を見たルーシーは、すっかりその世界に心を奪われ、いてもたってもいられずフェリーニを探してイタリアへと旅立つ。(映画.comより)

 

 おはぼん。爆裂。

 本日取り上げるのは昨日の『グッバイ・ゴダール!』と似たような作品で、いわば映画監督についての映画です。その名もフェリーニに恋してフェデリコ・フェリーニですね。皆さん、フェリーニに恋してますか?

フェリーニといえば映画好きの人間がステージⅢでハマりだす監督です。

ちなみにステージⅠでハマるのはキューブリックタランティーノ

ステージⅡではイーストウッド、スコセッシ、リンチ、デパルマあたり。

ステージⅢになるとうわ言のようにフェリーニとかベルイマンとか言い始めます。

ステージⅣは完全に末期で、ルビッチとかアンゲロプロスにハマってみたり、侯孝賢のような中国語圏に手を出してみたり、「一周回ってヒッチコックとか言い出すわけです。

このことから分かるように、映画好きというのは立派な病名なんですよ。本来は趣味の欄ではなくカルテに書かれるべき言葉なのです。

ほな、フェリーニに恋していこか!

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フェリーニだけに『崖』から突き落とされたような気分◆

観るまえはウサギのように心が飛び跳ねていた。とっても楽しみだった。

本作はフェデリコ・フェリーニへの愛に貫かれたオマージュ映画という、ある種の人間の心をピンポイントでくすぐるような作品なので、「sさんハペちゃんにだけ分かってもらえればいい」というつもりで一歩踏み込んだフェリーニ論を展開しようと意気込んで鑑賞したのだが…

フェリーニの話をする暇もないほど映画としての瑕疵を論わねばならないという想定外の事態が発生。

したがって、sさんやハペちゃんのようなフェデリストにとってはまったく読み応えのない文章をぷんぷん怒りながら綴っていくことになる。フェリーニ論なんて書いてる場合やあらへん。やめじゃやめじゃ!


過保護な母のもとで純粋培養されたクセニア・ソロは、20年間ほとんど家から出ずに素晴らしき哉、人生!(46年)とかロミオとジュリエット(68年)のようなアメリカ映画ばかり観て育ったオレみたいな女の子

ある日、ふらっと入った映画館でフェリーニ『道』(54年)を観た彼女は、これまで慣れ親しんだハッピーエンドとは違う、生々しく不可解に作られたフェリーニの世界観に魅了され、フェリーニに会うために単身イタリアに旅立つ…。

概説がめんどくさいので公式サイトから引用すると、フェリーニファンにはたまらない、 16作品以上の名シーンへのオマージュ! 無垢な少女が『道』甘い生活8 1/2など名作の登場人物たちと出会いながら、ローマ、ヴェネチアヴェローナといったイタリアの美しい都市を巡る旅をする」映画となっている。

たぶんこれだけ聞くと、sさんのハートは爆裂ビートで鼓動し、ハペちゃんはウレションしたのちに「ハイテンショーン」と言い残して卒倒するだろう(彼の口癖です)

実際、私もそうだった。ウキウキしすぎて心拍数上昇→失禁→卒倒→ハイテンショーンのコースを辿ったのだ。


だがしかぁぁぁぁし。

この作品はわれわれ3人のようなフェデリストが8 1/2(63年)のラストシーンのように手をつないでランランランと躍りながら祝福するようなものではなかった。まぁ、sさんとハペちゃんがどう思うのかはわからないけどね。少なくとも私はそうだった。

まさに『崖』(55年)から突き落とされたような気分を味わったので、次の章ではその理由について懇々と述べる。

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◆怒リコ・ディスリーニ①◆

まずもって、「たまたまフェリーニにハマった女の子がイタリア旅行をする」という大筋以上のものがないこと。

たとえばゴダールオマージュに満ちた『グッバイ・ゴダール!』(17年)のように、ゴダールの人となりを詳らかにしたり演出を模倣するといった一歩突っ込んだ表現があればオマージュ映画としての値打ちもつくというもの。まぁ、『グッバイ・ゴダール!』に関してはゴダールの妻目線から描いていることに疑問を呈したものの、『中国女』(67年)から『東風』(70年)までの撮影秘話や私生活をスクープするという付加価値はあったのでね。

対して本作は なーんにもねえの

ただフェリーニ作品に出てくるザンパノとかトレヴィの泉がポンポンと登場するだけで、この映画独自のフェリーニへの眼差し(視点・論考・解釈)をいっさい加えておらず、ただ「乱痴気騒ぎ」とか「退廃的なローマ」といったフェリーニっぽい映像「こういうことすればファンは喜ぶんでしょ?」という志の低さで羅列されるだけ…。

フェデリストなめんなよ!

監督をアリアリ言いながら殴りたい。そしてすかさず「アリーヴェ・デルチ」と言いたい。

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だから、べつにフェリーニである必要がないのだ。

結局のところ、本作の売りはフェリーニ・オマージュではなくイタリアロケなんでしょ? だったらイタリアの映画作家であればロッセリーニでもヴィスコンティでも成立するんじゃないの? と。

ちなみにレビュー界隈では「うーん、いまいち。先にフェリーニの作品を観ていたらもっと楽しめたかも…」と反省して魂をしょぼしょぼさせているレビュアーが結構いたが「そんなことないよ」つって肩を叩いて慰めてあげたい。

守ってあげたい。

You don't have to worry, worry,

だってこの映画、フェリーニを観ていようがいまいが関係ねえもん。

むしろ、なまじフェリーニを観ているだけに怒りが収まらねえよ!

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フェリーニを観ている観客もフェリーニ的なファッション。

 

◆怒リコ・ディスリーニ②◆

構成がむちゃむちゃ下手くそということが言えると思います。

ヒロインのソロちゃんは俗世間から隔絶させた家で映画ばかり観て20歳を迎えたので、恋愛経験も職業経験もなく、一人では何もできない女の子。

良くいえば純粋、悪くいえば世間知らず。

これは彼女がフェリーニに惚れるきっかけとなった『道』におけるジュリエッタ・マシーナの役をモチーフにしているわけだ。

そんなソロちゃんが母親のマリア・ベロが末期癌であることを知って、自立せねばという思いからフェリーニに会うためにイタリアへと旅立つわけだが(自立=憧れの人に会いに行くという思考回路がよく分からないけど)、なぜか映画はベロ母ちゃんの妹であるメアリー・リン・ライスカブのナレーションによってベロ母ちゃんの出自から語られていく。

え、これってソロちゃんがイタリア旅行する映画でしょ?

ベロ母ちゃんの出自とかどうでもよくない?

そんなわけで、ソロちゃんがイタリアに旅立つまでが まぁ~~~~長い。「この娘、いつになったらイタリアに行くんだろう?」と思うぐらい、待てど暮らせど旅立たねえの。その間 40分ぐらいですかね。

さっさとイタリア行けよ!

パスタだったら伸びきっとるぞ!

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ベロ母ちゃんと一緒に映画を観てるソロちゃん。はよイタリア行け。


そしてようやくイタリア旅行が始まると、例によって浅っさいフェリーニ・オマージュが白々しく繰り返されるのだが、オマージュシーンのあとに実際のフィルムをいちいち流すという答え合わせの無意味さにグラッツェ

たとえば、ソロちゃんが迷い込んだナイトクラブで半裸の女たちが騒いでいるシーンのあとに、それと似たようなサテリコン(68年)のワンショットが引用される…という具合に「似てるっしょ? 似てるっしょ?」という作り手の再現自慢&答え合わせに付き合わされることになる。

一言いいですか。

野暮っ。

通常、オマージュシーンというのは目配せと同義である。わかる人にだけ察知できる合図。また、わからない人もわからないなりに「あ、今のは何かのパロディなのかな?」と感じるようなさり気ない引用であって、その都度元ネタを披瀝するなど下品の極み。

そもそも答え(元ネタ)を示したところで、観客が元ネタを知らなければ結局意味がないのだし。意味のわからない映像が二回続くだけだよ!

したがって本作は、オマージュ→本家の映像→オマージュ→本家の映像が無反省に繰り返されるので、これはストーリーテリングの妨害でしかなく、手際が悪いと断じざるをえない。

この際 もう言ってしまうが…

オマージュでもパロディでもなくフェリーニごっこに興じてるだけ。

監督をボラボラ言いながら撃ちたい。そしてすかさず「ボラーレ・ヴィーア」と言っていきたい。

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◆映画を無国籍化したソロちゃん◆

このまま地滑り的に酷評してもいいのだが、唯一の救いを主演女優に見たので、公平を期すためにも褒めるべき点はきちんと褒めておく。

純粋=世間知らずなイタリア旅行者を演じたクセニア・ソロがばちくそカワイイ。

「カワイイ」なんて言うと「おまえの好みじゃねえか。主観でモノを言うな」と思われるかもしらんが、さにあらず。

まぁ実際、主観的な好みでかわいいと思っているのは事実だが、たぶん客観的に見ても称賛に値する芝居だと思います!

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ソロの奇妙な冒険。


真面目に語るならクセニア・ソロの国籍に触れねばなりません。

彼女はラトビア出身の新人女優なのだが、ラトビアと聞いても地理に疎い私なんかは全然ピンとこない。どうか笑ってやってくださいよ。目の前に地球儀を置かれて「ラトビアを示せ」と言われても「ンーフ~ン」と言いながら地球儀をぐるぐる回すことしかできない。

そもそもラトビアってなんじゃ。

知るか。

滅べ!

 

そんなラトビア人のソロちゃんがアメリカの片田舎からイタリア一人旅へと繰り出すので、本作には不思議な無国籍性が漂っているのである。

初めてこの映画を知ったときは、フェリーニをモチーフにしていることから「イタリア映画なのかな?」と思ったのだが、ポスターに写っている主演女優を見るにつけ「フランス人?」とも思うわけで、「でもイタリアの女優に見えなくもない…」などと判断を留保したままいざ映画を観てみると劇中ではアメリカ人という設定。「そんなバカな」と思ってあとで調べてみるとラトビア人かい! ていうか何処やそれ。滅べ」と言ってラトビアの滅亡を願うに至れり。

要するに、フェリーニを扱っている以上はイタリア映画であるべきなのに、実はアメリカ資本で、主演女優はラトビア人(フランス人にも見える)…という、多国ごった煮状態=もはや無国籍…といった不思議な空気が漂っている作品なんである。


映画を観るわれわれは普段ほとんど意識しないが、アメリカ映画を観るときはアメリカの風土を、フランス映画を観るときはフランスの風土を無意識に感じ取りながら、そこに安心感なり諦めを覚えてアメリカなりフランスの風土に身を任せながらその国の映画に浸っているわけだが、たとえば日本映画でも黒沢清がまさにそうであるように、無国籍映画というのは国籍という足場が奪われた映画群を指すので、観る者は寄る辺ない不安感とか浮遊感に身を委ねることになる。

音楽に置き換えると分かりやすいと思う。われわれは曲の言語とかリズムによって洋楽なのか邦楽なのかを判断しているし、どちらにも当てはまらない曲はだいたい中東とかその辺というふうに国によって識別しているが、そのいずれにも該当しない曲を耳にしたときにわれわれが何を感じるかというと無国籍を感じるのである。

無国籍=国単位で判断できない無根拠な酩酊感覚。


そして本作は、出発点のアメリカと目的地のイタリアの往還者として、そのいずれにも属さない「限りなくフランス人に見えるラトビア人」のソロちゃんを起用することによって、まさにフェリーニ作品のような寄る辺ない幻想世界を表現したのではないか…という深読み試論をしてみた。どう?


というわけで「フェリーニ」という部分にあまり反応しなければスッと楽しめる映画なのかもしれないが、とは言えこれだけフェリーニ推しなのに「フェリーニに反応するな」って条件を呑まないと楽しめないような映画にいかほどの価値が? とも思うわけで。

ひとまず私はクセニア・ソロという新人女優をチェックできたので良しとします。

ソロちゃんがかわいいのでゆるす。

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フェリーニに恋してゆうてるのによその男に恋しとるやないか。

 

グッバイ・ゴダール!

誰が喜ぶねん、この映画。

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2017年。ミシェル・アザナビシウス監督。ルイ・ガレルステイシー・マーティンベレニス・ベジョ

 

パリの大学で哲学を学ぶアンヌは、もうすぐ19歳。ある日彼女は、映画を変えたと世界中から注目される天才監督ジャン=リュック・ゴダールと恋に落ち、彼の新作映画で主演を飾ることに。新しい仲間たちとの映画づくりやゴダールからのプロポーズなど、生まれて初めての経験ばかりの刺激的な毎日の中で、様々なことを夢中で吸収していくアンヌ。一方、パリの街ではデモ活動が日ごとに激しさを増し、ゴダールも次第に革命に傾倒していく。(映画.comより)

 

はいどうも、ごっつぁんです。

昨日はipod touchの調子がおかしくて、機械と格闘してるうちにブチ切れてしまいました。

「アップデートをしろ」とうるさいからアップデートすると「パスワードを入れろ」とか「もっぺんパスワードを入れろ。ちゃう。さっきのとはちゃうやつや」とか「わからんかったらこの番号に電話せえ」とかあれこれ命令されるもんだから、だんだん腹が立ってきて、ついこっちも文句を言い始めて。

「こないだアップデートしたばっかりやないか。なにをそんなアップデートすることがあんねん。たまにするから良いんやろ?」とか「パスワードを教えてくれる為のパスワードって、なんやそれ。それが分からんから聞いてるのに。雁字搦めやないかい!」なんつって、大喧嘩ですよ。

しまいには双方ぐったり疲れて、一旦2人でコーヒーを飲みながら「どないすん?」「ほんまやで。どないすーん?」と言い合ったり。

こうして俺たちの絆は深まっていくのかな…。

 

あいよ。本日はグッバイ・ゴダール!というほぼ誰も興味のない映画を観たので、楽しくご報告申し上げます!

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◆果たしてこれは誰に向けた映画で、何のために存在するのだろう◆

中期ゴダール『中国女』(67年)で主演を務めた女優アンヌ・ビアゼムスキーの自伝小説の映画化である。さぁ、誰が興味あるんでしょう。

アンヌがゴダールと結婚して五月革命を駆け抜けた2年間が描かれているのだが、題材がピンポイント過ぎてすげえ。

ただでさえゴダールは60年近いキャリアを持ち、47本の映画をすべて観れば理解できるという単純な映画作家ではなく、映画史や政治とも密接な関わりを持っているので知っておかねばならないことがとにかく多い。カイエ・デュ・シネマヌーヴェルヴァーグ、ジガ・ヴェルトフ集団、五月革命毛沢東思想、ソニマージュ…。

だもんで、映画好きにとっての最難関人物というか、まぁはっきり言ってここでイチからゴダールを解説する気も起きないぐらいすこぶる面倒臭い人物だし、そもそも上手く解説できる自信もないので前提知識の共有は放棄する

ゴダールの概説なんてする気も起きんわ。興味ある方は各自で調べてくださいね。

知らない。請け負わない。そっちでやってよ!


まぁ、それぐらい長い歴史と面倒なアレやコレやがある人物なので、『中国女』で知り合ったアンヌとゴダールの結婚生活(その内のわずか2年間)だけを切り取った本作はピンポイント過ぎるのである。

しかもアンヌの視点からバイアスかかりまくりのゴダール像が描き出されるので、ゴダールに関する客観的な描写はなきに等しい。したがってヒッチコック(12年)『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』(15年)といった実在の映画人を扱った劇映画とはまったく異なる性質を持っている。ここで描かれているゴダールアンヌから見た夫としてのゴダールなのだから。

なので私は、本作を観ながら「果たしてこれは誰に向けた映画で、何のために存在するのだろう?」という疑問と取り組むはめになった。

ゴダールを描く気がないなら「よくある結婚生活の話」だけがあとに残るわけで、だったらその対象がゴダールとアンヌの結婚生活である必要もない。

監督のミシェル・アザナビシウスはアカデミー作品賞に輝いた『アーティスト』(12年)サイレント映画へのオマージュを捧げ倒した男だし、『メリエスの素晴らしき映画魔術』(12年)というドキュメンタリーにも出演していることから相当なシネフィルだと思っていたが、グッバイ・ゴダール!はおよそシネフィルが撮った映画とは思えないほどゴダールへの言及を避けており、「夫に蔑ろにされる妻の孤独」などというメロドラマに湿っている。

せっかくのゴダール関連作なのにそれでいいのか感がすげえわけである。

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『中国女』の主演アンヌ・ビアゼムスキー(左)と、本作で彼女を演じたステイシー・マーティン(右)。


◆難しい映画じゃないですよ◆

とはいえ、まあいいじゃないですか。堅苦しい話はよしましょうや。あくまでアンヌの自伝映画なんだからさぁ。あまりゴダール固執するのは無粋というものですよ。ふ・か・づ・め・さん!

…とテメェ自身をなだめすかして、キレイな魂で本作を観ました。


キレイな魂で観るぶんにはそれなりに楽しめる作品であった。

なんといっても、画面を彩る60年代フレンチカルチャーの数々に心躍りて。

ゴダールなんて一本も観たことないけどメチャ楽しめるぅー」といって魂をぽよぽよさせていたレビュアーがいたように、おもちゃのような室内とか原色の衣装がじつに可愛らしい。ファッションや風景もポップなので、ただ画面を眺めているだけでも心ウキウキ、魂がぽよぽよするというわけだ。

こうしたポップなビジュアルはメイド・イン・USA(66年)とか彼女について私が知っている二、三の事柄(67年)に見られる60年代後期のゴダールタッチを再現したもの。

アンヌを演じたステイシー・マーティンなんて、まさにゴダール作品に出てきそうな貌である。60年代の作品を支えたアンヌ・ビアゼムスキーとアンナ・カリーナを足したような少々キッチュだが線の細い美女で「いるいる!」という感じがする。

さらに言えばこのステイシー嬢、ヌードシーンでの肌の質感までゴダール的なのだ。いかにもゴダールが撮りそうな裸体というか。

ゴダールフェティシズムもここまで度を越すともはや変態である。


また、ステイシー嬢が着ている服、それに本棚やカーテンなど、全編に渡ってを基調とした色彩が目を引くわけだが、これは『中国女』のカラーをそっくりそのままなぞったもの。赤は共産主義の色であり、当時のゴダール毛沢東思想に傾斜して文化大革命に憧れていたのだ。

だからルイ・ガレル演じる若き日のゴダールは、いわば文化大革命のパロディでもある五月革命に身を投じ、アンヌ(ステイシー嬢)との夫婦関係に溝を作ってしまう。

革命に狂っていた60年代のゴダール「映画を取るか、政治を取るか?」という葛藤に苛まれていて、本作のなかでも政治映画として撮った『中国女』の評価が振るわず、街でファンに出会えば「また勝手にしやがれ(60年)みたいな映画を撮ってくれよ!」と不本意なことを言われてしまうというシーンまであるのだ。

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画像上が『中国女』。真っ赤っか。それを受け継いだ本作も至るところに赤の配色が。


アンヌは映画革命児としてのゴダールに惚れていたので、彼が政治にのめり込むほどに愛は冷めていく。

早い話、この映画は私が愛したのは今のあなたじゃない!系の悲恋なのである。

今の時代、ゴダールと聞いて「どうせシネフィル好みの監督でしょ? ハードル高えよ」といって及び腰になる映画好きは多かろうが、そんな人にこそグッバイ・ゴダール!はうってつけの一本。

アンヌの視点を通すことでゴダール感はかなり希釈されているし、何より本家本元のわけのわからなさはどこにもなく、一本筋の通った劇映画としてまとめられている。

「服かわいいー。内装かわいいー」なんつってファッション感覚で観ても十分楽しめる上に、ゴダールのこともちょっぴり知れるというオマケもつく。

実際、私は画面に向けた眼差しの約70パーセントをステイシー嬢の髪型に注いでおりました。

髪型評論家ですから。

癖毛をそのままに、ドゥルッと弧を描くミディアムヘアがメチャ最高!

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ドゥルッとヘアーを惜しみなく見せつけていくステイシー・マーティン。こいつぁいいや!


◆ぜんぜん難しい映画じゃないですよ◆

ここからは「もちろんゴダールは押さえておりますよ。なめてたら殺しますよ」という怖い怖いシネフィル諸兄をこの映画に向かわせるための文章に特化しようと思う。


本作のおもしろさは全編の端々にゴダール演出がばらまかれているということ。

たとえば壁際に立ってカメラ目線で喋る人物。ゴダールはメタ(カメラ目線)と平面性(壁際)を強調することで映画制度を解体した人物だが、本作でもバッチリやってます。イェイ。

そしてソニマージュ(音と映像の融合)。ゴダールお家芸といえば、画面に文字情報だけがデカデカと表示されて、それとは無関係の政治的発言がボイスオーバーとしてひたすら流れる…という字幕鑑賞者殺しの演出(二種類の字幕が同時に表示されるわけです)

ただし本作でこれをやると「わかりやすい劇映画」というコンセプトが崩れてしまうので、「口にした言葉」が音声として流れ「心で思っている本音」が字幕で出てくるといったユニークな試みをしています。イェイ。

そのほか、ゴダール映画に欠かせないコラージュ(テクストの羅列)にも言及したいのだが、ちょっと自分でも退屈になってきたのでやめる。

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ゴダール演出① 壁の前に立って観客に語りかける(左)。

ゴダール演出② 文字情報の羅列と政治的ナレーションで観客を苦しめる(右)。


ゴダールとゆかりのある人物もぞろぞろ出てくるので、映画好きなら「あっ」とか「ほーん」と思いながら楽しめるかもしれんぞ。

フランソワ・トリュフォーアラン・レネクロード・ルルーシュらを従えたゴダールがカンヌに殴り込みをかけて映画祭を中止に追い込んだカンヌ映画祭粉砕事件は音声処理とはいえしっかり掬っているし、ベルナルド・ベルトルッチと訣別したエピソードも盛り込まれている。

その後ゴダールがジャン=ピエール・ゴランと出会って「ジガ・ヴェルトフ集団」を結成する流れに至っては「誰が喜ぶねん、この映画」と思いながら画面を観ていたが、私がもっと呆気にとられたのは、『東風』(70年)のロングテイクを撮るかどうかで揉める様子をラストシーンに持ってくるというマニアぶり。

いやだから…

誰が喜ぶねん、この映画。

ターゲット層狭すぎでしょ。

 

とはいえ、そうしたマニアックなディテールを無視しさえすればゴダールを知っていようがいまいが無前提的に楽しめる作品になっています(もちろん楽しめない人にとっては無前提的に楽しめない)。

それは取りも直さず、ゴダール作品自体が難解なように見えてなんら教養を必要としない純粋映画であることを祝福しているのである。

ゴダールを難解だと感じるのは「映画」ではなく「意味や物語」を見てしまっているからにほかならない。

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アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル

スケート選手からボクサーに転身した女の流転人生。

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2017年。クレイグ・ギレスピー監督。マーゴット・ロビーセバスチャン・スタンアリソン・ジャネイ

 

貧しい家庭で厳しく育てられたトーニャは、努力と才能でフィギュアスケーターとして全米のトップ選手への上り詰めていく。92年アルベールビル五輪に続き、94年のリレハンメル五輪にも出場するが、92年に元夫のジェフ・ギルーリーが、トーニャのライバル選手を襲撃して負傷させた「ナンシー・ケリガン襲撃事件」を引き起こしたことから、トーニャのスケーター人生の転落は始まっていた。プロデューサーも兼ねてトーニャ役で主演したロビーは、スケートシーンにも挑戦。(映画.comより)

 

おはす。

最近は楽しそうな映画がビデオ屋にずらっと並んでいて、グッバイ・ゴダール!(17年)とかフェリーニに恋して(16年)などを観ては「ほっほーん」などと嘆息を漏らしている私ですけど、それと同時に古典映画も相変わらず楽しんでおりますよ。イェイ。

毎年この時期になると古典映画に傾斜してしまい、とびきり昔の映画に想いを馳せたくなるんです。わかるか。

逆に、夏のあいだは大味な最新映画ばかり観てしまい、とても古典映画なんて観る気分にはなれない。大昔の映画とかウゼー、ダリー、白黒映像なんか観てられるか音ガサガサすんなハキハキ喋れ。つって。

人間、寒い季節はおのずと内省的になり、暑い時期は思考回路が鈍るものなので、まぁそういうことなんでしょうね。

本日評する映画はアイ,トーニャ 史上最大のスキャンダルですよ。まあ読んだったりーな。

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◆あるフィギュアスケーターの実話◆

「自分との戦い」とか「最大の敵は自分自身」などという御託をいくら並べてみたところで、競う相手が存在する限り勝負の世界はいつだって妬み嫉みだ。負けたのに晴れやかな顔をしてるような奴はたぶんハナから勝負などしていないし、勝者と敗者が互いに健闘を讃え合うようなメロドラマなんて見せられた日には胃酸が食道を駆け回って胃酸運動会が開かれるというもの。

フィギュアスケート選手のトーニャ・ハーディングナンシー・ケリガン襲撃事件にどこまで関わっていたかという事はこの際関係ない。

肝心なのは、彼女の執念がオリンピックでのメダルではなくスケートそのものに向けられていることだ。

彼女はトリプルアクセルを成功させるごとに、自らを「氷上のマシン」に育てあげた憎き母親の自己実現を叶えてやりながら、同時に復讐をも果たすのである。

母親がスケート会場の観客を金で雇ってトーニャを罵倒させるシーン。煽られたトーニャはその怒りをエネルギーに変えて見事にトリプルアクセルを決めるわけだが、彼女を勝利へと導いた母親のやり方は恐ろしいほど残酷で無機的である。

母親はトーニャに一片の愛情すら感じたことがないと言ってのけ、愛されないと知ったトーニャはスケートを通してその承認欲求を大衆に向ける。

彼女にとって最大の敵は母親なのだ。


ところが、襲撃事件に関与したことで世間から大バッシングを受けたトーニャは「敵はオマエだ!」と言ってカメラを睨みつける。どうやら我々大衆も敵とみなされたようだ。

調子のいいときは祭り上げ、スキャンダルひとつで掌を返したように批判し、飽きたらすぐに忘れて次の獲物にたかり出す。

大衆、それはハイエナ。まぁ敵だろうな。

この映画を観た人間は、暴力と罵倒を浴びせてスケートを強要し、挙げ句の果てにメディアとグルになって娘を売ろうとした母親のことを最低のゲスマミーと思うだろうが、ほかでもなくそれは我々大衆の姿でもあるのだ。

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カメラを睨みつけて我々に語りかけるメタ炸裂映画。


◆トーニャは二度宙を舞う◆

メディア風刺、大衆批判、偶像崇拝

アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダルナンシー・ケリガン襲撃事件をモチーフに、そうしたテーマを裏から表から縫い上げたブラックな作品である。

ちなみにナンシー・ケリガン襲撃事件の概要は面倒なので言わない。

この事件は1994年にライバル選手のナンシー・ケリガンが何者かに襲われ、トーニャに疑惑の目が向けられたという一大スキャンダルである。

ああ言うてもうた…。

トーニャを演じたのは、本作とは別の意味でスベったスーサイド・スクワッド(16年)の壊滅的な拙さを補って余りあるほどの魅力を見せつけたマーゴット・ロビー

そして監督はラースと、その彼女(07年)でぼちぼち知られているクレイグ・ガレスピー。映画監督の友だちから「君もやりなよ」と勧められて監督業を始めたような情熱希薄にして動機不純のあかんたれである。

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画像左「私が本当のアイ,トーニャ」

画像右「私も負けじとアイ,トーニャ」


先述の通りきわめてブラックな内容なのだが、ブラックはブラックでもブラックユーモアの畳み掛けによって本来のドス黒さがずいぶん希釈されているので、まぁ、はっきり言ってかなりポップな作品であるから敬遠するなかれ。敬遠はやめとけ。

たとえばトーニャの結婚相手がDVを振るうようなクズ男で、彼女も負けじと股間を蹴り上げて応戦するのだが、そんな凄まじい暴力の応酬が夫婦漫才のようなタッチで描かれているのだ。奇しくもマーゴットの出世作にもなった『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(13年)のようなハイスピード・ブラックコメディである。

とはいえ女性がボッコボコに殴られる作品なので並の女優が演じても惨たらしさが出てしまうが、そこはマーゴット、スケート界の反逆児というトーニャ本人のキャラクターも手伝って、じつに頼もしい相貌で暴力描写を跳ね返してのけた!

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ほぼほぼハーレイ・クインやん。


物語は現在のトーニャ(マーゴット)とその関係者へのインタビュー形式を採っていて、20年前のナンシー・ケリガン襲撃事件に関するインタビュー発言がその都度フラッシュバックで回想される…という構成になっている。

さまざまな人物の主観に基づいたインタビュー発言がそのままフラッシュバックされるので 回想シーンが真実とは限らない…というのがミソ。

この構成によっていくつかの謎を残したナンシー・ケリガン襲撃事件の真偽の断定を避けているわけだが、この映画を観たスケート界の連中はバカなので「実際と違う!」と声を荒げて批判している。

いや…、うん。だから「実際は違うかもしれないけどね」という前提で作られた映画なんですけど…っていう。

劇中でトーニャ自身も「真実なんて存在しない」と言っていたのにナー。聞いてなかったのかナー。2~3回言ってたのにナー。全部聞き逃したのかナー。


すべてのキャリアを失ったトーニャは後にボクサーに転身するのだが、このラストシーンが何ともせつない。

全盛期にはトリプルアクセルで美しく宙を舞っていたイメージが、今となっては殴り飛ばされて宙を舞うというイメージに。

そして頭から落下したリングの白さが、かつて美しく着氷していたスケートリンクを連想させる。飛翔と落下。この反復技法によって対比されるトーニャ・ハーディングの栄光と没落。

そして映画は、10カウントの内に立ち上がったトーニャが白いリングに吐いた血ヘドを捉えたままエンドロールに突入する。その血ヘドは純粋の白を否定する赤い闘志であり、自らの人生に影を落とす暴力そのものでもありました。

うーん、見事な着氷。

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宙を舞うイメージの連鎖と、トーニャという人物を端的に表した血ヘド。ご丁寧に「I, Tonya」のタイトルバックまでつくラストシーン。


◆『アイ,トーニャ』はアメコミ映画◆

そんなわけで『アイ,トーニャ』はお気に入りの作品となりました。おめでとうございます。

マーゴット・ロビーはなかなか面白い芝居をするし、よく撮れていると思う。ショートプログラムで披露する踊りのちょっとした仕草がチャーミングで、そこだけ何度も観ちゃった。このシーンだけアメリカ国立フィルム登録簿に永久保存してもいいんじゃないだろうか。違いますか。

また、フィギュアスケートという題材はほかのスポーツと違って撮影・編集のゴマカシが利かないので本人に頑張ってもらうしかないのだが、マーゴットはよく頑張りましたね。あれだけ回転すれば目が回りそうなものを、よくぞ三半規管を訓練しました。『聖なる鹿殺し』(17年)のファレ坊をも凌駕する回転ぶり(ちょっと回っただけでフラフラなっとったからな、あいつ)

まぁ、ロングショット不在問題とかスピン早回し問題といったゴマカシ丸出しな箇所は多々散見されるのだけど、もうええねん、ええねん。あんま厳しいこと言わんたったりーな。

私が本作を若干贔屓しているのはマーゴット・ロビーと生年月日がまったく同じだからという正当な理由に基づく。贔屓、もはや、不可避。


そして、そして!

以前『gifted/ギフテッド』(17年)「ハリウッドという名の死の荒野に咲いたマッケナちゃんという花」とか「マッケナちゃんに飛びつくな! やめろ、離れろ!」といった数々の取り乱した発言を残した私に、本作はとんだサプライズを用意してくれました。

 

トーニャの幼少期をマッケナ・グレイスちゃんが演じてます!

 

いよっ、マッケました!

したがって本作も『gifted/ギフテッド』同様、マッケナ見てほっこりするほっこりマッケナ映画に名を連ねたというわけだ。

マッケナちゃん扮するトーニャは幼少期から誰にもマッケナいフィギュアスケーターとしてその片鱗を見せつけていた天才児なので、まさに『gifted/ギフテッド』で天才少女を演じたマッケナちゃんにお誂え向きの役なのである。

ちなみに『gifted/ギフテッド』でマッケナちゃんの叔父を演じたのはキャプテン・アメリカクリス・エヴァンスだが、本作ではトーニャの旦那役をセバスチャン・スタンが演じている。

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 MCUのバッキー!

こうなってくると、もはや本作はアメコミ映画ということが言えると思います。マーゴットもスーサイド・スクワッドの主演だし。

さらにマッケナ朗報をひとつ…。

マッケナちゃんは来年公開の『キャプテン・マーベル(19年)にも出演するぞっ。

 

……。

 

いい加減にしろ!!

アメコミばっかり!

 

おまけの一枚。

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トリプルアクセルの飛翔中に「いけいけ回れ頼む頼む」と願うさまがチャーミングなわけです。

 

 

白い闇の女

酷評するほどひどい出来ではないのに、それでも酷評する理由。

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2016年。ブライアン・デキュベリス監督。エイドリアン・ブロディイヴォンヌ・ストラホフスキーキャンベル・スコット

 

ニューヨークで働く事件記者ポーターは、パーティ会場で美しい未亡人キャロラインと出会う。彼女の夫は映画監督だったが、不可解な死を遂げていた。既婚者でありながらキャロラインと関係を結んでしまったポーターは、情事の後で彼女から奇妙な依頼を受ける。それは、キャロラインの夫が遺したビデオを見てほしいというもので、彼女は何故か警察の調書や現場写真まで持っていた。ポーターは危険な罠だと勘づきながらも調査を進め、やがて事件の核心に迫るが…。(映画.comより)

 

おはようございます。

ああ言うてもうた…。

楽しい前置きを書いて皆さんを喜ばせようかなと思っていたのだけど、お腹が空いたので春雨を食べようと思います。春雨食べてきていいですか。春雨の感想は明日ちゃんと言うので食べてきていいですか。

え、あかんの?

解放してくれないの? 前置き書かなあかんの?

え、春雨…。

っていうか空腹…。

べつにいいでしょ。前置きぐらい。普段書いてるんだから今日ぐらい。

え、あかんの?

まだ解放してくれない? 本当にお腹すいてるんですよ。

お腹がすきすぎるとお腹痛くなってくるよね。もはやペイン。

だから春雨が食べたい。春雨を食べるために前置きを免除してほしい。

それを頼んでいる。俺はそれを頼んでいる。

とても簡単な要求。キミが「いいよ」って言ってくれたらすぐ春雨食べにいける。

パソコンから離れてすぐ春雨食べにいける。簡単な話。

すぐ春雨食べたい。だから頼んでいる。

どうですか。春雨食べていいですか?

 

え、あかんの?

 

まだあかんの?

いつまであかんの?

あかんくない日は来るん?

来おへんの?

え、来おへんの?

あーらら。

というわけで本日は『白い闇の女』を酷評! これはあかん映画です。第三章はちょっと半ギレです。それではレッツゴー。

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◆なにこの映画◆

記者のエイドリアン・ブロディが未亡人のイヴォンヌ・ストラホフスキーと肉体関係を持ってしまったことで、ヘンな死に方をした夫の事件を調べるはめになる。

亡き夫はイヴォンヌを困らせて彼女が怒った様子をカメラで撮影してはそのメモリーカードを後生大事に保管するような奇天烈な奴だった。もちろん夫婦関係はすでに険悪である。

「え。普通に考えてイヴォンヌが殺したんじゃないの?」と私は思ったが、まぁ早合点するものではない。映画を観ましょう、映画を観ましょう。

で、映画を観ていくと、ブロディが苦心惨憺した果てにようやく見つけたメモリーカードの中にはイヴォンヌが夫を殺害した瞬間がばっちり映っておりました。

おわり。

 

 

……………………。

 

 


ドンッ!(床を蹴る音)

 

 


まったく人を食った映画だ。

「夫殺しの犯人は妻かもしれない」と思わせておいて「ええ、そうですとも妻ですとも」というところに113分かけて軟着陸しただけのとってもマイペースな作品でした。

とはいえ私は「映画」を観ているのであって「物語」を見ているわけではないので、こちらの予想通りの結末だろうが予想外の結末だろうがそんなものはこちらの勝手な都合。すべて予想通りに話が進んだからといって「くだらねえ」と断じてしまうのは批評ではなくただの感想であることも承知している。

次の章では、私が床を蹴った理由について弾丸列挙していこうと思う。

処刑のお時間です♡

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◆雑兵部隊によって作られた映画です◆

「夫殺しの犯人は妻かもしれない」というA地点と「やっぱり妻でした」というB地点の結び方、すなわち真相究明までのプロセスがぜんぶ寄り道なのでプロセスの体すらなしていない。

いわば 女子会のごとき脈絡のない話がポンポン飛び交って、でも序論と結論だけは「やっぱり恋したいよね」というところで一致している…みたいな無理くり話をまとめた感。


サスペンス映画なのにサスペンスの不在という少々おもしろいことが起きている点にも注目したい。

私からは一言、「酒と煙草が撮れないならサスペンスには手を出すな」という忠告をさせて頂きます。

たとえばブロディがイヴォンヌ宅で事件の話をするシーン。いくつか秘密を抱えた彼女は都合の悪いことを追究されないようにブロディを酔わせようとして強い酒をがんがん注ぐのだが、「酒を撮る」というのはガンガン注がれた酒をガンガン飲むということではなく、たとえばブロディが酔ったふりをしてイヴォンヌから重要な話を引き出すといった駆け引き(サスペンス)をやれということだ。

そして「煙草を撮る」というのは、たとえば窓辺で一服しながら話し続けるイヴォンヌの顔を煙草のけむりで覆うことによって「その言葉が嘘かもしれない」と観客に示唆する…といった演出である。

そうした小道具を使ったサスペンスがどこにも見当たらないのは怠惰と言うほかない。

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ブロディに酒を与えるイヴォンヌ。


また、本作の中心には「人妻との情事」というエロチシズムが、イヤン、アフン、もしくはウッフンと屹立していて、いわば本作はファム・ファタールもののエロティック・サスペンスなのだが、その主演にエイドリアン・ブロディを配置したのはなかなかいいと思います。

ブロディといえば公私に渡るスケコマシ俳優なので、妻子がありながら未亡人との不倫にのめり込んだせいで事件に巻き込まれて痛い目に遭う…という鈍臭い主人公をより鈍臭く演じている。

問題は肝心のファムファタール役で、これがイヴォンヌ・ストラホフスキーという女性アスリートみたいな顔をした女優なのだ。

ファムファタールらしい影や妖しさとはおよそ無縁で、むしろ陽光がガンガン降り注ぐなかでラケット振り回したり棒高跳びとかしてそうな、まさに健康そのものといった感じ。アクエリアスの似合う女。ナイキの似合う女。

こんなバカみたいな配役をしていることから、おそらく作り手はジョーン・ベネットもリタ・ヘイワースも観ていないのだろう。処刑しない手はない。

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エイドリアン・ブロディ(左)…戦場のピアニスト』(02年)で知られる八の字眉毛。見るからにスケコマシ。

イヴォンヌ・ストラホフスキー(右)…海外ドラマ『CHUCK/チャック』のレギュラーらしいです。前世は確実にアスリート。


そう、作り手。作り手にもケチをつけさせて頂く。

こんなことは言いたくないが、本作は新人スタッフの寄せ集めによって作られた、まるで新入生研修のワークショップみたいな作品である。「間違ってもいいからやってごらん」みたいな。

実際、監督のブライアン・デキュベリスをはじめ、撮影、編集、脚本、音楽、製作総指揮と、揃いも揃ってド新人ばかりで、過去に携わった作品がひとつもないという…あまりにもフレッシュすぎる布陣。

七人の侍(54年)でいえば戦闘経験なしの百姓部隊。付け焼刃も付け焼刃。烏合の衆も烏合の衆。隊列バラバラ、足並み揃わない、武器忘れてきた奴がパラパラいる…という無統制集団なのである。

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「雑兵」と打ったらこの画像が出てきました。この映画のスタッフです。

 

そんな中、ただ一人だけキャリアを持っているのが衣装係とはどういうことなのか。衣装係が一番のベテランかよ。唯一の侍かよ。あまりに心許ねぇ。

そしていちばん不思議なのは製作総指揮の一人にジャッキー・チェンが名を連ねていることだ。

おまえがミステリーだよ!

成龍、コラ!

なぜジャッキーのようなカンフー名人がこんなエロティック・サスペンスに関わっているのか。この映画最大の謎はここにありました。 


◆空振りでもいいからバットを振れ!◆

とはいえ、べつに世間の評価は私ほど辛辣ではないし、むしろ好意的な評も散見されるので たぶんここまで貶してるのは私ぐらいのものだろう。

実際、「サスペンスの不在」という致命的な欠陥を除けば、たしかにここまで悪しざまに貶すような作品ではないのは事実。認める!

だとしたら、ここで言いすぎたことを反省して掌を返すように美点を挙げていくのかといえば、ノン。断固ノン。

むしろ、より批判の切っ先を研いでこの映画にトドメを刺すつもりでいるから覚悟されよ。


酷評するほどひどい出来ではないのにそれでも酷評する理由は、酷評するほどひどい出来ではないからというトートロジーに帰着する。

ここからは私の持論タイムというか、まぁ感情論ね。ご容赦。

この世で最も許しがたい映画とは、ごく普通の出来栄えに収めようとする穏当な姿勢によって撮られた「普通の映画」である。

私は思いきりバットをフルスイングして空振りした映画より、バットを振らずにフォアボールで一塁に進んだ映画をこそ唾棄する。野球ならアリだが、映画ではナシだ。

100点を狙ったけど0点だった映画より、50点を想定して狙い通りに50点を取った映画の方がタチが悪いだ。

どんなムチャな球がきても、バットを握っている以上はそれを振ってくれ。

戦略的に「バットを振らない」という選択をすることは、それはもう表現ではなく商戦なので、そういう映画人は即刻業界から退いて頂きたいと思います。レッドカードだ!

 

で、この『白い闇の女』という作品は終始守りに入っていて。

10人中4人の観客に「まあまあ良かった」と思ってもらえれば御の字…という当たり障りのない作り方をしていて、ハナからバットを振る気がない。こだわり、情念、玉砕精神。そうした表現欲を持たない雑兵インポ集団がテンプレ通りのエロティック・サスペンスをなぞっているだけ。

まぁ、はっきり言って『殺意の香り』(82年)のマガイモノを低いテンションで作りました…という感じの作品である。『殺意の香り』パクったでしょ? バレとんのじゃ!

せっかく新人スタッフばかり揃ったんだから青臭い情熱を映画に叩きつけてくれないと。「失敗するかもしれないけど、どうしてもこれがやりたいんです!」というモノを見せてくれないと。

雑兵の底意地、見せんかえ!

 

先ほどエイドリアン・ブロディの配役だけは褒めたが、見せ方は惨憺たるもの。

「ブロディは適役だしキャリアも積んだプロだから、まぁ放っておいても上手くやってくれるでしょ~」とばかりにカメラが被写体を放置してる状態で。だから髪型も衣装も終始変わらない。

作り手の映画への無関心がバキバキに浮き上がってます。

最後にエレファントカシマシ「穴があったら入いりたい」から、この歌詞を本作に贈りたいと思います。


おい うまくやってるつもりだろうが全部ばれてるぜ 御同輩!

 

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ビリー・リンの永遠の一日

味のある作品という気もするし、ただの失敗作という気もする。

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2016年。アン・リー監督。ジョー・アルウィンギャレット・ヘドランドクリステン・スチュワート

 

2004年、イラク。味方を助けるために銃撃戦の中へ身を投じたビリー・リンは、その姿を偶然ニュースに取りあげられて国の英雄となり、一時帰国中に全米凱旋ツアーへ駆り出される。故郷で歓迎を受け再出兵をためらう気持ちが芽生える一方で、自分が英雄として扱われることに違和感を抱きはじめるビリー。そして戦地へ戻る前日、凱旋ツアー最大の目玉としてアメリカン・フットボールのハーフタイムイベントに招かれたビリーは、大歓声の中で戦地を回想する。(映画.comより)

 

朝なので、おはようござっていくわけです。

いつも前置きで朝の挨拶をしているけど、本当はこんな無意味なことなんてしなくないな。読者によっては昼に読む人もいるし夜に読んでくださる人もいる。にも関わらず朝の挨拶をするということは、その人たちのことをまったく考えてないと思うんですよ。

私は朝にブログを更新するから朝の挨拶をしてるわけですが、それは私の勝手な都合、挨拶という名の暴力、もはやエゴであって、朝以外に読んでくださる読者にとっては関係のないことです。

私は朝を振りかざしてしまっていたのです。

あまりに朝を振りかざしすぎた。朝こそ正義と言わんばかりに。これぞ太陽賛歌の申し子といえる。

しかし本来の私は夜行性。夜に生きる映画の吸血鬼。これまでは自分を騙しておはよう、おはようと言いすぎていたのです。

もう自分に嘘はつきたくない。本当の人生を手に入れたい。月光浴をして何らかのパワーを高めたい。

というわけで金輪際「おはようございます」という前置きはしません。朝なんか二度と来るな!

そんな誓いを立てた本日は『ビリー・リンの永遠の一日』について語っていきたいと思います。よろしくお願いね。

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◆なんだかよくわからない凱旋ツアー映画◆

ブロークバック・マウンテン(05年)ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日(12年)アカデミー賞をさんざん荒らし回ったアン・リーの最新作は、イラク戦争から帰還した若き軍人が周囲の称賛とは裏腹に戦場でのトラウマを引きずって延々葛藤する…というとてつもなく陰気な作品だ。

イラク戦争の広告塔となったブラボー隊の7人が全米各地を巡る凱旋ツアーへと駆り出され、アメリカン・フットボールのハーフタイム・イベントに招かれる。そこで主人公のジョー・アルウィンは戦地を回想するのだが、この作品は回想シーンが主体ではなく、あくまで凱旋ツアーをおこなう現在の時間軸に比重が置かれている。


なんとも不思議な作品である。頭がシャベシャベになりそうだ。

ドラマティックな展開やそれらしい苦悩が描かれることなく、ただ凱旋ツアーの工程が淡々と映し出されていく112分。

ホテルから出たブラボー隊の7人がぎゃあぎゃあ騒ぎながらリムジンに乗りこみ、クリス・タッカー演じる映画プロデューサーから「君たちの雄姿を映画にしたい」という交渉を持ちかけられる。会場に到着した一行はアメフト鑑賞を楽しみ、隊員の一人が前列に座っていた一般市民ともめて首を締める。主人公のジョーはチアガールの一人と恋仲になり、上官のギャレット・ヘドランドはぷりぷりしながら軍人の心得を説き続けた。

そしてハーフタイム・イベントが始まる。ビヨンセ的な歌手がここぞとばかりにケツを振って歌い、花火がボンボン打ちあがるステージの上で、ブラボー隊が気をつけをしたまま人々の「ブラボー」という歓声を受ける。

そしてイベントを終えたブラボー隊は再びイラクに出征した。

終わり。

 

終わるの?

 

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ハーフタイム・イベントがクライマックス。


◆なんだかよくわからないヘンな映画◆

映画はブラボー隊の7人を兵士ではなく人間として扱っているようだ。

事実、ここにはジョーを除く残りの6人が大いに羽を伸ばし、下品なジョークを飛ばし合いながらアメフト鑑賞を楽しむ様子や、人々の称賛を浴びたことでまるで自分たちが神にでもなったかのように傲然と振舞う様子が描き出されているのだ。

ジョーの姉を演じるクリステン・スチュワートは、再びイラクに戻ろうとする弟を涙ながらに止め、かと思えば恋仲になったチアガールは「あなたは軍人でしょ?」と言って再出兵に戸惑うジョーをイラクに行かせようとする。

ジョーたちを英雄視する大衆と、英雄視されることに違和感を覚える当人たち。

この両者の間に生じたズレをひたすら見つめ続ける映画…とでも申しましょうか。申しちゃいましょう。とにかく本作は一軍人の内的葛藤にフォーカスした内容で、いわゆる機関銃をばりばり撃って喜んでいるような「戦争映画」の即物性とは明らかに一線を画した作品である。

なんだろうな、これ。主題も内容もまったく違うが、どこかデヴィッド・クローネンバーグコズモポリス(12年)を思わせる観念性を湛えています。掴みどころがないというか。要するに頭がシャベシャベになりそうな映画ということだ。


ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日と同じく、幻想とも幻覚ともつかないマジックリアリズムのようなシーンが随所に見られるし、ジョーのケータイに届いたEメールが画面に直接スーパーインポーズされるという若々しい演出もよく跳ねているが、どうもこの映画のテーマと乖離しているように思えて私はあまり快く思わなかった。

まぁなんだ、一言で片づけてしまうとヘンな映画なのだ。

ことによるとアン・リーは酒を飲みながら撮ったのではないかと勘繰りたくなるほど、不思議な酩酊感が映画から三半規管を奪っている。したがって評価が難しい。どうすりゃいいんだ、俺は。こんなものを見せられて。

なかなか味のある作品という気もするし、ただの失敗作という気もする。

ただしアン・リーはこれを撮らねばならなかったのか? という疑問だけは明確に残るので、その点だけは厳しく追及したい。

イラクに派遣された米軍人たちのパーソナリティに釣瓶を落とすことで、軍人というフィルター抜きに彼らを見据えてイラク戦争の再解釈を促す…。

なるほど、狙いはわかるが それにしては遅すぎる。10年前ならともかく、なぜ今になってこの作品を世に送らねばならなかったのかと考えると、うーん…機を逸した感が尋常ではないわけです。

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ジョー(左)だけがアメフト観戦を楽しんでいない。


◆なんだかよくわからないけどキャストは豪華◆

死ぬほどパッとしない映画にも関わらずキャストがハンパに豪華というのが一層酩酊感を加速させるよな。

『トロン: レガシー』(10年)で初主演を飾ったギャレット・ヘドランド

ラッシュアワー(98年)のお喋りクソ野郎ことクリス・タッカー

この手のよくわからないマイナー映画によく出るクリステン・スチュワート

サボテン・ブラザーズ(86年)ピンクパンサー(06年)のコメディアン スティーヴ・マーティン

さらには映画一本で2000万ドルをゲットする世界一のギャラ泥棒 ヴィン・ディーゼル(すぐ死にます)

ちなみに本作の製作費は4000万ドル。この内容にしてはかなり破格の予算だが ほぼほぼヴィン・ディーゼルがかっさらったものと思われる。

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皆さんです。


主演のジョー・アルウィンは1991年生まれの男の子。たぶん素直な性格。映画初出演のド新人だが、驚くほど貌がいいのできっと売れるだろう(もちろん格好いいという意味ではなくスクリーン向きの貌ということ)

ちなみに男をとっかえひっかえするたびに失恋の痛手(笑)を曲にすることでお馴染みのウーウウッウッウー女、すなわちテイラー・スウィフトの最新ボーイフレンドらしいので、彼女の曲にジョーが登場する日も近いだろう。

なお、ウーウウッウッウー女は上官役のギャレット・ヘドランドとも過去に交際していた。ええ加減にせえっちゅーね。

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交際は順調らしい。

 

いずれにせよリダクテッド 真実の価値(07年)ハート・ロッカー(08年)アメリカン・スナイパー(14年)など、数あるイラク戦争ものとは明らかに異なる映像言語で作られた作品なので、もしもあなたがヘンな映画を好むのであればチェケラとだけ言っておきます。

そうね。ジャンルは違うけど『ドッグ・イート・ドッグ』(16年)によく似ているよ。

いったいアン・リーはどこへ向かおうとしているのだろう?

ついそんな思索に耽ってしまうような圧倒的迷作に後ずさりしながらの祝福。

 

というわけで今回の評は大失敗。

内容が内容なだけにフワフワした評になってしまったことをお詫びします。これはちょっと反省しなきゃいけないな。

ウーウウッウッウ~♪

テイラー・スウィフトにはまったく興味ないが長回しマニアとしては適度に楽しめるMV。

 

イヴの総て

オレの総てを『イヴの総て』にぶつけてやる!

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1950年。ジョセフ・L・マンキーウィッツ監督。ベティ・デイヴィスアン・バクスター、ジョージ・サンダース、ゲイリー・メリルセレステ・ホルム

 

ある日、新進女優イヴ・ハリントンはアメリカ演劇界の栄えある賞に輝いた。だが、彼女がここまで上り詰めるには、一部の関係者たちしか知り得ない紆余曲折の経緯があった。8ヶ月前、田舎からニューヨークへ出てきたイヴは、ひょんなことから憧れの舞台女優マーゴの住み込み秘書となった。するとイヴはこれを皮切りに、劇作家や有名批評家に巧く取り入り、マーゴまでも踏み台にしてスター女優へのし上がっていく…。(Yahoo!映画より)

 

おはようございます。

昨日は旧友とお酒を飲みながら5時間ぐらい映画トークをしてました。

私は角ハイコークが飲みたかったのに何度も角ハイボールと間違えて注文してしまったので、最後は友人に注文してもらうことでようやく角ハイコークにありつけました。うれしかったです。

「最近何観た?」という話に始まり 「12月31日になってスーパーで年始の買い溜めをする奴はバカ」という結論に達しました。相変わらず、そんな私たちです。

それでは本日は普段以上のボルテージでイヴの総てを熱評。

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◆ショービズの世界は足の引っ張り合い!◆

私の心の中には「映画好きなのに観てない映画TOP50」という恥ずべきランキングがあって、長らくその第5位に輝いていたのが本作。じつは過去に2回鑑賞に臨んだのだが2回とも開幕20分で熟睡を遂げている。

そんなわけで今回リベンジを試み、念願叶ってついに覚醒状態で最後まで観ることができたので気合いたっぷりに批評していこうと思う。

オレの総てをイヴの総てにぶつけてやる!


言わずと知れた名作なので、これまでちゃんと観たことのなかった私でもさすがに概要ぐらいは知っていた。

ハリウッド史上空前の大失敗作クレオパトラ(63年)でキャリアを潰して映画界から姿を消す前のジョセフ・L・マンキーウィッツが最も脂の乗っていた時期に撮った作品にして、大女優ベティ・デイヴィスの代表作なんでしょ。また、無名時代のマリリン・モンローが脇役で出演していることでも知られているんでしょ。その年のアカデミー賞では主要6部門を独占して大変な話題を集めた作品なんでしょ!


さて、本作は演劇界の内幕もので、イヴという新人女優が権威ある米演劇賞に輝く授賞式のシーンに始まるのだが、その会場には彼女の受賞を快く思わない業界人たちがいた。そこから物語は過去に遡って、文字通り「イヴの総て」がつまびらかにされていく…というのが大筋である。

この時点でおもしろポイントがいくつもあって、ひとつはイヴの総て(原題:All About Eve)という題を持ち、イヴを中心とした物語にも関わらず 主人公がイヴではないという裏切り。

そして 権威化した賞レースを辛辣に揶揄した本作がアカデミー賞6部門に輝いてしまったという皮肉。

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イヴを演じたのはアン・バクスター(↑)という女優なので以降は役者名を取ってアンと呼ぶが、この映画の主人公はアンが尊敬している先輩女優のベティ・デイヴィスなのである。

本作は、田舎から出てきた女優志望のアンがベティの付き人になって周囲の業界人にうまく取り入り、ベティの役を奪ってブロードウェイでのし上がろうとする腹黒女だったことが少しずつ明かされていく。

モロにショーガール(95年)の世界。

ところがこの映画は、周囲の人間を利用してのし上がっていくアンの視点ではなく、アンの奸計にはまって役を奪われるベティの視点から描いている。

ベティは中年の域に達したブロードウェイの大女優だが、自分を踏み台にして頭角を現し始めたアンが脅威となり、その思いはやがて嫉妬と憎悪に変わっていく。アンは腹黒女だが、ベティの方も老いという劣等感から前途有望なアンに対して醜い感情をむき出しにするのだ。

打算的な新人女優とプライドの高い中年女優の情念がぶつかる、女同士の熾烈な争い。

それがイヴの総ての総てである。


ベティ・デイヴィスという女優は生涯でアカデミー賞に11回ノミネートされるという当時の最多記録を持っており、この記録はキャサリン・ヘプバーンが1982年に破り、メリル・ストリープが2002年に塗り替えたが、とにかく賞レースでは圧倒的に強い女優。そんなベティが演劇界の大女優役という、ほとんど実物そのままの役を演じているあたりがおもしろい。

さらに言えば本作と同年に公開された古典映画の金字塔サンセット大通り(50年)グロリア・スワンソンも「老いに焦りを感じる大女優」という、ベティとほとんど同じような役を演じている。

サンセット大通りといえば今となっては映画好きなら必ず観ている名作としてイヴの総てより高い知名度を誇るものの、この年のアカデミー賞ではイヴの総てが圧勝した。賞のためなら平気で人を利用するアンを描いたイヴの総てが賞レースで圧勝し、再び銀幕に返り咲こうと必死になるあまりキチガイになってしまう凋落スターの哀れを描いたサンセット大通りが完敗したのだから、実に皮肉な話であるよなぁぁぁぁぁぁぁぁ。

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◆白い服が黒に染まるとき◆

『シネ刀』を初めたこの1年間は「古い映画を取り上げてもしょうがないだろう」という思いからクラシック映画禁止令を己に発令していたのだが、ブログ運営もようやく安定して書きたいことが書けるようになってきたので、最近は約1年ぶりにクラシック映画をチラホラと観だしているのだけど、ヘタするとイヴの総ては今年観た映画の中で一番よかった作品かもしれない。

過去に2回鑑賞したときになぜ熟睡したのかが分からないぐらい深い感動を覚えたので、以下はほとばしるパトスをひたすら叩きつけるだけの雑文となる。ご容赦。


まずはベティ・デイヴィスアン・バクスターの衣装に注目せねばならない。

ベティに憧れて劇場の表で出待ちしているアンを、ベティの親友であるセレステ・ホルムが「彼女に会わせてあげる」と言って楽屋に連れて行くところから本編の回想シーンが始まる。楽屋にはセレステの夫である劇作家のヒュー・マーロウと、ベティの付き人のセルマ・リッターがおり、ベティはその二人とキツいジョークを言い合いながらメイクを落としていた。

ここにアンとセレステが加わって合計5人となるわけだが、観る者はここでベティが白い服を着ていて、アンもまた白いコートを羽織っており、それ以外の人物がみな黒っぽい恰好をしていることに気づく(マーロウがグレーのスーツを着ている理由は後述する)。

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二人だけ白いですね。

 

この二人だけが特権的に白を身に付けているのはもちろん偶然ではない。

白は純粋の象徴なのだ。

この時点でのアンは心からベティを尊敬して付き人になりたいと願っており、ベティもまたアンの人柄のよさに惹かれて彼女を付き人として雇う。両者の純粋な好意が心地よく溶け合う、最も和やかなシーンである。したがって彼女たちが身に付ける色は白以外にあり得ないのだ。

さらに言えば、彼女たちが同色を身に付けるということはこの二人が運命共同体、もしくは似た者同士であることも示唆している。
ところが、アンがよからぬ野心を抱き、ベティも中年の危機に立たされて精神不安定に陥る中盤以降は、この「純粋な女たち」が黒い衣装を身に付け始め、やがて憎悪と欲望が渦巻くドス黒い人間模様が「白」を侵食し始める。

ベティの理解者であるセレステまでもがアンの邪悪な計画に与して背徳の十字架を背負うことになるので、もちろん楽屋では黒い服を着ている(↑画像右)。劇作家のマーロウだけが辛うじてグレーのスーツを着ることを許されたのは彼だけが打算で動かない人物だからだ(↑画像左)。

 

また、マリリン・モンロー演じるバカな新人女優だけが最後まで白いドレスを着続けたキャラクターであることも見逃せない。彼女は周囲の醜い駆け引きに加わることすらできないほど頭の悪い女、すなわち徹底して無垢な女として特権的に白を身にまとうことが許された唯一のキャラクターなのだ。

ベティの誕生日パーティーが大喧嘩によって台無しになった夜、一同が階段に座りこんでグチグチと言い争っているときでさえ、マリリンだけが場違いな笑顔を湛えてその白さを誇示している。

純粋とはバカのこと。

だがバカは平和をもたらす。

つまりマリリン・モンローは最高である。

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映画中盤。もはや純粋さ(白さ)を保持しているのはマリリンだけ。


◆怪物女優と丸顔悪女◆

50年代以前の古典映画はスタジオ撮影が主で、必然的に建物の中を舞台にした作品が多いため、本作のように衣装や美術を使うことでキャラクターの心理とか物語の状況を表象するといった演出が多かった。

映画にハマりはじめた若者が市民ケーン(41年)を学習的に鑑賞して「市民のオレには何が凄いのか理解でケーンと言ってヘソを曲げてしまう瞬間に何度か立ち会ってきたが、先にイヴの総てを観ていれば「当時の映画がいかに限定された方法論の中で画期的な演出を模索していたか」という事と「そんな環境にあって市民ケーンがいかに画期的な演出を実現しえたか」ということがお分かり頂けたかもしれない。とんだお節介だが。


それはそうと、たしかに本作はサンセット大通りに比べればいささか地味だし、同じベティ・デイヴィスの作品でも『何がジェーンに起ったか?』(62年)の方がより分かりやすく殺傷力の高い傑作なので、アカデミー賞を独占したとはいえ、今となってはあまり観る人がいない作品だとは思う。実際、私も今頃になってようやく観たわけだしな!

そういうわけで人をこの映画に向かわせるキラーワードは、もっぱら「無名時代のマリリン・モンローが出てるぞ。めちゃめちゃ可愛いから観ておけ」ということになるのだが、やはりベティ・デイヴィス「怪演」という言葉すら不適当なひとり交奏曲のごとき絶技の前ではマリリンなど赤子同然。

ベティ・デイヴィスのすごさを表現する際に「メリル・ストリープのような~」という比喩を使うことはある程度まで有効だが、手数の多さで芝居の余白を細かく埋めていくメリル・ストリープとは違って、ベティ・デイヴィスの芝居には「余白を埋める」という概念がない。いわば「休符すらも演奏の一部である」とするジョン・ケージの現代音楽のごとき前衛性が切っ先のよい刃物のように絶えずスクリーンを脅かすのだ。

したがって、ベティ・デイヴィスが「芝居をしている時」と「していない時」の区別がまったくつかないまま、人は彼女が芝居をしていない時でさえ「怪演だ!」という思い違いをしてしまうのである。

はっきり言ってバケモノだ。

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怪物女優、ベティ・デイヴィス(右)。


また、準主役のアン・バクスターも推していきたい。

若い頃のシャーリー・マクレーンに似ていて、今の言葉でいえば「ロリっぽい女優」ということになるのだろうが、本作のアン・バクスターを語る上でいちばん重要なのは丸顔の悪女ということである。

キャラクター造形はフォルム(輪郭や体型)によって決定される…というのは映画以外でもマンガ(たとえば手塚治虫)にも顕著なように、悪党は痩せていて、権力者は小太りで、親切な人間は肥満体型といった型があらかじめ決まっている。

そして映画における丸顔女優が「やさしい女の象徴」であることはリリアン・ギッシュクローデット・コルベールといった丸顔の歴史が証明している通りで、悪女というのはエヴァ・ガードナーとかバーバラ・スタンウィックのようなシャープな顔立ちの美人が演じるものと相場が決まっているのだが、アン・バクスターはこれを覆したわけだ。6頭身ぐらいしかない幼い顔立ちの彼女が貫禄たっぷりのベティ・デイヴィスを利用するという意外性たるや。

うーん…バクスター

また、米演劇賞を受賞したアンのもとに女優志望の女の子がひょっこり現れて、かつてのアンがベティに言ったように「付き人になりたいんです!」といって擦り寄ってくる超ブラックなラストシーンにもゾクゾクしてしまう。このようにして女同士の泥沼劇は世代を越えて繰り返される…。なんと完璧な円環構造。

 

また、アン・バクスターといえばオーソン・ウェルズ市民ケーンの翌年に撮った偉大なるアンバーソン家の人々(42年)や、ヒッチコック私は告白する(53年)で知られる女優だが、セシル・B・デミル十戒(56年)をピークとして墜落機のように凋落していった。本作で悪女のイメージがつきすぎて、それが枷になってしまったのだろう。合掌。

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左から順にベティ・デイヴィスアン・バクスターマリリン・モンロー


その他、『紳士協定』(47年)セレステ・ホルム『頭上の敵機』(49年)ヒュー・マーロウにも触れたいが、早くも5000字に達したのでやめる。

イヴの総ては、生き馬の目を抜く現代社会で悲喜こもごもの結束や裏切りに身をやつしているわれわれを映す鏡のような作品だ。モノクロ映画だからといって遠慮する必要はない。ここには「映画の総て」があるのだから。

上手いこと言うた!

上手いこと言うたぁぁぁぁ。